回想4
それからの2人の会話は、羽根が生えたかのように軽やかだった。丸山の、彼女のほうを振り向いて、その『間抜け』な一言を発するまでの、身を圧するほどの緊張っぷりが、まるで嘘のようだった。
彼女は丸山の冗談によく笑った。話してみて分かったのだが、彼女は極めて優れた話の聞き手だった。相槌や、表情のリアクションがいちいち的確で、元来どちらかというと寡黙な丸山も、彼女を前にしては、ついつい話しすぎてしまった。
そして、彼女は話す側に回っても、とても魅力的な話し方をした。彼女の話し方には、旺盛な好奇心に裏打ちされた深い教養と、女性らしい柔らかさとが同居していた。
気になるほどではなかったが、若干、イントネーションが独特で、語尾の『です』・『ます』が、少し舌足らずに、カタカナ書きの『デス』・『マス』のようになる向きがあったが、それさえも、彼女の柔和な魅力の一つになっていた。
丸山は、優れた聞き手であり話し手でもある彼女の話法に、知らず知らずのうちに引き込まれていった。
付き合いの長い軍の同期とのあいだであっても、これほど会話が弾むことは珍しかっただろう。
しばらくしてから、2人はお互いに自己紹介した。彼女の名前は『ユリ』といった。
彼女は案の定、ランドに遊びに行った帰途だった。本当は友達―女友達だろう―と2人で行く予定だったのだが、直前でその友達が急用で行けなくなってしまったため、やむなく1人で行った、とのことだった。新幹線の下車駅は、丸山と同じ名古屋だった。丸山が心中密かに欣喜雀躍したことは言うまでもない。
彼女は大学生だった。京都にある四大の、三回生とのことだった。今は夏休みで、実家のある刈谷市に帰省しているのだと、彼女は言った。
大学の三回生であるということは、年齢は20~22歳だろう。浪人している可能性は低そうだから、きっと20か21だ。25歳の丸山の4~5年も年下ということになる。
丸山はそれを知ってびっくりした。
もっと年上だと思っていたのだ。下手をしたら、自分より年上かもしれない、と思っていた。決して彼女が老けて見えるというのではなく、彼女の都会的で洗練されていて、ある意味で『堂々と』したその雰囲気が、実年齢よりも彼女をずっと年上に見せていたのだ。しかし確かに、頬の張りや肌の透明感や顎の自然な肉付きや髪の深い艶は、怖いもの知らずの20代前半の女性の持ち物そのものだった。
丸山も、彼女に自分の年齢を言った。彼女は嬉しそうに相槌を打ってくれた。
「あの、ユリさんはひょっとして、テレビに出るお仕事をされていませんか? ニュースキャスターとか、タレントとか」会話の文脈を見計らって、丸山は、極力自然な流れになるように、ユリに訊いた。初見のときから、彼女をメディアで見たことがあるような気がしてならなかったからだ。
「え? 違いますよ。私、テレビになんか出たことないですよ。どうしてそう思うのですか?」ユリは少し恥ずかしそうにしながら言った。
「いや、あなたを以前テレビでお見かけしたような気がするんです。ひょっとして雑誌かな? モデルとか? あるいは映画女優とか、違いますか」
「えぇー?? ち、違いますよ…。そういう風に言われると、恥ずかしいです。ただの学生です」彼女が、ほんの僅かだけ、その語気と表情に『この話題はあまり…』というニュアンスを混ぜてきたので、彼はその話題を切り上げた。
今度は反対にユリが訊いた。「丸山さんって、ひょっとして、軍人さんじゃないですか?」
丸山はちょっとびっくりした。「・・・当たりです。陸軍です」それ以上の詳しいこと―所属や軍務内容―は、もちろん言わなかった。丸山がいくらこのとき舞い上がっていたと言っても、機密上、それは当然のことだった。それから、注意深く、彼女に訊いた。「驚きました。どうして分かったのですか?」
「あなたが、私のことをモデルとかテレビの人とか言って、いじめるから、仕返しをしたんです」
丸山は、一瞬、意味が分からなかったが、彼女が冗談を言っているのだと気付いて微笑んだ。彼女も笑った。それで丸山は少し安心した。「…ウソです。あなたの最初の行動が、凄くキビキビしていて格好良かったんで、ひょっとして、と思ったんです」そういって、ちょっと上目遣いに、彼の顔を覗き込んで優しげな笑顔を見せた。
