鏡
「あ、そうだ、お姉ちゃん。私、明洞[ミョンドン]でお姉ちゃんにプレゼント買ってきたの。かわいい靴なんだけどね、こっちで履いてもらおうと思って。ねぇ、ちょうどいいから履いてみて」
姉が、植民地ではお洒落な靴も手に入りづらいだろうと思って、お土産に買って来ていたのだった。歳相応にファッションが大好きなソヨンには、それは何にも増して嬉しいプレゼントだった。
「ホント? ありがとうソナ。履きたい! どんな靴かしら」
ソナは使用人に命じて、姉へのプレゼントの靴と自分用の靴を部屋から持ってこさせた。その間、2人はスツールに座ってぺちゃくちゃお喋りを楽しんでいた。彼女らの足許では、2匹の倭奴が、うつ伏せにされたまま、靴の到着を待たされていた。巨大な竜の到来を待つ村人のように、彼らは非力だった。ただぶるぶる震えることしか出来なかった。
77番―ソヨンの絨毯―と、51番―ソナの絨毯―は、2人並んで、うつ伏せに寝かされ、顎を床に付けて顔は正面の鏡の壁を向かされていた。
首輪とふんどしだけを身に着けた自分と、同じ格好のもう一人の『絨毯』が、床に寝ているのが見える。ソヨンとソナと、その他の韓国人ギャラリーは、鏡に映らない横側にいるので、彼らからはその姿を見ることは出来なかった。もし顔の側面を床にくっ付けて横を見れば、おそらく目にすることは出来たであろうが、ただ恐怖感が増すだけで何の得るものも無いことは明白だったので、彼らはそうすることが出来なかった。
2人は自らの姿を見るより、他に何も出来なかった。
鏡に映る自分の姿は、本当に、情けなかった。
◆◆◆
しばらくして部屋に人の出入りが有ったことが気配から感じられた。靴を持った使用人が到着したようだった。彼が靴を取りに行ってから、ほんの数分のことだったが、77番にとって、それは気が遠くなるほどの時間だった。
「はい、これ、お姉ちゃんのね。私からのプレゼント」ソナが言った。楽しそうな声である。
一拍置いて、「きゃぁ、やばいじゃーん。。超かわいい! ありがとう、ソナ!」先ほどより2目盛りほどテンションの上がった、ソヨンの声。それからしばらく、2人の明るい会話が続いた。「どこのお店で買ったのー?」「サイズぴったり。ありがとー」・・・
2人の会話を聞きながら、77番は、今から自分が踏まれることになる靴の『姿』を想像した。
ミュール・パンプス・サンダル・ブーツ…、ヒールの高さはどうで、トゥーはどんな形状なのか…。それは彼にとってまさに死活問題だった。
77番は29歳。ソヨンの屋敷で働き始めてからまだ数日の新参者[ニューカマー]であったが、靴磨きには少なからず精通していた。彼は丸山の同僚で、玄関と靴箱―ソヨンのコレクションを満足させるべく、それは四畳ほどの広さが在った―の担当だった。
丸山ほどは靴磨きを上手に出来ない77番は、稀にソヨンが履いている状態の靴を磨かせて頂くとき―ソヨンが履いている状態の靴を磨かせて頂くことは、ソヨンの足が入っていない状態の、靴箱に並んだ靴を磨くのに比べて、ずっと高級で名誉な仕事であったが、丸山が他の業務でいないとき、稀に彼はこの栄誉に浴することが出来た―そんなとき、彼はよく靴磨き奉仕が下手なことを理由に、ソヨンに足蹴にされ、踏み付けられて叱責された。上の前歯が欠けているのも、ある日ソヨンに尖ったトゥーで口を蹴られ、歯を折られたためであった。
彼はソヨンの履く靴を恐怖していた。とても丸山のように、まるで靴が御神体であるかのごとく、敬うことが出来なかった。いや、むしろ彼にとってソヨンの靴は『荒ぶる神』であった。気まぐれに自分を傷付け、絶対的な畏怖を強いる、崇り神だった。
中でもソヨン様の『ハイヒール・ブーツ』は、77番が最も畏れるものだった。
理由は、まず、お靴磨きやお手入れに多大な時間と労力を要するということがある。ブーツのお靴磨きは難しいのである。
さらに、ヒールやトゥーが尖っているため、それらが凶器となる。さらにミュールやパンプスに比べて脚にぴったりフィットするため、ソヨン様が倭奴をお蹴りになるとき、自然と力が入った。
ハイヒール・ブーツをお召しになられたソヨン様に蹴られるとき、その足蹴りは、他のどの靴に比べても、大きなダメージを77番に与えた。彼が前歯を失ったのも、ソヨン様がブーツをお召しになっていたときだった。
(どうか…ハイヒール・ブーツではありませんように…)77番は殆ど祈るような心持だった。
◆◆◆
コッコッコッ…と軽やかな足音が近付いてきた。
ソナにプレゼントされた靴を履いたソヨンが、鏡の壁の前でうつ伏せになっている2匹のほうに近付いてきたのだ。そのすぐ後にソナの足音も聞こえる。ソナも本国から持ってきた靴に履き替えたようだった。
「2人とも、待たせたわね。始めようか」
その声と同時に、颯爽と歩いてきたソヨンの身体が鏡の壁に映り込んで、2人の倭奴は初めてその御姿を見た。
はたしてソヨン様がお履きになっていたのはヒールの高いブーツだった。倭奴の恐怖は頂点に達した。




