回想3
小田原―初代大公豊臣秀佶による壮大な攻城戦・天下統一のクライマックスの舞台であり、通常であれば丸山は食い入るように車外の風景を観察したであろうが、この日はもちろん『それどころ』ではなかった―を通過しても、車内販売のワゴンは訪れなかった。
丸山は、窓のほうを向きながら、ワゴンが来たときに言うセリフ、体の向きや表情の作り方まで、事細かに頭の中でシミュレーションして、来るべき『決戦』に備えていた。
自然に、紳士的に、相手に警戒心を持たれないように。それが彼の念頭にあった作戦要務であった。車窓の外で、無数の建物と幾つかの短いトンネルが通り過ぎたが、もはや彼はそれらをまったく見ていなかった。
◆◆◆
ワゴンが来た。それは前方のドアから入ってきた。
丸山は、頬杖していた腕を解いて、ゆっくりと呼吸を整えながら前方を向いた。それからポケットの財布の位置を確認した。大丈夫、それは取り出しやすい位置にある。
そして、僅かに女性のほうを視界の端ぎりぎりで見た。一瞬の眼球の動きだった。彼女はシートに深く腰掛けて、両腕をそれぞれ肘掛に休めていた(右腕は見えなかったが、姿勢の傾き方で分かった)。それは、何というか、すごく美しい佇まいだった。
彼女は、タータンチェックのネルシャツにデニムのパンツという、ラフなコーディネートだった。
彼女の席の折りたたみテーブルは上がっていた。読書もしていないし、イヤホンもしていないようだった。さらに、左手には指輪をしていなかった。華奢な腕時計をしているだけだ。指輪は無かった。眼のいい彼は見間違いようもない。まるで友軍の奇襲成功の知らせを聞く参謀のように―実際に彼は参謀だった―、その事実は彼を勇気付けてくれた。もちろん夫や恋人がいても指輪をしていない女性は沢山いるが、そのことを彼は考えないようにした。前へ進むことしか考えていなかった。
ワゴンを押す売り子は、若い、少し太った女の子だった。「ビール・おつまみ・アイスクリーム・・・」と、馴れた口調で呼び込みをしていた。見たところバイト歴の長そうな、上手な売り子だった。これなら、今から丸山がしようとしている多少イレギュラーな注文方法―自分が注文すると同時に女性に何かを薦める―でも大丈夫そうだ。きっと大丈夫だ。
◆◆◆
丸山と彼女の席は、車両の中間よりもやや後方―正確には、前から20分の14―の席だった。
前方からゆっくりと近付いてくるワゴン。
それがようやく20分の6くらいまで来たとき、不意に、彼女が席を立った。
突然立ち上がった彼女の動きに、丸山は思わず声を出してしまいそうなくらいに驚いたが、極力平静を装い、僅かに顔を振り向いて彼女の動向を目で追った。
席から立ち上がった彼女は、車両の後方―ワゴンが来るのとは反対方向―へ、足早に歩いていった。そして、『コツ・コツ・コツ』という軽快なヒールの音を残して、去っていってしまった。
丸山は思った。まさか彼女は、自分の抱えているよこしまな『劣情』に気付いて、怒って席を立ってしまったのではないか。自分の存在を気味悪がって、席を変えることを決意したのではないか。
しかし、女性の座っていた座席の足許には、二つ、ランドのキャラクターの絵が描かれた紙袋が、綺麗に揃えられて残っていたし、リクライニングも倒されたままだった。
丸山は慌てて彼女の座っていた座席から目線を戻し―そんなものをじっと見ていたら、ますます周りに怪しまれるのでは、と思ってしまった(もちろん彼のそんな僅かな所作を気にする人間は周りに皆無だったが)―自席の前にある折りたたみ式テーブルの裏に載っている車両の配置図を確認した。
(たぶん、トイレか、お手洗いに、行かれたのだろう・・・)
彼は、そう自分に言い聞かせた。その彼の横を、虚しくワゴン販売が通り過ぎていった。彼は、何も買い求めなかった。
(もう遅いよ・・・馬ー鹿)彼は独りで、心の中で毒づいた。
列車は熱海駅に近づいていた。
◆◆◆
この辺りはトンネルが多い。長いトンネルや短いトンネルが、代わる代わる交代で、彼の乗った列車に深い闇を落とした。
何個目かのトンネルに入っているとき、彼は鏡になった車窓で自分の姿を見た。
『参謀本部の次世代エース候補』とか、『俊英』とか、同僚たちから過大な評価を受けたこともあるのだが、今、車窓に映る自分の姿は、はっきり言って何者でもなかった。みすぼらしくて、ちっぽけで、自分が着ているスーツさえ安っぽくて小汚しく見えた。
(あぁ、俺はいったい、何をやっているんだ・・・?)