丸山は、ユリに『格好良かった』と言われて、素直に、凄く嬉しかった。きっと彼女の足許に跪いて、そのソールをハンカチで拭ったときのことを、言ってくれているのだ。
「いえいえそんな・・・ありがとうございます」言って、彼はまたしても照れてしまった。彼女の一言で、自分の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。そして、彼女の右足の靴に両手で触れたときのことを思い出した。あれから、まだ一時間も経っていないのだ。そう考えると、彼の心は産まれたての雛鳥のようにぶるぶると震えた。
「・・・ただ、『伸びるお箸』のくだりは、超、テンパってましたけどね?」言って、ユリは、今度はずる賢い少女のように、悪戯っぽく微笑んだ。彼女には笑顔のレパートリーが、まるで高級カーテンの色見本のように、無数に用意されているようだった。それを自在に選りすぐって使ってくるので、タチが悪い。本当に女優なんじゃないか、と彼は思った。しかしもし彼女が本当に女優だったら、こんな風に彼と親しげに会話したりはしないだろうな、と彼は思った。
丸山は、ユリと名乗った女性の顔を、あらためて正面から見た。間違いなく彼が今まで会って、会話を交わしたことのある女性の中では、最高に美しかった。そんな彼女と、こんな風に、新幹線の席を一つ空けただけの近距離で、親しげに会話を続けているなんて、奇跡以外の何物でもないと彼は思った。
そのことを再認識して、彼の心は、またしても舞い上がってしまった。同時に、すごく恥ずかしくなって、思わず顔を伏せてしまった。例の、『仏の手のひらで得意げに飛び回っている孫悟空』のイメージが、再び頭をよぎった。
(・・・緊張したり、話し過ぎたり、焦ったり・・・。この子に出会ってからの俺は、異常だな・・・あぁ・・どうしよう・・・・)
「どうされたんですか?」顔を伏せてしまった丸山を見て、ユリが心配そうに言った。
丸山は、よっぽど、「頭のてっぺんから爪先まで、僕の細胞は一つ残らずあなたを好きになってしまって、こうしてあなたとお話しているだけで胸がドキドキして舞い上がってしまって気が狂いそうで死にそうなのです」と、正直に打ち明けてしまいたかったが、もちろんそんなことは言えるはずも無かった。
そこに、まるで助け舟のように、先ほど通り過ぎていったワゴン販売が、今度は後ろのドアから入ってきた。例の、「ビール・おつまみ・アイスクリーム・・・」という売り子の上げる元気な声。
「そうだ、さっきお靴を汚してしまったお詫びに、何かご馳走させて下さい。お茶とか、いかがですか?」丸山は何とか顔を上げ、自分を奮い立たせるようにして、言った。
その後のユリの言葉は、彼が全く予想していないことだった。
「あ! 忘れてました。私、さっき飲み物を買いに行っていたんです、2人分」
言って、膝の上に置いていたショルダーバックから2本の缶コーヒーを取り出して、そのうちの1本を丸山のほうに差し出した。「はい、どうぞ。ちょっとぬるくなっちゃいましたね…」
丸山は情景を理解できなかった。「え? え?? さっきって・・・?」
「話し掛けてくださる前です。自販機コーナーに行ってたんです」
「・・・」丸山は言葉が出なかった。ワゴンと売り子が、ゆっくりとユリの右横を通り過ぎていった。
「あの、失礼ですけど、喉渇いていらっしゃるかな、と思って。ご迷惑でしたか?」
「・・・けど・・・」
「靴を拭いて下さった、お礼です。もとはといえば私がミニトマトを踏んじゃったから…丸山さんのハンカチ、汚させちゃった」
(・・・うそだろ・・・)丸山は、彼女の行動に対して、どう控え目に表現しても『感動』してしまった。
腰の奥に疼きを感じるくらい、深い感動だった。身が震えるほど嬉しかった。完璧なノック・ダウンだった。
そして彼はこうも思った―『この女[ひと]は、俺なんかより遥かに上手[うわて]だ。敵わない』。
それは、まるで脳が漂白されるくらいの深い感動とセットになった、5歳も年下の女性に対する強固な『劣等感』だった。
しかしなぜか、その『劣等感』は、丸山の胸に心地好かった。
彼女の大きさと自分の小ささとを見せつけられ、彼は、むしろ心が洗われていくような気がしていた。
