靴
丸山らこの家で所有されている奴隷たちには、特に許可が無い限り、常に四つん這いの姿勢が強制され、ソヨンをはじめパク家の人々の膝の高さよりも頭を高く上げることや、ヒップのラインよりも上方を眼で見ることが、不遜であることとして固く禁じられていた。普段のご挨拶はもちろん土下座叩頭である。―なお、この家には韓国人の使用人―コックや執事等の日本人奴隷が出来ない仕事を受け持った―も多数いたが、彼らにはこうした規則は適用されない。四つん這い・土下座を強制されるのは、あくまで日本人の奴隷―倭奴―どもだけであった。丸山ら倭奴どもには、玄関へ続く階段を昇るご主人様の後姿さえ拝むことが出来ないのだ。
ソヨンが家の中に消えてから、ようやく彼は立ち上がり、駐車場に停めてあるソヨンの愛車の洗浄へと走ることが出来る。奇麗好きのご主人様のために、その愛車をピカピカに磨き上げる。これも毎日の日課だった。
奴隷には悠長に支配される喜びを感じている暇は無かった。懸命に主人の意に沿うよう働くことだけが、奴隷の唯一の存在意義だった。
次の日の朝―
いつものように足許で土下座して主人をお送りする丸山。
彼を見下ろすソヨンは上機嫌だった。
ハンドバックを肩から提げ、後ろに若い韓国人男性の鞄持ち―ソヨンに仕える同じ使用人であっても、丸山ら倭奴よりもはるかに身分は高い―を付き従えながら、ソヨンは足許の初老の小男に言った。
「そうだ、マル。今日は妹がこの家に遊びに来ることになったの。東京に来たついでに、この家と倭奴たちを見たいって。しっかりお家のお掃除しておいてね」
何気なさそうなソヨンのその一言で、丸山は一気に緊張感を募らせたが、必死でそれを打ち消そうと大声を張って返答した。「…ハイッ! 畏まりましたソヨン様!」
(うふふ…。ほんとは死ぬほど怖いくせに…。ま、いいわ。せいぜい怯えながらご来臨をお待ちしてることね…)
ソヨンは心持ち微笑んだが、その微笑みはもちろん土下座する丸山からは拝み見れない。
「5時には帰るわ」
冷たく、傲慢な口ぶりで言うと、ソヨンは足許の奴隷の後頭部を、靴底で軽く撫でてやった。そして笑いながら言った。「ソナも、お前のこと覚えてたよ。久しぶりに二人で遊んであげるわ、中将さん」
それから軽い嫌悪感と侮蔑感を示すように、足許に土下座する丸山の後頭部を、『トン・トン・』と、靴底で二度叩いてやった。そしてさっさと駐車場の方へ歩いていった。
(あぁ…ソナ様が…日本にいらしているのか…)
丸山にとって、妹のソナ【18歳】は、鬼より怖い女性だった。その名を聞くだけで背筋がキリキリと痛み、目に涙が浮かんだ。
もちろん姉のソヨンも倭奴には非常に厳しい性格だったが、ソナはそれにさらに輪をかけて、倭奴に対して苛烈だった。丸山はこの妹君―普段は韓国本国にいて、日本にはあまりご降臨なさらなかった―に、成り行きから特別目を付けられ、『可愛がられて』いた。
(…ソナ様…嫌だ…死んでしまう…)
丸山の恐怖感は止め処なかった。
戦時中の丸山に『捕虜教育』を施し、戦後、偶然再会した丸山をこの家の奴隷として連れてきたのがソナだった。そして彼は奴隷としての人生をスタートさせることとなったのだった。
その後この家で、二人の美しい姉妹に徹底的に虐められ、使役させられた。
丸山は、その約半年前の邂逅を思い出していた。