意味も無く、惨めになった。
(俺はどうして、よくも知らない女の子に―よくも知らない、有るか無いか分からないくらい小さな『可能性』に―馬鹿みたいに振り回されているのだろう。そもそもどうして彼女の容姿にこれほどまでに胸を掻き乱されているのだろう。ほんの一目か二目、見ただけなのに。ろくに言葉も交わしてないのに・・・)
一目惚れがこれほど苦しいものだったとは、彼は知らなかった。
そして彼は、理不尽にも、『怒り』のような感情さえ抱いていた。
彼女は、自らの容姿が、それを目にした他人に―つまり、この自分[丸山博文]に―これほど深い、人生最大級の混乱と焦燥を引き起こしたことを、どう考えているのだろうか、彼女はこの『責任』を取れるのだろうか、と。 ―丸山は中学時代と高校時代に1人ずつ、計2人の女性と交際したことがあったが、その当時以上に今日の丸山が抱いていた『焦燥』は、彼にとって深刻なものだった。
そこまで考えて、丸山は、フッ、と小さく息を吹き出した。
(俺はいったい何を考えているんだ。頭が変になっている…。責任、、、ってなんだ?)
当たり前のことであったが、『人生最大級の深い混乱と焦燥』を胸の内に引き起こしているのは、まこと自分ひとりの『勝手』だし、それに対する『責任』なんて、彼女には1ミクロンだって無い。全く無い。当然のことだった。
(むしろ、俺みたいな男に一方的に好意を持たれて、彼女は迷惑だろうな。こんな短期間に、勝手に好きになった俺が悪いんだ。俺だけが、悪いんだ。それだけのことだ)
列車が一瞬、トンネルを出て、そしてまたすぐに次のトンネルに入った。
彼女、席に戻ってくるのが、やけに遅いな。いや、女性はこんなものなのかな。。。と彼は思って、それからすぐにその思考を頭から振り払った。こんな気持ち悪い想像をしているから、俺は駄目なんだ。。。
彼は暗い車窓に映る自分の顔を見ながら、悶々たる思考を続けた。
深い自己嫌悪に陥りながら。
彼はふと、『西遊記』に出てくる『仏の手のひらの話』を思い出した。孫悟空が仏に挑戦して、『俺の筋斗雲は世界の果てまでまたたく間に行って、帰ってこられる』と啖呵を切り、実際に筋斗雲を目一杯飛ばして世界の果てまで行って、そこにあった巨大な柱に筆でサインをして帰ってくるのだが、実はそれは仏の指で、彼は仏の手のひらの中を飛び回っていたに過ぎなかった、という話だ。
丸山は、冷静に考えれば滑稽なことであるが、自分を孫悟空に、彼女を仏に当てはめていたのだった。
それくらい、彼は、言い表せない無力感を、彼女に対して抱いていた。
(彼女が戻ってくる前に、寝てしまおう)そう彼は思った。
◆◆◆
そのとき車両後方のドアが開く音がして、小気味よい、例の『コツ・コツ・コツ』という足音が近付いてきた。彼女が戻ってきた。
その足音にびっくりして、丸山は、完全に目が覚めてしまった。もともと寝付けるわけが無かったのだ。(あぁ、俺は完全に、仏の手のひらの上をうろちょろしている小物だ・・・)
彼は元の姿勢―窓枠に片肘を掛けて頬杖して、顔は窓の外を向いている姿勢―になって、身動きせずに固まっていた。
列車は何個目かのトンネルに入っていた。随分長いトンネルだと、丸山は思った―後から気付いたのだが、それは東海道区間で最長のトンネル―新丹那トンネル―だった。
鏡になった車窓に、席に座ろうとする彼女の姿が映った。改めて見ると、それは彼が思っていたよりも、さらにスラリとしていて、美しかった。
股下が長くて腰の位置が高く、稠密的なくびれと豊満な胸があり、顔の小ささとプロポーションは完璧なほどの調和性を有していた。数回見ただけでは気が付かなかったのだが、背も随分と高かった。
そして、席に座った彼女が、膝の上に、持っていたショルダーバックを置くために身を僅かに屈めたとき、一瞬、その横顔が、彼の視野に入った。鏡越しに見るその横顔は、神秘的とさえ言っていいほどに、まるで生命すべての息吹を凝縮したかのように、美しかった。
◆◆◆
車窓の中で、彼女が、不意に顔をこちらに向けた。
(いけない…!)
