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回想

丸山にはかつて妻がいて、彼はその妻のことを心から愛していた。

それはまだ韓日戦争が始まる前で、『日本』という国が存在し、そこで『日本人』が平和に生活していた時代のことであった。

まだ、僅か20年や30年を遡れば、この島々にも、そんな時代があったのだ。


◆◆◆

丸山はそのとき25歳、参謀本部に勤務する陸軍中尉だった。今から27年前のことである。


彼は夏期休暇を利用して実家のある名古屋に帰るべく、新幹線の車中にいた。

平服―夏用のスーツにネクタイ―を着て、窓際の席を占めていた。

快晴で夏の日は長く、西の空にはまだ太陽が残っていた。前方のドアの上部にある電光掲示板が、その日にあったニュースやらプロ野球の速報やらを、気だるげに流していた。プロ野球は各地ともスコアはまだゼロばかりである。中0‐巨0(一回表)、横0‐ヤ0(一回表)、広0‐阪0(一回表)、、、

ニュースも丸山の気を引くようなものは一つも無かった。丸山は座席の肘掛に頬杖を突き、右から左へ流れていくそんな文字たちを、少しのあいだぼんやりと眺めていた。

軍人であっても時代は平時だ。米英との戦争を回避して大陸領土を切り離した『運命の選択』から半世紀余の時を経た現代の日本において、軍は数ある官僚機構の一つだったし、軍人は中央官僚のワン・オブ・ゼムに過ぎなかった。まぎれもなく時代は平時なのだ。


(・・・弁当でも食べよう)

電光掲示板を眺めるのに飽きると、彼はビニール袋から駅弁とペットボトルのお茶を出して、折りたたみ式のテーブルの上に乗せた。駅弁は東京駅で『銀だら弁当』を購入していた。彼はこの弁当が好きで、新幹線に乗るときは、たいがいこの弁当を買い求めた。


列車が品川を発って、少ししたころ。

彼は弁当に入っていたミニトマトを箸でつまんで口に運ぼうとしたが、手元を誤って床に落としてしまった。

童話のどんぐりのように、それはコロコロコロ…と通路の方まで転がっていった。まるで意志を持っているかのように、長い距離を、綺麗な回転で転がっていった。

丸山は慌てて席を立ち、ハンカチを片手に『彼』の後を追ったが、その時、ちょうど折悪しく、通路を後方から歩いてきていた女性の足の下に『彼』が入り込んでしまい、『ぶちゅっ』と小さな音を残してつぶれてしまった。


「きゃぁ、ごめんなさい!」

「あっ、すみません!」

二人はほぼ同時に声を出した。女性は、両手に大きな紙袋―有名な遊園地[テーマパーク]のキャラクターの絵が描かれていた―を提げて、転がってきたミニトマトを踏んでしまったほうの足の爪先をちょっと浮かせて、通路の真ん中で立ちつくしていた。顔には困惑の表情が浮かんでいた。床には、無惨にもつぶれてしまったミニトマトの残骸が、ひしゃげて残っていた。

丸山はすばやく彼女の足許に片膝をつき、もう一度「すみません」と言った。それから、彼女に「失礼します」と言ってから、戸惑う彼女の少し浮かせた右足のソールを、手にしたハンカチで下からサッと拭った。そしてもう一度、ハンカチの汚れていない面でソールを拭った。


彼女は、溝の無いレザーソールのパンプスを履いていた。

ヒールの高い、黒のパンプスだった。それは美しい靴だった。脚を包んでいる細い紺のデニムと一体になって、その美しい靴は、まるで現実の世界と夢の世界とを隔てる薄い膜を蹴破って現実の世界に侵入してきたかのように、非現実的に美しく見えた。ハンカチ越しにそれに触れているのが、なんだか『奇跡』のようだと、丸山は思った。―女性はもちろん面識の無い、見ず知らずの女性である。


「あっ…」丸山の迅速な対応に驚いたように、足許の彼を見下ろしながら、女性が声を発した。「…ハンカチ、汚れてしまいますよ。いいんですか? すみません」

「とんでもないです。私のほうこそ、すみません」

それが2人が初めて交わした会話になった。


女の足許で片膝立ちになっている丸山から、下向きのソールの汚れは直接目で確認することは出来なかったが、彼は手の感触で、ソールの汚れが綺麗に拭い取れたことが分かった。

女性も、ハンカチが擦られるときの足裏の感触で、自分の靴裏が綺麗になったことが分かった。

それから丸山は床の上のひしゃげたミニトマトをつまみ上げてハンカチで包み込み、僅かに床に飛び散っていた汁も素早く拭い取ってから、立ち上がった。

女と一瞬だけ目が合った。彼女はショート・ボブで、控えめな化粧をしていた。誰か有名な女優かタレントに似ているような気がしたが―稀に見るほど整った顔立ちだった―、その有名人の名前を彼は思い出せなかった。「綺麗になりました。すみませんでした」彼は女に言った。


女は小さく「はぃ…」と言って、恥ずかしそうに顔を伏せた。そうされると、不思議と丸山も恥ずかしくなって、「では…」と小さく言って、彼女に背を向け、自分の席に戻った。

自分でも顔が赤くなっているのが分かるくらいに、彼は顔を赤く染めていた。

この日はたまたまデーゲームが無かったということで(あまり珍しくないですよね)。

あと、ヘタの取れた状態のミニトマトは、意外とよく転がります。

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