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回想2

その女性の指定席は、丸山と同じ列の、一席空けた真横の席だった。

丸山が座っている窓際の席の、隣の隣の、通路側の席である。

彼女の指定席がそこだったことは、丸山にとって、本日二つ目の奇跡だった。


彼女―品川から乗ってきた、丸山の落としたミニトマトをうっかり踏み潰してしまった女性―は、丸山が自分の席に着座した後も、通路から座席の列に一歩入った地点で、まごまごして突っ立っていた。


その様子に気付いた丸山が、頬を真っ赤にしたまま、立ちすくんでいる彼女を不意に見上げると、彼女はバツが悪そうに、「私の席、ここみたいです…」と、か細い声で言った。


図らずも短期間のうちにもう一度彼女と顔を合わせてしまった丸山は、ますます頬を赤くしてしまった。理由もなく、恥ずかしかった。『顔から火が出る』とは、まさにこのことだ。

先ほどほんの一瞬だけ彼女の靴に触れた両の指先は、自分の手汗でべとべとになっていた。


彼は、自分が顔を紅潮させていることを相手に気付かせまいとするかのように、顔を彼女のほうからサッと逸らして窓のほうを向いた。顔を逸らす際に、「どぅぞ…」と、これまた女性に勝るとも劣らないほどの細い声で、言った。自分でも分かるくらい、挙動不審になっていた。彼女が彼女の指定席に座るのに、『どうぞ』も何も無いだろう。


女性は、丸山の隣の隣の席に腰掛けた。そして手に提げていた紙袋を、自分の足許に置いた。彼女の体重で少しだけ座席がきしんだ。


指定席の車両は適度に空いていて、静かだった。新幹線特有の『ブーーン』という機械音が、誇張されて大きく聞こえた。

列車は多摩川を越えようとしていた。


◆◆◆

丸山は、新幹線に乗るときはいつも、可能な限り窓際の席に座り、夜間でなければ窓の外を見て、車外の風景を真剣に観察することを習慣にしていた。

軍人としての意識を練成するため、線路沿いの地形・地理を観察し、野戦指揮の脳内シミュレーションをしたり、あるいは、かつてその地で行なわれた歴史的合戦の模様を想起したりするのであった。


例えば、列車が大きな川を渡る際は、架空の、攻撃側の渡河地点や防御側の陣地を車窓の風景に再現し、はたまた列車が石橋山や富士川や三方ヶ原(浜松城付近)や桶狭間の周辺域を通過するときは、各地で日本史を形作った名立たる合戦たちに想いを馳せた。


新幹線の車窓は、彼にとって、野外演習の無限の例題であり、歴史絵巻の宝庫なのだった。


◆◆◆

しかし、この日の丸山は、まったく、そういった『軍人意識の練成』に没頭することが出来なかった。

没頭どころか、それらのことを、ほんの少し頭に浮かべることさえ出来なかった。


彼の頭にあるのは、先ほど一目だけ見た、一席置いて隣に座る女性の姿だけだった。

(あぁ・・・なんて・・・綺麗な女性なんだ・・・)彼の頭には、それ以外は何も無かった。


これではとても『軍人意識の練成』どころではなかった。

今や『練成』されるのは、彼女に対する男性としての思惑―劣情―ばかりだった。


(あぁ・・・もぅ何も考えられない・・・俺は、これからどうすればいいんだ・・・)


◆◆◆

まったく味を感じないまま、ようやく食べかけだった『銀だら弁当』を平らげ、空き箱をビニール袋に突っ込んで足許に置き、彼は再び窓際を見た。未だに、女性の座る方向に視線を向けることも出来ずにいた。前方の電光掲示板の方さえ見られなかった。


新横浜を過ぎても(幸い、新横でも2人の間の席は埋まらなかった・もう列車は名古屋まで停車しないから、彼女も名古屋以西まで下車しないということになる)、彼は同じ姿勢―窓枠で頬杖を突いた姿勢―のまま、微動だにすることが出来なかった。真右[3時の方向]、数十センチに彼女の気配を感じながら、彼は平静を装うのに必死だった。


もちろん彼女は丸山のほうをこれっぽっちも気にしてはいないだろう。それは丸山にも分かっている。彼は決して自意識過剰になっているわけではなかった。

丸山は、自分がこれほどまでに彼女に心を掻き乱されている、という事実を、自分自身で認めるのに、心の準備が出来ていなかったのだ。

それと、自分がこんなにも『優柔不断』であることを知って、戸惑いを隠せなかった。


彼女のことが気になって、息をすることさえままならない自分がいた。


◆◆◆

(結果はどうなってもいいから、彼女に、思い切って、声を、掛けよう・・・)丸山は決意した。


彼は、どんな危険な軍事演習においても、災害救援活動においても、『怖い』と思ったことは一度もなかった。現役の軍人として、それは当然のことだった。しかしそんな職業軍人としての彼の自負は、このような場面では、どこかに吹き飛んでしまっていた―彼は自他共に認める、冷徹な判断能力を持った有能な軍人だったのだが―。彼女の存在は、演習における敵方の有力な一個師団よりも、彼を緊張させた。


