竜と帝なる者の契り
他サイトにも重複投稿中。
竜と人が生きていた頃に、ただ一度だけ契り交わさん――
殺伐とした世界に、ただ一度だけ掲げられた御旗の話。
紋が征く。
命動の度に、一滴が紅い紋様を打つ。
まだ生きている。それがどれだけの不運であろうかと、己が身の哀れを疎んでもみよう。
「我らの契りを違えるというのだな」
「私は一度として違えたことはない。これまでも、これからも」
「ならば何故抗う。人の身に余る欲とは、かくも醜いものだと恥じ入る心も廃れようか」
「私は欲など元来持ち合わせていない」
「では何故、予の力に願い出でて『王』となった」
「『王』などとは、ただの足かけに過ぎぬ。お前の望みを叶えるための手段に過ぎぬ。そして私の唯一の願いを叶えるための、些事に過ぎぬ」
冷たい石壁の燭台より、橙の艶火が右腕を千切られた男と、相対する竜の影を作る。
城を成すにあたって作らせた半球天井の絵画に竜の翼が触れようかというその巨体。男はそれにその腕を千切られても臆することなく、言葉を続ける。
「一度として違えぬ。満足ゆくまでお前には人も家畜も食わせてきた。それは今も変らずに履行している」
「だが予に差し向けた手合いは何だ。予を亡き者にしようという、お前の謀とそれが曰ったぞ」
「確かにそうだ。だがお前はそれを食ったはずだ。契り成す際に言ったろう人の憎悪は腹の足しになると」
「……」
「腕を返せとは言わぬ。だが我らの契りとは、かく儚きものとの妄言を撤回せよ」
「……」
今も向き合う瞳は、相も変わらぬ。
鈍の空。鉄錆びた様な、赤くひび割れた大地。
古くくたびれた今にも折れそうな鉄くわを振り下ろし、大地を掬う。
汗水を垂らしたとして、それが実りとなるならば喜んでこの身からはき出そうに、枯れ果てたようなこの赤錆に落としたとして、色を少しばかり変えるだけだ。それも、灰色の鈍の空からは雨は降らずとも日の光は落とすらしく赤錆びた大地を乾かし、色を変えることを拒む。
人など住めぬ。
川もなく、池も近場になど無い。
掘り下げた井戸の水はせいぜいが生きるのに舐めて乾きを癒せる程度で、畑に撒けるほどの量はない。どこかにある水脈でも掘り当てて引けたのならばこの赤錆びた地を変えられるのかも知れないが、それを出来るだけの労力などここには無いし、まして食い扶持にも困る者がそれを行えるだけの知識も時間もない。
早朝に露雫を集めて自生する草花の茎根を喜んで食うような自分たちに、その草花を凌ぐような自力も有ったものではない。露を集めて強く生きられる草花にすら羨望を送ろうかという身の程で、取って食おうとするものは自分たちにも襲い来る。
白昼に強盗、暮れたとしても徒党を組む夜盗。女子供のある家ならば、それが『金目のもの』だと奪い去られる始末だ。
それなのに、徴税に訪れる領主の狗はその『務め』をただ果たそうとする。そして降りかかる『面倒事』には一切の関心は向けられず、盗るものだけを盗ったら逃げるように去っていく。
信じられるものなど、ここには無い。
信じられるものなど有ったとして、それは己の無力という抗いようのない絶望感だけだ。
母など気がついた頃にはいない。攫われたのか、父に売られたのかすら定かではない。
その顛末を知っているであろう父ももうこの世にはいない。あろうことか年端も行かぬ娘を、妹を殺した。なにを血迷ったのか幼い妹を暴行し、その肉を食らおうとした。飢えに飢え、狂乱の悪魔に取り憑かれたのだと兄は言っていた。悪魔憑きなど、同じ集落の者にすぐ殺された。
