国破
ソナはこの土地の風景が気に入っていた。
この土地に降り立って、ほんの数分間周りを観察するだけでたっぷりと自尊心を満足させることが出来る。
(私は、なんて恵まれた身分なんだろう・・・)
誇らしさが自然とこみ上げてくる。
ここは日本大公国のかつての首都―しかし今では韓国による小倭列島植民地支配の中心地である。
総督府の職員や進駐軍将兵、半官半民の各種公社の幹部から、ソナのような旅行者まで、この土地にいる韓国人は、韓国国籍を有するというだけで、現地人―倭奴―から無条件に尊ばれ、崇められ、拝跪される。
倭奴たちは韓国および韓国人に対する永遠の服従のしるしとして、一人残らず首輪を嵌め、その首輪の色で、韓国人は一目で倭奴の奴隷ランクを見分けることが出来るようになっている。倭奴はいかなるときも自分のランクを表す首輪を外すことが出来ず、もしこれを外すと、法律により厳罰の対象となった。
もちろん、仮に首輪による識別が無かったとしても、この土地における支配者である韓国人(特に貴族女性)と、被支配者である倭奴との区別は一目瞭然であった。
まず平均身長の差が極めて大きい。
韓国貴族女性の平均身長178.5センチ(平民男性172.1センチ・平民女性162.9センチ)に対し、倭奴は、男169.6センチ・女158.5センチである。
さらに韓国貴族は美的意識の観点から、ヒールの高いブーツやパンプスを好んで着用する一方、倭奴は街中であっても素足か鼻緒の草履―古い侮蔑語である豚指[チョッパリ]の語源である―を強制させられているため、韓国貴族と倭奴との身長差はますます際立つこととなる。
体格の違いは体重にも如実に表われている。15歳から40歳までの働き盛りの男倭奴であっても、その平均体重は成人した韓国貴族女性の70パーセントに満たなかった。
次に顔の造りである。
韓国女性の端正な目鼻立ちは世界的に誰もが認めるところであり、中でも韓国貴族階級は、今や地球上のあらゆる民族から憧れられ、羨ましがられる『花形』である。
一方で倭奴は、土下座のし過ぎもあるのだろう、鼻は無惨にへしゃげて額が広く、顔全体がのっぺりとした、いかにもみすぼらしい顔立ちだった。おまけに土埃に四六時中曝されているせいで、肌全体が茶色く汚れていた。
最後は倭奴どもの媚びへつらう態度である。戦前から彼らの腰の低さは世界的に有名だったが、未曾有の敗戦はその卑屈さを最大限引き伸ばした。
例えば倭奴どもの挨拶に、端的にそれが表われていた。
倭奴の中でも『一般奴隷』ランク以上の上級倭奴であれば、韓国人に対して、立ったままでの最敬礼による挨拶が許されていた。彼らは街中で韓国人を見かけると、足を止めて深々と頭を下げての最敬礼をする。そして深くうつむいたまま、「韓国万歳」と声を発し挨拶する。かつての日本人が「おはよう」とか「こんにちは」とか言う代わりに、倭奴は「韓国万歳」が日常の挨拶となっていた。
上級倭奴は町を歩くとき、いつ韓国人にお目にかかってもいいように、背筋を曲げて腰を低くし、上目遣いで周囲を窺うように目をキョロキョロとさせながら歩くのだ。
一方、下級倭奴―『猿』ランク以下の倭奴―の所作は、もっと倭奴『らしい』モノだった。
下級倭奴の韓国人に対する挨拶はもちろん土下座叩頭である。
彼らは、街中で韓国人を目にすると、サッと路肩に寄って土下座する。
土下座して地面にへばり付いた後は、挨拶した相手が通り過ぎて目の届く範囲から離れるか、あるいは幸運にも返礼を賜るかしない限り、頭を上げることは決して出来なかった。『返礼』というのは、韓国人が倭奴の土下座叩頭に対して、足許にある倭奴の頭頂部を爪先で一蹴りすることで、これを受けると、倭奴は顔を上げることが許された。
