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流星

「苦しかったです。私めが人生で受けてきた心身の苦しみを、一日に凝縮して味わったというくらい、苦しかったです。…死んだほうがマシ、とさえ思えました。

けど、私めは、この苦しみを、進んで受け入れることが出来ました。この苦しみは、今の私めに、必要な苦しみだったのです。

私めは、四つん這いで這い歩きながら、途中から、このように思えるようになりました。『これは天罰なんだ。天がこの苦しみを、私めに与えてくださってるんだ。私めはそのことに、心から感謝しないといけない』と。

本望です。死ぬほど苦しかったにも関らず、今の私めは、清清しい気持ちで、いっぱいです。

今では、ソナ様はじめすべての女権帝国の軍人様に対して、このような機会を与えてくださったことに対する心からのお礼と感謝の気持ち以外にはございません。本当に、本当に、、、」


「感謝? あんなことされて、『感謝』なの?」

ソナは屈み込んで手を膝に置いたまま、目をぱちくりさせて言った。極限まで身体を酷使された男が、これほど淀みなく言をつむぐことに戸惑いを隠せなかった。


「はい、感謝でございます。心からの感謝の意です」

「大韓女権帝国に対する?」


丸山は頷いた。

その表情には一点の迷いもなかった。


◆◆◆

「そう、か」

ソナは立ち上がった。丸山の視界は再び彼女の膝下だけになった。ハーフパンツタイプのパジャマから顔を出した可愛らしい両の膝頭が、丸山の目線の高さにあった。


「キミの頭が正常なら簡単に分かると思うけど、キミの祖国、日本大公国は、もうすぐ降伏して私たちの国の一部になるのよ」

ソナは少し間を置いて、自分の言葉が男の頭に染み込んで行くのを待った。


「無条件降伏して、植民地になるの。それで日本人は全員、奴隷として、私たち韓国人の下で働くことになるのよ。永遠にね。

もう日本軍の組織的な抵抗は終わってるし、飛行機だって殆ど残ってないわ。

今は水面下で降伏文書作成の詰めの作業をしてるみたいだけど、最終的には、全面的に帝国の意向がそのままの形で通ることになるでしょうね。

…『無条件降伏』っていうのよ」


丸山たち捕虜にはあらゆる外部からの情報が遮断されていたが、今ソナが言ったことは、彼には100パーセント理解できた。毎日韓国空軍の基地で強制労働させられていれば、両軍の動向は嫌でも漏れ聞こえてくる。ずいぶん前から日本軍の継戦能力が底を突いていることも分かっていた。そしてまもなく日本が降伏することも…。それは『正常な頭』さえあれば、誰だって分かることだ。


日本は負ける。圧倒的な形で。

『無条件降伏』という単語を聞くのは初めてだったが、不思議と腑に落ちる言葉だと、丸山は感じた。


しばらくの沈黙があった。

二人の頭上には満天の星々が何も言わずに輝いている。


「そうそう、こんな話もあるわ」

少し間を置いてから、ソナが口を開いた。「大公を筆頭に、軍の偉い人たちは、全員、戦争犯罪人としてしょっ引かれるらしいよ。殺されちゃうかもね」

丸山からは見ることができなかったが、ソナは忍び笑いしているようだった。

「で、大公は処刑されて、『日本大公国』という国は無くなるの。韓国に併合されるのよ。

キミの国が一世紀と少し前に私たちの国にしたのとは比べ物にならないくらい、無慈悲に、かつ、永久にね」


ソナはちらりと星空を見上げた。灯火管制と空気の透明度のお陰で、故郷の韓国よりも数段明るい星空を楽しむことが出来た。ソナはこの空が好きだった。日本に来て良かったと思えることの一つだ。


「どう? ここまで話を聞いて、それでもまだ、さっきお前が言ったのと同じことが言えるかしら? 私たち女権帝国の軍人に『感謝』してる、って言える?」


ソナは言って、左の膝頭を丸山の顔面に押し当てた。

「ホラ、どうなの? 答えてごらん」ソナは今では憚ることなくクスクスと笑い声を漏らした。


膝をぐいぐいと顔に押し当てられながら、丸山は少しの間、自分の気持ちに適した言葉を探し求めた。

ソナの膝からは、微かな石鹸の香りがした。淡いミント系の香りだ。何かの匂いを知覚したのはずいぶん久しぶりのように感じられた。


夜空の星たちが先ほどより少しだけ輝きを増したようだった。


やがて彼は静かに語り始めた。

「…はい。やはり私めは、ソナ様に、そして大韓女権帝国のすべての軍人様に、心の底から感謝致しております。

この気持ちは、たとえ相手が、祖国を消し去った当の本人であり、極限的なまでに祖国を貶め、そして未来永劫ずっと貶め続ける張本人であったとしても、決して変わるものではありません。

むしろ、その事実は、私の感謝の気持ち、いえ、それは忠誠心です、その忠誠心を、強めさえしてくれます。それは、絶対に抗うことのできない、圧倒的な力の存在を、私めに骨の髄から分からせて下さるからです。

そして、あなた様は、私めにその絶対的で圧倒的な力の存在を教えて下さった、精神的な大恩人なのです。

私めは、一生、あなた様と、大韓女権帝国に、心からの忠誠を誓います。たとえ何度生まれ変わっても、この忠誠は消えません。

大韓女権帝国よ、永遠なれ…。パク・ソナ様、私めの粗末な命があなた様の踏み台となり、あなた様が幸多き人生を歩まれんことを…心の底から祈っております…。女権帝国万歳…。パク・ソナ様万歳…」


ソナは彼が両目から涙を流しているの知った。涙は次々と溢れ出て、丸山の頬を伝って顎先から滴り落ち、サンダルから剥き出しになったソナの足の指を濡らした。

ソナはハッと息を呑んだ。

その涙の温かみは、足の爪先から伝わってソナの心にある氷塊を溶かしていくようだった。

その涙は肉体的苦痛から生じたものではなく、ましてや悔しさから生じたものでもないことを、ソナは直感的に理解できた。


(これの真心に応えてやりたい…)

もはやソナは足許の男を、『彼[he]』ではなく『これ[it]』で想起することに不自然さを感じなかった。


「気持ちは良く分かったわ。そこまで思ってくれてて、私も嬉しい」

そして次の言葉が自然と口を衝いた。「キス、してもいいよ」


丸山にはその一言で十分だった。彼のこれまでの人生全てが報われた瞬間だった。

もちろん彼は何処にそれをすべきか分かっていた。棒になった腕に渾身の力を込めて両肘を折りたたむと、『グイッ』と頭を下げ、さらに首を僅かに伸ばしてそこにある右足の親指の付け根に、唇をそっと当てた。

その瞬間二人の頭上にひとつの流れ星が輝いて、すぐに消えた。



◆◆◆ ◆◆◆

夏が終わるとソナは戦闘機部隊から爆撃機部隊へと配置換えになり、より前線に近い基地に移された。戦争はいよいよ日本の息の根を止める最終局面に入ってソナの軍務は多忙となり、彼女の中で小松基地での夏の日の出来事は呆気なく忘れ去られていった。


しかしもちろん丸山はこの日のことを決して忘れたりしなかった。

もうしばらく続く捕虜時代と、戦後の戦犯管理所時代を経て、彼の女権帝国に対する心情は、分厚い恐怖の衣を纏うことになるのだが、その核にある『真心』は、その女性の足に唇で触れた感触と共に、生涯消えぬものとなった。

これでようやく第一部・完 です。

次話からは冒頭の時間軸に戻って終戦後が舞台になる予定です。

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