その兄もつい先日、死んでしまった。父が死んだのならば徴税など耐えようがない。払えぬものは体を差し出せと、兄は徴兵されて村を出て行った。そして一月もせずに『遺品』と称した、そこらで拾ってきたようなただの木の棒きれだけが帰ってきた。
信じていたものなど、もうここにはない。
生きているのか、死んで地獄にいるのか。そのどちらでもなく、そのどちらでもある。
生きることが苦痛でしかない世界に、何の未練があるのだろうか。
それでも『体』は生きようとしていたのだろう。
気がつけば細い草の茎と根を握りしめ、岩だらけで枯れ草が散らかる山にいた。
ねずみを獲ろう。岩だらけの山の中、ねずみを探して血のにじみ始めた素足で歩き回っていた。痛いなどと言う感覚はなかったし、どの様な道程であったのかも、もう覚えては居なかった。おそらく、生きるためにねずみを獲ろうとは考えていなかったのだろう。最後の晩餐にと、せめてもの慰めにと、選んだのが貧相な山ねずみの肉。
駆けずって、転げ落ちて、叫んだとしても、誰も助けてはくれない。
泣こうも、膝から崩れようも、血が滲もうも、なにも起こりはしない。
世界とは、これほどに陰惨で救いがないのかと。
めぼしい岩穴に手を突っ込んで、柔らかい毛の玉を掴む。
噛みつき、啼き、抗う。
そうやって、弱いものは奪われるのだ。手の内にある自分に、救いがない様に。
「――人とは、殺す段にも嗤うモノなのか」
「――っ」
両手でねずみを握りしめ、屠ったその瞬間。饐えた肉の臭いが鼻を突いた。そして耳に届いたのは囂々と岩山の肌に響き渡るコトバ。人の身で出しうる声量でなく、それでいてはっきりと聞き取れるコトバ。見渡すばかりに岩と石が転がり、人の隠れられる場所など無いような山に、突如として現れたコトバの主。
「予にはそう見えたが」
「――っ」
振り向いて、手からねずみを取り落とす。
眼前に草を石ですり潰した様な深緑。それが大空の王者たる竜の鱗だと解るに、しばしの呆然を要した。
「どうした、食わぬのか」
「あ……ぅ……ぁ」
竜の鼻先で、年甲斐もなく失禁した。兄や妹が生きている内ならば恥ずかしさに消え入る思いで居られたろうが、人をも食うという竜の眼前で消え入ることなど出来はしない。
「獣の糞尿ならば終えた後食うに困らぬが、人はその衣に残したままにする。これが食うには、あまり良い心地がしない」
「――ひっ、ひひっぃ」
竜が呼吸する度、鼻息からくる饐えた臭いが己の呼吸を乱した訳ではなく、平然と今日明日食う物の話をする様に、人の末期を語る。あまりにも醜悪な己の最後に、ただ息をすることも乱れた。
「ぁだっ。ぃやぁだ……」
「……お前もそれを殺したように、予もまた生きるために食う」
「だめだっ、死にたくないっ」
「そうは言うが、人の命乞いなど畜生にも劣るとは思わないか。その小さな獣は抗ったぞ」
「……俺にも、抗えと言うのか」
「おお、そうだ。抗え、啼け、噛みつけ。そうでなくては予は飯も咽を通らん」
もう足も腰も立たない。ただぶちまけた小便に、岩の転がる山肌に尻を落とした。
「……嫌だ」
「……何」
「もうたくさんだ。抗った、叫んだ――」
「ならばまだ噛みついていないな」
「……おい、お前。噛みつき方を教えろ」
「――なにを言い出す。予が噛みつき方を教える時は、お前は生きては居ないだろうに」
「いや、生きるさ。どうして俺が、お前なんかに食われなくてはならない」
「それがこの世の理だからだろう」
「だから、噛みつき方を教えろ。その理に噛みついてやる」
「……ほう。して、噛みつき方を教えた予には何を供する。お前の肉か」