彼は慌てて目を逸らそうとしたが―彼女に見惚れていたことがバレたくなかった―、しかしそれは、一瞬、遅きに失した。
鏡になった車窓の中で、丸山の視線は、彼女の視線と正面からぶつかって、纏わり付いた。
(・・・あっ・・・)
そして次の瞬間、信じられないことが起きた。彼女が、鏡の中の丸山に対して、一瞬、微笑みかけたのだった。
あるいは微笑んだ『ように見えた』だけだったのかも知れないが―丸山は後日何年が経過しても、この日にあった出来事を、細部まで鮮明に記憶していたが、この瞬間の彼女の顔の表情だけは、なぜか記憶が混沌としていて、上手く思い出すことが出来なかった。
しかし、その『微笑み』は、彼にとって、何よりも価値のあるものとなった。彼は巨大な力に背中を押されたような気がした。
丸山は決意して彼女のほうを振り向いた。自然に、紳士的に。
(僕に勇気を与えてくれた君の行動に対して、照れている場合ではないもんな)
あるいはそんな、一種ヒロイックな心意気だったのかも知れない。
しかし、彼は彼女のほうを見て、彼女と正面から顔を見合わせたその瞬間、まるで全ての脳細胞が一瞬で蒸発してしまったかのように、全く何も考えることが出来なくなってしまった。完全に、頭が真っ白になっていた。そして、心臓は木っ端微塵に破裂してしまったかのようだった。
彼女は、丸山が今まで実際に目にしたことのあるどんな女性よりも美しかった。それは殆ど『神』だった。
その瞳における黒目の部分は、どんな黒よりも黒かったし、白目の部分は、どんな白よりも白かった。
丸山の心の奥底まで、すべてを見通してしまうかのような、透徹とした、漲るような瞳だった。
彼は彼女の顔を正面で見ながら、必死でバラバラになってしまった意識を纏めあげ、彼女に話し掛けるのに相応しい言葉を探した。しかし、まるで海の底に沈んでいく魚たちのように、それらの言葉は丸山の手には届かなかった。散々吟味した第二、第三の候補たち…『少しお話しませんか』も、『先ほどはすみませんでした』も、『いい天気ですね』さえも、全く何も浮かんでこなかった。
目の前で、彼女が『ん?』と、ちょっと首を傾げるのが見えた。『どうかされましたか?』とでも言うように。その顔は、困惑しつつも、やはり少し微笑んでいるように丸山には見えた。それで彼は余計にドキドキしてしまった。
「・・・ぃゃぁ、ぁのぉ・・・」
丸山は必死で言葉を探した。彼女は彼が何か言うのを、辛抱強く待っていた。
「・・・ぁのぉ・・・ぇっとぉ・・・」
彼女はなおも首を傾げて、丸山の一言目が彼の口から出てくるのを待っていた。
しかし丸山はどうしても言うべき言葉を見つけられなかった。
彼はもう何がどうなってもいいと思った。神に祈るように、殆ど無心だった。
「・・・・あの・・・・、『駅弁に入っている伸びる箸って、食べてる途中で縮んじゃって、使いづらいですよね』」
「え・・・・?」
彼女の顔の表情が、まるでスローモーションのように変化して、『この人は、いったい何を言っているのだろう』という顔になった。彼女の表情は雄弁に、彼女の思惑を語っていた。
「・・・伸びる箸、って、あの、伸びるストローみたいなやつのことですか? よく、お弁当にくっ付いてる・・・」彼女が丸山に対して、初めて長いセンテンスを口にした。淡々として、ソリッドな口ぶりだった。まるで世界の果てにある巨大な柱のようにソリッドだった。
丸山は頷いた。
「そうです。あの、伸びる箸です」
彼女は二度、ぱちぱちと瞬きをした。瞬きの音が聞こえるくらい、はっきりした瞬きだった。
(『そうです。あの、伸びる箸です』??)