(何でもいいから、話し掛けよう・・・。そうしないと、胸が、破裂してしまいそうだ・・・)


数分間、渦巻く思念を懸命に纏め上げながら、彼はついに一つの作戦を立案した。

『車内ワゴン販売が来た時に、ありったけの勇気を振り絞って通路のほうを向き、「先ほどは失礼しました。お詫びにお飲み物でもご馳走させて下さい」といって声を掛ける』


即席の作戦としては上出来だと、彼は思った。もちろん、『弁当からこぼしてしまったミニトマトを踏ませてしまったお詫び』を、二十分近く経ってから再び持ち出すのは苦しいといえば苦しい。それは分かる。しかし、そうでもしないと、絶対に彼女に話し掛けられないと、丸山は思ったのだ。何かきっかけが必要なのだ。

なぜなら、彼は今、無様[ぶざま]にも、首をちょっと右側に回して彼女のほうをチラりと見ることさえ、出来ないでいるのだ。しかも間に席が一つ開いているのだ。そして、おそらく大部分の女性にとって、新幹線の車中で、見知らぬ男に声を掛けられるのは、更なる迷惑に違いないだろう。


しかし彼は、それでも彼女に声を掛けようと思った。彼女の声をもう一度でも聞けたらどんなに素敵か・・・そのことを考えるだけで胸が詰まった。


話し掛けるとして、第一の候補は、何もないフラットな状態から『どこまで乗車されるのですか』とか『いい天気ですね』とか、何か特定の話題を振ることであるが、これはなかなかに難しかった。前者は『あなた車掌さん?』状態だし、後者は論外だ。冷めた反応を返されてしまったら致命的、最悪、頽勢を挽回できずに部隊の全滅だって十分にありうるだろう。


第二の候補として、『少しお話しませんか』はどうだろうと思ったが、これは若干キザな気がするし、最初に(靴裏を汚すという)面倒を掛けてしまったのが自分であるから、謂わばマイナスからのスタートである。よほど話術に自信が無い限り、相手にいい印象を持ってもらうのは難しいのではあるまいか。


第三の候補、女性が持っていたキャラクターの紙袋を指して、『あ、ランドに行かれてたんですか?』も、随分とわざとらしいし、自分がランドに詳しくないので却下である。返す言葉で、彼女から『あなたに関係ありますか?』とまではさすがに言われないだろうが、少なくとも勝算のある話題が無い限り、リスクが高すぎる。話が弾んだ後で後続の話のネタにするならまだしも、初撃のネタとしては不適格だ。


第四の候補、急に何もないところから、いきなり、『さっきはすみませんでした』ともう一度わびを言うのも、駄目だろう。もうすでに都合四回も謝っているのに、『またそれ?もういいですよ』となってしまう。


結局、車内ワゴン販売が来たからお茶をおごる、というのしか選択肢は無いように彼には思えた。それは、彼女に話し掛けるだけの勇気を持てないでいる彼にとって、きっかけとして絶好のように思えたのだ。自分も同時に何かを買えば、彼女もそれほど遠慮はしないだろうし、どうやら彼女は品川から乗車してまだ何も口にしていない様子だったので、何か飲みたがっていたとしても自然だろう。


もちろん、相手に余計に気持ち悪がられてしまう、という可能性も十分にある。

しかし、考えてみると、彼はすでに少なくとも2回好機を逃しているのだ。一度目は彼女と最初に目が合った直後、もっと何かを話せば良かったのだし、二度目は彼女が『私の席、ここみたいです』と話し掛けてくれた直後である。その時、もう一度立ち上がって彼女の手荷物を荷物棚に上げてあげるとか、いくらでもやり様はあったのだ。もちろん、彼女にその気がなければ、何をやったって無駄であるが―そもそも、すでに彼氏さんがいらっしゃるのかも知れない―しかし腹を撃たれて前向きに倒れるのと、背中を撃たれて後ろ向きに倒れるのとでは、天と地ほども違うのだ。


これしかない、絶対に大丈夫だ、と彼は何度も自分に言い聞かせた。一世一代の勇気を振り絞るのだ。

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