「それでも構わない。だが、俺に力を貸すのなら、俺かお前が死ぬまで好きなだけ好きな物を食わせてやるさ」
「小さな獣一匹、満足に獲れないお前が何するものぞ。予の力を持て余すに違い有るまい」
「なら俺の前にいるお前はどうだ。目の前の小さな人一匹、満足に獲れやしないだろう」
「はっはっはっ! そうだ、相違ないっ!」
深緑の竜を従えて、必ずや噛みついてやろう。
柔らかく、悲鳴の聞く、抗いようのない場所を。
そっと、深く、噛んでやろう。
「志願? お前が?」
「はい」
最低限のぼろ布を纏った少年。ただ持っているのはそれだけで、あとは何もない。
城門の守衛は彼を見て、訝しむ態度を隠さなかった。
物乞いや浮浪の民が食うに困って兵役に志願することがままある。だがそれは殆どが成人であり、子供が志願することはない。子供など野に放たれれば数日と保たないからだ。
訳あって一両日中に放逐されたのか、それともどこかで売られて使われていたのを逃げ出したのか。守衛は目の前にいるのがどうせその類だろうと、厄介事とそのものであると疎んじていた。
どうやって追い払おうか。こういう手合いは食い下がって誰かに認められることを目的としている。通りがかる高官にお伺いを立てられれば、兵士として登用される事もあるからだ。だがそれは困る。その高官は大抵の場合、自分で登用したはずの浮浪者や子供の身の上など覚えては居ない。守衛として表を張った者にその責任が覆い被さる。別に守衛の首をすげ替えたり、軍から放逐されるような事はないが確実に昇進に響き、戦場での居場所が変る。
なるべくなら早くどこかへ行ってもらうのが、二人して門の前に立たされた守衛の安寧に繋がるのだが、目の前の少年はまだ別のモノを持っていたらしい。
「ダメだ。お前のような子供など――」
「……」
その子供は、無言で、指で天を突いた。
何がしたいのか。全く持って理解できず、携えた短槍の石突きで少年の腹を打った。
何の抵抗もなく、それは相応に両手で腹を押さえ、小さくうめきながらうずくまってしまった。少々やり過ぎたのではと心配にはなりはしたものの、彼らのおきまりの台詞がある。
「これくらいでうずくまるようでは、兵士などにはなれないぞ」
「そんな、もんには…… ならない」
「はあ。何を言う、お前は今、志願したいと言ったろう」
「俺は、人の先に立つ。王と呼ぶ者に成り代わる」
「不敬だ。お前は何を言っているのか分っているのか。吹かれて飛ぶような小僧ごときに――」
腹を片手で押さえたまま、もう片方の手で再び天を突く。
この子供はかしずくことを知らないのだろう。誰かに媚びへつらって、生かしてもらおうという考えがそのまま欠落している。子供の身の上を哀れんでやるのが二人して佇む守衛の役割なのだと、つらく当たろうとした言葉を飲み込んだとき空が陰った。
天を突く子供、雲間に落ちたこの場所。
それでも、子供の目は降り注いだ僅かな光を返した。
風が降りてくる。
城門前の広場は陰り、乱れた風を所々に巻き上げ、砂埃と悲鳴を上げる。
広場の噴水、著名な彫刻家が作った大理石が音を立てて崩れ、その上には世に恐ろしき大空の王、深緑の竜が陣取った。
「ひ、ひぃぃぃっ」
守衛二人は構えようなどとは思わなかった。短槍などとうに取り落とし、地に尻をついてただ始めに食われない事だけを祈った。
深緑の竜は一人一人を値踏みするように見回して、ただなにするでもなくその場から動かなかった。そこにまた、なにするでもなく動かない者が居る。
「お、お前は……」
「大丈夫だ。ちゃんと飯は食わせて来た。村一つ、全部だ」