逆に後頭部を靴底で『ぽんぽん』と上から軽く叩くと、これは「(まだ)頭が高い」「もっと頭を低くしろ」の意味で、倭奴はこれをされると、恐縮してさらに額を地面に擦り付けて頭を低くしようとするのであった。韓国人のこれらの所作は『靴号令』と言われ、韓国人なら小学生でもその意味を知っていて、便利に使いこなすことが出来た。当然、『靴号令』の主が韓国人の貴族子女であれば―たとえそれが小学生であったとしても―、その命令はすべての倭奴にとって絶対だった。
小倭列島の『植民地っぽさ』は、そこに住む住人にとどまらず、土地全体・街全体に色濃く染み付いている。
植民地における公用語は韓国語で、町にある看板は―数字と、稀に混ざっているアルファベットを除けば―全てハングルである。例えば、倭奴どものスローガンである『一億総奴隷』とか『大韓女権帝国万歳』とか『滅私報韓』といった文字[ハングル]が、町の至るところに掲げられている。
それらの看板を見るだけで、この列島の主人が誰であるのか、何者の目にも明らかであった。
なお、韓国語が出来ない倭奴は、韓国人に対して直接的な御奉仕が出来ず、裏方の仕事でしか使って頂くことが出来ないので、倭奴にとって韓国語は、必然的に生きていくための最重要な能力となっていた。敗戦以降、老若男女問わず、倭奴どもは必死で韓国語を学習した。
そして小倭列島の町の風景は、『一般区(韓国人居住区)』・『倭奴居住区』・『焼け野原』のたった3通りに大別できた。
進駐軍は全国の土地をランク付けして、住むのに不便で環境も悪い下から20パーセントの土地を『倭奴居住区』として、大量の倭奴どもをその狭い区画に押し込んだ。市街地においては、土地が低く湿気がちで日当たりも悪い地域である。そこには粗悪なバロック小屋がひしめくように立ち並び、かつて自分たちが住んでいた土地から引き離された倭奴たちが、まるで家畜のように住まわされていた。その劣悪な環境を、韓国人は面白がって『ウサギ小屋』とか『ブタ小屋』と呼んだ。
それ以外の土地はすべて韓国総督府の土地となり、無数の総督府関連施設が急ピッチで建設された。余った土地は安い価格で韓国人に払い下げられ、広大なコロニアル[植民地]風の別荘が立てられたり、農村部においては大規模なプランテーションとなり、倭奴を働かせての農業経営の基盤となった。韓国人にとっての娯楽施設―カジノやゴルフ場も多い。おおむね、韓国人一人当たりの居住スペースは、倭奴一『匹』のそれの約300倍である。
そして列島各地のほうぼうで翻る太極旗。これが最も小倭列島に住む住人たちの心情を率直に表す光景かもしれない。総督府関連の建物はもちろん、倭奴の住居・役場・学校・その他の公共施設すべてに、高々と韓国国旗である太極旗が掲げられていた。家庭においては、一家に一本の太極旗の所持が義務付けられていて、倭奴どもは休日にはそれを玄関先に掲揚する。『国旗崇拝法』が小倭列島全域に施行されており、倭奴どもは、かつての敵国の国旗である太極旗に対し最大限の敬意と忠誠心を持つことを義務付けられ、太極旗に対して粗相を犯した倭奴は、『国旗侮辱罪』で即死刑となった。太極旗は倭奴一人一人にとって、『最も身近な御神体』となった。
ソナが東京に到着したこの日も休日で、各家々で高々と太極旗が冬の風の中に翻っていた。
ソナにとっては慣れ親しんだ母国の国旗が、被支配民である倭奴にとっては『触らぬ神』として、悠々と彼らの頭上を圧している。




