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土下座

晩冬の東京―

仕事から帰宅し自邸の門をくぐったパク・ソヨン【22歳♀】を、丸山【52歳♂】は、いつも彼がそうしているように地面にへばりついた土下座の姿勢でお出迎えした。

「お帰りなさいませ、ソヨン様!」血の滲むような努力を重ねて習得した韓国語で、大声を張り上げる。


コツッ・コツッ・コツッ・とピンヒールが石畳を打つ軽やかな足音。その一つ一つの足音が、土下座する丸山の緊張感を一目盛りずつ増幅させる。やがてその足音は丸山の頭の先のすぐ側まで来て、止まった。


土下座の姿勢の丸山からは、相手の姿を目にすることは出来ない。靴の爪先さえ仰ぎ見ることは出来なかった。

彼はただひたすら玄関脇の軒下の石畳に力一杯額を押し付け、帰宅したご主人様の足許にこれ以上無いくらい縮こまって、相手に対する心底からの服従と萎縮の意を示そうとした。しかしどれだけ頭を床に擦り付けても、まだ相手に対して無礼・不敬な気がしてならなかった。

丸山は自分が足音の主に対して、社会的地位・能力・人格すべての点で『足許にも及ばない』存在であり、『顔を上げることさえ畏れ多い』相手であることを心の髄から自覚していた。相手が旧敵国の、30歳も年下の年端も行かない女性であることなど、もはや彼の心情―絶対的な忠誠心―には何の障害にもならなかった。


丸山の頭上数センチの位置に立つソヨンは、しばらく涼しげな表情で彼を見下ろしていたが、ようやくして足許に這いつくばる男の脳天をブーツの爪先で一蹴りし、短く「靴」とだけ下命した。


そこで丸山はやっと顔を上げることができる。姿勢は依然土下座平伏で、顎を地面にくっつけたままだったが、首だけ曲げて顔を上げると、視界が地面から急に切り替わって、まぶしさに一瞬目が眩んだ。


丸山の目の前には、光の中に浮かぶ2本のブーツが聳え立っていた。

しなやかに瑞々しく光を反射させて輝く本革の高級ブーツ―敗戦国民である丸山が一生死ぬ気で働いても手の届かないような高価な代物である―が、主人の美脚にさらなる気品と優雅さとをまとわせていた。


あぁ神々しい、ソヨン様のおみ脚・・・ソヨン様の御靴・・・。

丸山はいつものように軽い感動を覚えながらも―なにせ自分にとっては『神聖』で、『御神体』である―機敏に両手を差し出して、軽く前に突き出されたソヨンの右足に触れた。そして手にした柔らかい布とブラシでブーツの表面全体をすばやく拭いた。


ソヨンは無言のまま足許の惨めな小男にブーツを磨かせていた。

ソヨンが黙って右足を引き、代わりに左足を突き出すと、丸山は左足のブーツも同じように磨き上げた。その磨き方は、上から見下ろすソヨンが思わず舌を巻くほどに、至極丁寧でうやうやしく、かつ迅速だった。


(よしよし、奇麗になったな…)

ソヨンは、上から見ていて十分に自分の靴が仕上がっていても、「もういいわ」とは言わなかった。ただ何も言わずに、丸山の両手を足で払いのけるように蹴るだけだ。そうされると「やめ」の合図で、丸山は「ハッ」と恐縮した様子で短く返事して両腕を引っ込め、再びソヨンの足許に土下座して、額を床に摩り付けるのだった。


足首を軽く捩って、ソヨンは両足のブーツの磨き具合を色んな角度からチェックした。今日も丸山の靴磨きは完璧だった。


最後にソヨンは、足許の丸山の後頭部に、片方ずつ足を載せ、丸山のタワシのように硬く短い髪の毛を足拭きマット代わりにして、靴底の土落としの仕上げをした。


ザサッ・ザサッ・ザサッ。丸山には、このソヨンの靴底と自らの後頭部に生えた頭髪とが擦れ合う音が、まるで頭蓋骨の中まで直接伝わって来るかのごとく、誇張されて大きく聞こえた。


この瞬間が、丸山にとって一番幸福な瞬間だった。それはまるで、彼が心の底から崇拝するご主人様が、自分の心底からの忠誠心をお認めになられて、褒めて頭を撫でて下さっているように感じられるからだ。彼にとっては、靴底で頭を撫でられているこの刹那は、殆ど生き甲斐の証明とさえ言ってよかった。


(あぁ、ソヨン様…このお方にお仕えして、俺は本当に幸せな奴隷だ…)

丸山は嬉しさのあまり思わず綻んでしまう口元を必死に引き締め、「ありがとうございました!」と、頭を靴底で撫でてくださったお礼を言い、床を押す額にさらに力を込めるのだった。

(忠誠こそわが誇り…ソヨン様万歳!)いつも心中密かに唱える彼なりの魔法の言葉である。


ソヨンは足許のみすぼらしい奴隷の奉公など歯牙にもかけないご様子で―はるかな高みから僅かに口角を上げて微笑むくらいはしたかもしれないが―さっさと玄関へ続く5・6段の大理石階段を昇っていくのだった。今のソヨンにとっては、倭奴どもの忠誠心など、ティッシュペーパーの一枚ほどの重さもない。完全な消耗品、安価な日用品と同等だった。


コツ・コツ…とソヨンの優雅な足音が中空へと離れて行き、ドアが開き、ソヨンは暖かい家の中に入っていった。未だ土下座の姿勢の丸山のはるか頭上で、『ガチャッ』という音を残して玄関扉が閉められた。


それで丸山はようやく顔を上げ、立ち上がることができるのだった。

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