この子供は竜を従える力を持っている。
「――」
それだけではない。この子供は、まだ持っている。
何か底知れぬモノを、まだ持っている。
初陣とは。誰もが心躍る場である。
死を畏れる事もまた心の乱舞であり、武勲に誉れを求めることもまた心の演舞である。
誰も彼もが何かを抱えたまま戦地へ赴き、あるものは同じだけ抱えて帰り、あるものは初めのそれよりも多く抱えて帰る。もちろん、少なく抱えて帰ることもままあり、また何も持てずに帰ることもある。
だが、なにより帰ることが出来ればそれだけで重畳である。
「隊列を乱すな。貴様等の持っている御旗は王の御印である。乱してはならぬ、倒してはならぬ、まして地に伏せてはならぬ。旗持ちが我が軍の士気に関わること、各々が肝に銘じよ」
兵士といえど、花形の突撃槍兵や騎馬兵など熟練の兵士達が行うものであり、つい先日兵役に就いたばかりの小僧が任されるようなモノではない。
頭に合わない誰が使っていたのか分らない兜に視界を幾度となく遮られ、背丈よりも倍近い旗付きの槍を持って行軍する。与えられた兵服も丈も袖も合わず、何度も戦場を駆けた大人達に混じって新参者の小僧がおいおい通る。
行軍する草原はその昔、戦場だった。ここにいる誰かが駆け回った戦場で、ここにいる誰かの友が倒れた戦場だ。それを小僧が、周りの者よりも頭一つ小さい彼がただ徒労感だけを携えて不敬にも心の中では悪態をついていた。
どうして旗なんか付いた、ただ重いだけの槍を持たされているのだろうかと。
旗がただたなびいているのを見て、誰が高揚などしようか。あの王の旗のもとに今までどれだけの兵が集められ死んでいったのだろうかと。
兵を養うために、どれだけの重税を強いて庶民を飢えさせたのだろうかと。
倒し、踏みつけにして、焼き払おうともまだこの旗の許には罪が渦巻いている。
神より使わされた王の御旗である。そういうならば何故神とやらはそれ以上を王に与えなかったのか。神聖など、加護など、あるものか。
使いに出される人の惨めなこと、ただ見栄のために豪奢に編まれた『王の御旗』とやらに、こうして大勢の徒労を強いる。この旗をあの暗い稜線の先に立てられたとして、そこで何を得ようものか。
一介の旗持ちでしかない小僧が、そこで何を得られようか。
夜明け。
金色が地平の果てから滲み出し、辺り一面に影を作り始める。
薄らいで見えなかった陣形の向こう側。掲げ持った旗に似た影が、いくつかすくと天を突いている。
皆、吐く息が白い。
徐に見えてくる敵陣の全容を把握するにはまだ幾何かの時間を要するが、小さな丘の上にとる小僧らの陣よりも圧倒的に多い。
誰もが思ったに違いない。あまりにも無謀な戦端がここなのではないのかと。誰も彼もが表情一つ変えることなく、諦観の表情とも、緊張の表情とも取れるような虚ろな顔をして、それを見据えていた。
金色が征く。
それが麦穂ならば皆が喜び勇んで戦いに行こう。だが、ただ草足が長いだけの食えない雑草の草原が傾いだだけでは誰も満たされる事はない。
静寂に音。息遣いは人のモノと違い、四つ足の小気味よい音がする。
鋼鉄製の、見るからに騎士と解る甲冑を着た者が陣の先に立つ。金色の風が向こうを通り抜け、甲冑が眩い光を辺りにまき散らす。
「諸君。よくぞ我が許に集ってくれた。これより敵方、皇国とのおおいくさである」
綻んだ。誰も彼もが解っている。負け戦だ。
誰も彼もが目の前に出てきた指揮官に哀れみと同情を覚え、皆が皆、己の身の上とこの状況下で哀れを謳った指揮官の為に笑った。皆、前を向くのは止めた。
