青春7
悲願のスモウ部立ち上げが成就したもののウキタのソウルでの留学生活にはまだまだ乗り越えなければならない課題が山積していた。
クラスでの授業に全く附いていけないのだ。
唯一英語だけは『何の話をしているか』程度には理解できたが、ギリギリ赤点は免れるレベル―学年ではぶっちぎりのビリ―で、その他の学科は全て赤点だった。
ウキタはスモウ部立ち上げの折にお世話になった『恩人』の、2年A組のパク・ソヨンの親切心に再び縋ることにした(ウキタはF組だから違うクラス)。なおスモウ部の新しい後輩である二人は学年が下だし、自分たちのことで手一杯で頼れなかった。
休み時間や放課後、ソヨンがお手隙の際を見計らって―ソヨンは殆どいつも女男問わず級友と談笑しており、そのようなときに話し掛ける勇気はウキタになかったが、時おり一人で書籍を読んでいる時間があった―彼は迷惑を顧みずに話し掛け、自分の窮状を訴え掛けた。
「…分かったわ。すごく大変なんだね…」読みかけの本を閉じ、ソヨンは面倒臭いそぶりを一切見せずに(実際は相当に面倒臭いと思っていたが)、言った。「こんど家においで。私が使っていた勉強グッズを貸してあげる」
ウキタは嬉し泣きしたくなるのを我慢して、日時を約束しソヨンの自邸の場所をメモした。
ある日曜日の朝、ウキタが教えてもらったソヨンの家を訪れると、それは目も眩むような大豪邸だった。ソウルの閑静な超高級住宅街にあったため、いかにも『異世界に迷い込んだ場違いな貧乏日本人』の彼は何度もガードマンに『職質』された。
なんとか辿り着いたパク・ソヨンの邸宅はほとんど城館のようで、宅門だけで3個あり、使用人の通用門が別に2個あるということだった。
興奮のあまり約束の25分前に到着した彼は、邸宅の外を1周してみようと思った。
…高級車がズラリと並ぶガレージの横の庭にソヨンがいた。宅門に続く車寄せの途中の、生垣と木の隙間から彼女が見えた。
ソヨンは半袖のTシャツにトレーニング用のレギンス、スニーカーという格好で、髪はポニーテールに纏めていた。
彼女は(その名称は後から訊いたのだが)、『スポーツウィップ』の練習をしていた。―3メートルはあろうかという長い鞭を右手や左手、時に両手持ちで素振りしていた。
―後で鞭を持たせてもらったが、びっくりするほど重かった。『…意外と重たいでしょー。けど、これくらいの重さがちょうどストレス発散と筋トレにぴったりなんだよね』とソヨンは言ったが、その鞭はウキタにはズッシリ重く、コレを振り回すなど30秒だって無理だと思った―。
ヒュン、ヒュゥゥン、ヒュゥゥゥーン、、と鋭く風を切る音が、断続的に一定のテンポで続く。海鳴りのように微かだが、時に鋭いソニックブームのように静寂を払う音だった。
鞭を振りかぶる時と振り下ろす時に、ソヨンはぐっ・と表情を引締め、そのたびにポニーテールがふわふわと彼女の頭上で揺れた。首や頬から汗が飛び散り、露わになった両腕の筋肉が機敏に躍動しているのが見えた。もちろん薄いTシャツの生地の下で豊満な双丘も躍動していた。
…ウキタは余りの美しさに見惚れてしまい、しばらく呆けたようにその様を見詰めていた―よっぽどスマホで動画を盗撮して自慰行為のネタにしようかと思ったが、大恩人に対してそれは…と思い、すんでのところで思い留まった。
時間にして10分くらい、ウキタはそんなソヨンの様子を見詰めていた。ソヨンが鞭を振るう手を止めて、少し離れたガーデンテーブルに行ってタオルで汗を拭い、置いてあったペットボトルのドリンクを飲むため顔を傾けた時、彼女はウキタに気付いて『あっ』という顔をした。―もちろん『あっ』という声は出ていないが、『あっ』以外にないと、そしてこのような場合は日本でも韓国でも共通して『あっ』なんだと、ウキタは思った。
それから彼女はにっこりと微笑んだ。
ペットボトルを持った方の手の指の、親指と人差指以外を広げて―ちょっとペットボトルを持ちにくそうに持ったまま、―ソヨンは彼に向けて顔の近くで小さく手を振った。
…好きな人が出来た、とウキタは思った。
それから慌てて手を振り返した。いま来たばかりです、という自然な顔を作るのに苦労した。
そしてどうしようもなく勃起していた。
…それから家に上げてもらって紅茶を1杯だけご馳走になり(その間にソヨンはワンピースのルームウェアに着替えた)、マリ●カートを1レースだけプレイした(ウキタのキノピ●はソヨンのピー●姫に惨敗した。ソヨンは日本人の若者は全員ゲームが上手いと思っていたのでちょっと不満だった)。
