乞食
5ヶ月前・初夏・東京―
「お靴を磨かせて下さい!!」
「舐められるくらい綺麗に致します!!」
「どうか憐れな乞食にお恵みを!!」
丸山は道端の地べたに這いつくばり、顔だけ少し上を向けて、道行く人々に声を張り上げ続けていた。慣れない下手な韓国語である。
ソヨンに飼われ始める前、彼は飼い主のいない野良[ノラ]だった。
彼は道端で韓国人―主に総督府関係者―の靴を磨いて僅かでもお恵みを頂戴する乞食をしていた。
もう2日間、まともなものを口にしていなかった。この2日間に口にしたものと言えば、昨日、帰宅途中の若い総督府職員が投げ捨てた食べ残しのアイスキャンディーを、ほんのひとかけら、地面に落とされたものを土埃と一緒に舐め取ったくらいだった。
「どうかお靴を磨かせて下さい!! 心を込めて磨きますので!!」
今日もお客が付かなかったら、俺はいったいどうなるのだろう…。そう思うと自然と声に力が入った。
彼はなおも土下座の姿勢で叫び続けるが、無情にも彼の前に足を止める人間はなかなかいなかった。
この姿勢のまま通行人が通るたびに声を上げ続けて2時間ほど経った。
そろそろ日も暮れかけていた。何とかしてお靴磨きをさせて頂ける方を見つけないと、本当に俺は野垂れ死んでしまう…。
丸山がほとんど絶望しかけたころ。
ヒールが地面を叩くコツッ・コツッ・コツッ…というかすかな音。
「どうか私めにお靴を磨かせて下さいっ!」丸山は一世一代の声を絞り出した。
「うるさい乞食ね」
若い女性の声にハッとして顔を上げた。視界が切り替わってまぶしさに一瞬目がくらんだ。
目の前に4本の足があった。2本は軍靴を、もう2本はローファーを履いておられた。
すがり付きたくなるような、圧倒的な権威をまとったブーツが、目の前にあった。
「ねぇお前、靴、磨きたいの?」地面すれすれにある彼のはるか頭上から声が降り注いだ。声を出したのは軍靴の方だった。若い女性の声である。その軍靴は見事に底光りする黒のブーツで、ヒールが少しだけ高くなっている。おそらく総督府の高級将校様だ。足の大きさからするとかなりの高身長であらせられる。丸山はそう思った。しかし御顔はもちろん、くるぶしより上は、畏れ多くて仰ぎ見ることが出来なかった。
「はい、軍人様! どうか、お靴を磨かせて下さい。ピカピカにさせて頂きますので! 憐れな乞食にお恵みをっ!」
丸山はさらに叫んで、その軍靴のお足許に叩頭した。そして額を地面に擦り付け、全身で哀願と服従の意を表し、靴を磨かせて頂く事の許可を求めた。ローファーの方がそれを聞いてクスクスと笑った。
「ふーん。汚らしい乞食の分際で。この私の靴をねぇ…」まるでもったいぶるように軍靴の方が言い、足許にある小男の後頭部を右足の爪先で軽く小突いた。
「どうか、どうかお願い致します。お靴を磨かせて下さい。お願いでございます」小男はさらに恐縮しながら言った。その声には涙声が混じっていた。
「いいじゃん、お姉ちゃん。磨かせてあげたら」初めてローファーの方が口を開いた。軍靴の方よりもさらに若い、こちらも女性の声である。「ほら、ブーツの先のほう、ちょっと汚れてるし」
女性将校は、そうかな? と、一瞬目を自分の靴に落とした後、足許の男に言った。
「いいわよ、磨かせてあげる。心を込めて磨くのよ日本人[チョッパリ]!」
◆◆◆
ブーツの方が姉のパク・ソヨン【22歳】。ローファーの方が妹のパク・ソナ【18歳】である。
ソヨンは総督府の高級軍人、ソナは士官学校高等科に在籍する高校生だった。
丸山はその足許しか眼にすることが出来なかったが、この日、ソヨンは淡いブルーのワイシャツと膝上までの紺色のタイトスカートからなる軍の夏季用制服を着用していた。ベルトに拳銃とサーベルを下げている。
ソナはアイボリーを基調とした高校の制服姿だった。胸元のピンク色のリボンやチェック柄のプリーツスカート、紺のハイソックスとローファー等、普通の女子高生と殆ど変わりない。ただ、腰に小型の拳銃と、サーベルの代わりに乗馬鞭を吊っているのが、いわゆる普通の女子高生と違うところだった。―軍人や軍関係者に携行が許可されていたこれらサーベルや鞭は、この国の支配者としての彼女らの地位と権力の象徴だった。
二人は髪を初夏の心地好い風になびかせながら、並び立って足許の小男を好奇の目で見下ろしていた。
日本人を足許にひざまずかせて靴を磨かせる圧倒的な優越感を、しっかりと噛み締めていた。