「・・・どうぞ、受け取って、もらえませんか」彼女は、手を伸ばして差し出していた缶コーヒーを、彼がぜんぜん受け取ってくれないので、思わず苦笑してしまった。彼はようやく我に返って、その缶コーヒーを受け取って、言った。
「・・・あ、ありがとう・・・ございます・・・」
ユリはにっこり微笑んだ。そして自分の缶コーヒーのタブを開けて、一口飲んだ。それを飲む彼女の口許から、『くぴっ』という、液体が動くときの小さな音が聞こえた。
丸山も、彼女に貰った缶コーヒーのタブを開け、大事そうに口に運んだ。
丸山は気付かなかったが、なぜか彼は、このとき涙を流していた。泣いている丸山も訳が分からないくらい、彼は号泣していた。
ユリがびっくりして、ハンカチを差し出してくれた。汚れのない、まっさらなハンカチで、微かに石鹸の香りがした。
◆◆◆
「普通、女の人にコーヒー奢ってもらっただけで、泣くかしら? 私こそ、すごく恥ずかしかったわ」
夫と食卓に着いて一緒にサラダを食べながら、ユリが言った。彼はサラダにドレッシングをかけながら、妻の話を苦笑混じりに聞いていた。
「せっかく買ってきてあげたのに、なんか変な感じになっちゃったよね、あなたのせいで。緊張してたの?」
この話題で妻に苛められるとき―彼はよく昔話をネタに、妻から苛められた―、彼はいつも適当な冗談で逃げることにしていた。『缶コーヒーを飲むと死んだ祖母を思い出すんだ』とか、『突発性缶コーヒーアレルギー網膜炎だ』とか、『缶コーヒーを飲んだのが15年ぶりだったから懐かしくて泣いた』とか。
しかしこの日の妻は、それでは許してもらえなかった。
「ねぇ、なんで泣いたの? そんなに嬉しかったの?」
「苛めないでよ、ほんとに。なんて言うか、あの時は、ちょっと高ぶってたんだ」
「高ぶってた? 何それ。なんで?」
「・・・初めて出会った時の君は―もちろん今でもだけど、何ていうか、こう、光り輝いてて、『神様』みたいに見えたんだ。。。ほら、何ヶ月間も日照りに苦しむ百姓の頭上から、漸く祈りが通じて、急に雨が降ってきたら、百姓はやっぱ泣くだろ?」
「またそれ・・・それ何度も聞いたけど、意味が分からないわ。どういう意味なの?」
「だからそういう意味だよ。そのままの意味だよ」
きっと彼女は、丸山のこの手の言い回し―相手の中に『神性』を見出すとか、そういう類の―が、いまいちピンと来ないのだろう。もう何度この説明をしても、彼女は理解してくれなかった。
しかしそれが、彼の嘘偽らざる真情の吐露だった。誰がなんと言おうと、そのときの妻は、なんというか、神様みたいだった。そして今でも―彼女との日々を重ねることで、むしろ初めて会った時よりも強く―彼はそう思っていた。彼女は『神様』だ、と。
妻をそんな風に思えるということは、きっと、幸運なことなのだろう、と、彼は思った。
◆◆◆
彼女と名古屋駅で別れてから、彼は市営地下鉄に乗って実家に帰った。
この日の出会いが、夢ではなく、現実にあった出来事であると確認するように、彼は新幹線の車中での彼女の言動を、一つ一つ、何度も何度も反芻した。細部にわたるまで、しっかりと。
彼女にまつわる記憶以外では、たった二つだけ、その出来事が夢ではなかったことを証明する『モノ』を、彼は持って帰っていた。
まず一つは、携帯のアドレス帳に登録されたユリの連絡先。
そしてもう一つは、彼自身、実家の風呂に入る前の脱衣場で初めて気が付いたのだが、彼は、彼女と会話している最中に、知らないうちに吐精していた。
彼は、家の人間にバレないよう、下着を洗面台で手洗いしなければならなかった。少量ではあったが、それは明らかに尿ではなかった。それは、彼の下着の前方を濡らし、小さな染みを形作っていた。そんなことは、生まれて初めてのことだった。
うーーん。
携帯電話のアドレスと、汚れた下着・・・。
この出会いは、俺に何をもたらすんだろう。。。
俺の人生に、いったい何が起こっているんだろう。。。
彼は薄暗い洗面台でひとり、自らの汚れた下着を手洗いしながら、そのことを考えていた。
俺は、これから、どうなるんだろう。。。彼女の、何になるんだろう。。。
ちょっと『脇道』に逸れてしまったでしょうか。すみません。
この話は『韓国人女性に支配される日本人の話』であることは忘れていないので安心(?)してください。次回から通常営業に戻る予定ですので。