レースの途中、ウキタがソヨンの様子で一番覚えているのは、甲羅をぶっつけられて思わず左に座るソヨンを横目で見たとき、ソヨンが『うひひ…』みたいな顔をしてコントローラで口もとを覆い、肩をすくめて横目でこちらを見返してきた様子を見て(肩の形が分かりやすいルームウェアだった)、それでまた図らずも勃起してしまったことだった。
広い大広間のようなリビングの、巨大なテレビ画面でゲームをしている最中、一瞬、リビングに顔を見せた妹のソナの姿をウキタは目撃した。
ウキタは「こんにちは、お邪魔してます」と挨拶したがソナは返事をせずに代わりにウキタを鋭く睨み付け、すぐにどこかへ行ってしまった。
激烈に可愛い中学生だ、と思った。(本当に可愛くてドキドキしたが、もちろん勃起はしなかった。)それからウキタは思わず「激烈に可愛いですね」と不覚にもソヨンに言ってしまった。言ってすぐ後悔した。
ソヨンはゲーム画面を見たまま聞こえないフリをした。(ソヨンは、よっぽどウキタに『(妹のソナは)戦争が始まったら、Kf-14戦闘機のパイロットになって、チョッパリの飛行機を全部やっつけてやる、って鼻息荒くしてるのよ』と言ってやろうと思ったが、今はやめておいた 《※第49話『思出』より》)
…それから彼女は思い出したかのように、あらかじめ予告していた『勉強グッズ』を渡してくれた。小さな段ボール箱2つ分あった。ウキタはその段ボール箱2つを抱えてソヨン邸を辞した。(まだ朝早かったが、その日もラブホテルの清掃のバイトがあったし、ソヨンも何か用事がある様子だった)
そうして彼は地下鉄に乗って下宿のボロアパートに戻ってきた。
…ソウルの大豪邸に住む、魅力的で少しミステリアスな姉―その女性に彼は完全に恋していた。
それから破壊的に可愛い、野心的な瞳をもった妹。
最強の姉妹だ。
そして僕は姉妹の家から2つの箱を持って帰ってきた。
…なんだか昔話みたいだな、とウキタは思った。
◆◆◆
その日の夜、バイトから帰ったウキタは改めて2つの箱をしげしげ観察した。
段ボール箱は2つとも同じサイズで、引っ越し業者のロゴが入っていた。
1つの箱にはマジックペンで『高1まで』と走り書きされていた。もう1つは『ソナ 不要』と書かれていた。
『高1まで』の箱を開けると、案に相違して中身は乱雑でごちゃごちゃしていた。
いろんな教科がバラバラで、参考書や教科書が入っていた。ノートも何冊かあって、1冊を手に取って見ると『3年C組 パク・ソヨン』と書いてあった。物理の授業のノートだった。
つまりソヨンが中学生だった時代のノートだった。ウキタは恥ずかしい気持ちになった。
これで勉強しろ、とソヨンが言っているということは、ソヨンは僕の学力が中学3年生時代の自分の学力と同等かそれ以下だ、と言っているということだ。
ちょっと心外に感じ、ウキタはそのノートを開いた。
「・・・。。。」
「・・・。。。」
「・・・!」
パラパラっと見ただけだが、一見して、ウキタは最初に『恥ずかしい』と思ったことが恥ずかしくなった。
異常にレベルが高かったのだ。
書いてある内容が学術的に高レベル―それは殆ど大学レベルの物理学(化学?)だとウキタは思った―であるだけでなく、ノートの余白に時おり書いてあるソヨン(中3)のコメントメモの類―『原子核の構造は陽子の数と関連付けて覚える!』とか『周期表 制覇♪(青色はのぞく)』とか、どちらも凄く綺麗な字だった。他にも実験器具の絵や、授業とは直接関係のない、おそらくオリジナルのキャラの絵(猫・あるいは熊のようなマンガ)も散見された。それらが、所々は高度過ぎて意味は解らなくとも、中学生時代のソヨンの高い意欲・向上心、あるいは息づかいというか生の声というか、、当時のソヨンの『眼差し』のようなものを想像してしまい、なんというか、眩しいものを見ている気持ちになってしまった。
一旦こちらの箱は離れて、ウキタは続いて『ソナ 不要』の箱を開けた。
内容量は、重さでだいたい検討は付いたが、一つ目の箱の半分くらいだった。
…『ソナ/不要』という標題から予感はしていたが、それは妹のソナ―中学校1年生―の、しかも不要になった教科書や参考書だったから、実質小学校レベル?と思ったら、実際に小学校の教科書が何冊も出てきて彼は暗澹たる気持ちになった。
しかも、これは重要なことだが、その小学校の教科書が、今の自分のレベルにいちばん合っていた。―読んでいて、なるほど・そうか・勉強になるなぁ・のオンパレードだった。
