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秘書

『小倭列島植民地 総督府ビル』は、千代田区有楽町の、旧・大公宮殿を見下ろす堀沿いにある。周囲を睥睨するかの如く天に向かって聳え立つその威容は、この地における女権帝国の隔絶した力の象徴だった。


新進気鋭の女性建築家ユ・ボアによって設計された総督府ビルは、戦前この地にあった日本軍人会館を取り壊して建設された。女権帝国は、植民地支配の要となるそのビルが終戦後すぐに着工できるよう、日本降伏の実に半年以上も前から設計コンペを始め、建築場所はもちろんのこと、細部にわたる設計図面から工事計画まで、日本の敗戦以前から入念な準備を重ねていた。

ビルの建築には工期短縮のため無数の倭奴労働力が投入され―のべ15万人とも言われている―、そのうちの10パーセントが工事中に事故と過労で死亡した。このビルは、倭奴の血と汗と涙と無数の屍[しかばね]の上に建てられた、いわば『屍上の楼閣』である。

その重厚で絢爛豪華な摩天楼は、空襲と地上戦で焼け野原になった日本において、最も重要で価値のある、唯一無二の建築物となった。


◆◆◆

ソナは約束の5分前にビルの玄関ロビーに到着した。

敗戦国民で被支配民の倭奴にとっては、近寄ることさえ憚られる『天下の』総督府だが、ソナにとっては『少し立派な』オフィス・ビルといった感覚である。

受付で入門許可証を貰い、中に入った。この辺のやり方もソウルにあるような普通のビルとなんら変わり無い。

すでに昨年、士官学校の研修旅行で訪れたことのあるソナは、ビル内の配置をおおむね記憶していた。

姉・ソヨンの執務室は、24階の北側に面した部屋である。

『民政局長室/局長秘書課』のプレートのある、黒檀作りの立派なドアをノックして中に入った。


「お待ちしておりました、ソナ様」

秘書と思しき男性が立ち上がって、ソナに挨拶した。

向こう一面がガラス張りになった明るいオフィスに、全部で4つのデスクが、2個ずつ向かい合って並んでいる。

デスクを含め調度品はいずれも高級な代物で、ここがソウルやプサンといった本国国内の大都市かと見まがうほどであった。掃除も行き届いている。おそらくたくさんの倭奴を厳しく使い、すみずみまで清掃させているのだろう。韓国人様が気持ちよく働けるように―


ソナが感心して部屋を見渡していると、先ほどの秘書がデスクから離れてこちらに歩み寄ってきた。


「本日は祝日なので、秘書課員で出勤しておりますのは私だけです。もちろん倭奴には休日はございませんから、今日も何匹か働かせておりますが」


秘書は心地好い笑みを浮かべてソナに言った。身なりから韓国人であることは明らかである。なかなかハンサムな男で、歳の程は20代前半といったところであろう。ソナより少し年上のようだ。


「申し遅れました。私は民政局秘書課長、キム・グァンジェと申します。お目にかかれて光栄です、パク・ソナ様」


秘書はフォーマルな場で平民が貴族に対してする型通りの挨拶をした。

まずソナの足許に左膝を付き、片膝立ちになって少しうつむく。それから差し出された右手の甲に軽く口付けし、もう一度礼をしてから立ち上がった。


日本に来てから、汚らしい環境で、汚らしい倭奴どもばかり目にしてきていたので、グァンジェに本式の挨拶をされて、ソナは少し胸をドキドキさせた。


「ソナ様のお越しは局長様から承っております。この奥が局長室で、局長様はそちらにおいでです。どうぞ」

自らの上司を『様[ニム]』付けで呼ぶのは―たとえそれが客を前にしたときであっても―韓国のマナーである。言葉遣いも貴族に対する平民らしく、至極丁寧だった。


「パク・ソナです。休日出勤ご苦労様。姉と会うのは私用だから、どうぞお構いなく。楽にしてていいわよ」言ってソナも軽く会釈を返した。


「お心遣い痛み入ります。しかしソナ様、当地では貴女方韓国貴族様は―」と言ってグァンジェは冗談めかして微笑んだ「―神様なのです。私が『楽にして』いると、倭奴どもが戸惑います」


それからグァンジェは、ドア側の部屋の隅に目配せした。ソナは気付かなかったが―たとえ気付いたとしても目にも留めなかったであろうが―首輪をした倭奴が二人、折り目正しく床に正座して控えていた。それを見つけて、ソナも声を出して笑った。


「タロウとケンタ。どちらも元復員兵で、ランクは一般奴隷です。ささやかですが私の部下です。後からお飲み物を持たせます」グァンジェに紹介されて、床の倭奴どもが恐縮の体でこちらに向かって土下座した。手は汚れないように、床に付けずに腿の上に揃えていた。

倭奴はどちらも50前後の老兵で、右側は頭頂が完全に禿げ上がっていた。そして露出した頭部には、赤い瘤が見える。おそらく、ずっと年下のソヨンや、あるいはこのグァンジェから、日々足蹴による叱責を賜っているのだろう。厳しい躾が想像されて、ソナには微笑ましかった。


「紅茶かコーヒーがございますが…」

秘書の笑顔は、土下座する倭奴のみすぼらしく傷だらけの頭部とは何万光年も隔てられているかのように爽やかだった。

(平民までも含めて、韓国人がこんなに清清しく生活できる。『植民地』って、なんて素敵な環境なんだろう。)

ソナは再びそのことを思わずにはいられなかった。


「アイスティーがいいわ。ありがとう」

礼はもちろんグァンジェに向けられたものである。ソナの一言は一介の倭奴には―たとえそれが女権帝国に忠誠を誓う総督府の一般職職員であったとしても―重すぎる。

軽やかな靴音を鳴らしながら、足許に平伏している倭奴の前を通り過ぎて、ソナは姉のいる部屋のドアを叩いた。

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