「ぷッ・・・」一拍置いて、彼女はドッ、と爆笑した。「・・・・やだ・・・可笑しい! ちょっと・・・何を仰ってるんですか? ぷふっ・・・」彼女は両手を口に当てて、必死で笑いを押さえ込もうとしていた。「うぷ・・・ぷぷぷぷ・・・・・」
彼女が可愛い顔を真っ赤にして、必死で笑いを堪えようとしているのを見て、それでようやく、彼の長かった混乱と無力感は、そのトンネルを抜けたようだった―それは全くの奇跡的な幸運だった。彼にとっては、『賭け』ですらなかったのだから。
彼は、「??」と、さも不思議そうに、真面目な顔を作って、彼女の顔を覗き込んだ。
「・・・だって、貴方が、真面目なお顔で、急に変なこと・・・言うんですもの・・・! きゃはぁっ・・・可笑しぃ・・・」
彼女はなおも笑っていた。とうとう口から手を離して、彼女は笑った。丸山は、彼女の真っ白で整然とした歯の列を見た。
◆◆◆
結婚してから、彼女はよくこの日のことを彼と話した。
丸山が、食事にミニトマトが出てくると、冗談で、「僕らの愛の恩人だ。君に踏み潰されちゃったけど」と言うのだった。
そうすると、彼女は、「・・・それを言うなら、ミニトマトよりも、『伸びる箸』でしょ?」と、その目尻に優美な皺をちょっと作って、さも懐かしそうに言った。
「ねぇ、あの伸びる箸の『あるあるネタ』って、ひょっとしてあなたの勝負ネタだったの? 言う前にかなりテンパってたみたいだったけど? そうなの?」
「・・・いやぁ、勝負ネタとかじゃないんだけど、その、何を言えばいいか分からなくて・・・」
「ふーん」彼女は空中に浮かんだ架空の物体を眺めながら、言った。そして、今では夫となった男の、かつての初々しさをまるで弄ぶかのように、頭の中でその時の光景をつぶさにプレイバックしながら吟味した。
「ねぇ、それよりもさ、その後の、『そうです。あの、伸びる箸です』、って一言。超、可笑しかったわよ。ツボに入っちゃった。ふふふっ。ねぇ、もう一回言ってみてよ。『ソウデス、アノ、伸ビル箸デス』って。あの時のあなた、なんて言うのかしら、お間抜けだったわ。ビデオで撮って、ユーチューブにアップしたいくらい。世界的お間抜けさん・・・ぷぷぷ」
「・・・マヌケ、ってヒドいな・・・むちゃくちゃウケてたくせに。新幹線の中で大笑いしちゃって・・・そっちこそ、恥ずかしいったらなかったぞ」
「うぷ?・・・うるさいわよマヌケ・・・ぷぷっ。あなたなんてその後、号泣してたじゃない。恥ずかしいとかのレベルじゃないと思うんだけどな。私に向かって、『恥ずかしかった』とか、そんなこと言えるのかしら?」
「・・・ごめん。・・・その話は置いといて・・・」と言って丸山は額の汗を拭った。「さぁ、ご飯を食べよう。ミニトマト、おいしいな~。あ、そこのドレッシング取って・・・」
丸山家の、それが日常的な風景だった。