それに気付いて彼はますます暗澹とした。
韓国の『学生』たちのレベルの高さに、目が眩む思いだった。
彼女ら彼らが、今はまだ小さいが、じきに韓国の枢要なポジションに就き、この国を更なる高みへと引っ張っていくのだ。
「…そりゃぁ、負けるわ」と彼は独りごちた。
それからウキタはもう一度ソヨンのノートを開いた。
韓国人の女子中高生への対抗心・敵愾心が、日本人としてのつまらないプライド共々いったん落ち着くと、それ―ソヨンの手書きした文字が溢れたノート―は、彼にとってまさに宝の山だった。
すでにウキタは『ソヨン様に関することは、何でも最高!』という盲目的な恋心に精神を支配されていたから、中学時代のソヨンのノートを1ページめくるたびに胸が高鳴り、1ページめくるたびに勃起の硬度が増すのだった。
「はぁぁ…。これじゃぁソヨン様の手書きの文字を見てるだけでイっちまいそうだぜ」
◆◆◆
夜もすでに遅く、バイトで疲れてもいたから(考えてみたらソヨン邸で何回も勃起し、恋にまで落ちてしまったのは、まだ今日のことだった…なんと長い一日だ)、彼は本格的な勉強開始は明日以降に回すことにした。本気は明日まで取っておくことにした。(いまのところは『ソナ 不要』の箱の国語と算数から始める考えだった)
最後に彼は『高1まで』の箱をもう一度しっかり見てみることにした。
ほとんどが教科書(学校のものと学習塾のものがあった)、それから参考書(単語帳や地図帳や便覧を含む)、そしてノート(授業用のノートだけでなく宿題用のノートもあった)
…この箱の中身を確認しながらウキタは再認識したのだが、これは2箱とも、ソヨンがウキタのために選別してピックアップして箱詰めしてくれたものではなく、部屋の掃除か整理の副産物だった。
『ちょうどさいきん要らないものを仕分けしたから、よく分からない留学生に持って行かせよう。損にはならないしね』という感じのものだった。
そうでないとすれば、もう少し中身を整理するなり、あるいはウキタに向けてメモや目録のようなものを添付するはずだ。
それでウキタはちょっと凹んだ。(うすうす気付いてはいたが)、ソヨンにとって自分はアウトオブ眼中なのだ。。
…そう思いながらウキタは『高1まで』の箱を探った。
フローリングの床の上に胡坐を組んで座り、目の前に段ボール箱を置き、とりあえず中身を底まで全部出してみることにした。
教科書・参考書・ノートが殆どだったが、それ以外の書籍として、マンガ本・アニメのイラスト集・映画のパンフレットがそれぞれ1冊ずつ出てきた。いずれも韓国のジュブナイルで、いかにも中学生が見そうな無害なものだった。中身もパラパラっと見てみたが至って普通で、書き込みや付箋なども無かった。
それから3つの重大なモノが出てきた。
まず、オリジナル写真のキーホルダー。つまり小さいながら書籍ではないものが混じっていた。薄い透明アクリルに小さな女の子のバストアップの写真がフルカラープリントされている。
ヒマワリのイラストのチャームが付いていて、『Soyeon/3歳9ヶ月』と書いてあった《※『/』は改行を表す。『歳』と『ヶ月』は実際はハングル。名前の英語表記と数字は現物ママ》
それから、学習院中等科の卒業アルバム。
日本の普通の中学校の卒業アルバム(表紙に金文字で『飛翔』とか『夢』とか書いてあるやつ)とだいたい同じ構成で、校長先生のお言葉、各クラス担任・科目担任の紹介、各クラスの集合写真と全員の個人写真(ソヨンの写真もある)、3年間の各イベントの写真、その年の世界や韓国の出来事を羅列した年表、手書きメッセージ用の白紙のページ(意外とさっぱりしていて、書いてあるのは4人だけだった。一番上はハヌルで、『ウチらずっ友やで~。ずっとは無理でもエスカレータやから、あと3年は少なてもヨロシク~』と書いてあり、あとの3人も似たようなことが書いてあった。それからちょっとしたイラスト)。
そして最後の裏表紙の裏の見返しにビニールのCDホルダが付いていて、中に『学習院中等科 ソウル校 女権暦14年度 卒業アルバム【デジタル版】』と印字されたCD-ROMが入っていた。
文集や企画集(クラスで○○は誰が一番 のような)は無かった。別冊があるのか、デジタル版の方にあるのか、そもそもそういう文化がないか、いずれかだが、まぁ、それはいい。
最後に、縞々の女性もののショーツ(パンティ)が入っていた。