白みはじめ、群青から金色を滲み出し、いつか見た空へと変る。
誰も彼もが覚えている。郷愁たる空の色を。
「矢を構えっ! 法術を持って草はらに火を放ち、無勢を逆転するっ」
応と鳴る。
地が震え、草花が揺れ、風が響く。
それに応えたのは紛れも無く、人だ。
地が足掻き、草花が圧され、風が啼く。
掲げられた敵方の旗は金色に輝く。
小僧の掲げる使い古された御旗はその威容に圧し負けて風を忘れたかのようにだんまりであった。
何が楽しいのか解らない。それでも誰も彼もがただ空を見て笑顔だった。
草原の向こうから聞こえた声など聞こえていないとばかりに、皆一様に笑顔だったのである。良い天気だと、いつか見た草原の姿に皆が涙し、笑顔のまま、始まった。
古ぼけた青の御旗が、そよと凪にたなびいた。
波間をうねる。灰色に力尽きて朽ちた草を羨ましく思う。
誰もが脇に転がる誰とも知らぬ者の亡骸を避け、色の違う兵服の者と切り結ぶ。どちらかが倒れ、どちらかが進む。進めど進めど同じ作業の繰り返し。燃え尽きた草の後ろを追うように駆け抜け、未だ炎の燻る場所で怯えながらに生を実感する。
旗持ちの小僧も、今だ生きていた。ただ、旗槍はどこかへ行ってしまった。
少ない頭数で陣形など保てるはずがない。指揮官など初手も初手、矢の応酬で早々に退場あそばされた。指揮する者を失った陣形が崩れるのに時間など必要はない。
初手の魔法の火かけによって直接切り結ぶ混戦となりはしたが、それでも負け戦に誰が見ても相違なかった。
その手から落ちた旗槍など小僧にはどうでも良かった。
風上の炎の迫らない草むらの中に体を落として、ただ頭を抱えて祈る。先に何に祈ろうとも無駄だと悲観したが、無心に祈っている己がいた。
神に祈ることも己から否定し、加護を受けるに値しないと。
戦場で戦意を喪失した者の末路は二つ。糧食の無駄だとその場で切り捨てられるか、ただ生きた死体として隷属させられるかの二つだけである。
とかくこの世が生きがたいのならば、祈ることも止むに無し。
剣戟をさえずりに、阿鼻叫喚を賛美歌に。
おお、祈ろう。
魂を悪魔に売ろうとも、邪教の神に奪われようとも。
この世の惨禍を謳おう。
平原に静寂を。
剣戟が止み、誰もが天を仰いだ。
おお、祈ろう。
大空より出でし、王者である。
深緑の竜が空を駆け、誰しもが祈る。どうか我が身を食わぬようにと皆が祈る中、ただ一人この期に及んで小僧は奇跡を望んだ。全てを飲み込む、この世の混沌を。
「おお、祈りましょう……」
槍の穂が、天を突く光景が。その場に生きた者の目を奪う。
みすぼらしい少年が深緑の竜の前に臆することなく仁王に立って、掲ぐ。
両陣にてただ一つ、金色の穂先をすくと立て、ただひとひら翻る『王の御旗』を。
皆死んでいる。
ただ一点を見つめ、鋼鉄製の腕を鷹揚に振るう。
誰も彼もが死んでいる。
皆が口々に「王の為に」と言い、己の居場所を指して「大儀の為に」と両翼を任せよと言う。口々から出るのは己の保身と戦の前に出たという実績作りばかりであり、ただの一人も戦のための要となろうとはしない。
だから、皆死んでいる。
地図に載る大陸の国は一昔前から半分ほど減った。国の線引きの内に名前を記しているが、彼らの国の名は大陸の半分を埋めた。その大国の騎士達が誰も彼もが国の大きさに能わず、王すらも諸侯に分け与える領地の広さに戸惑うばかりであった。
それでも人は欲というモノが生きている。大局を制する武勲を挙げられずとも、参列しただけで褒賞を賜れるのだから、誰も彼もが死んだままにすがりつこうとする。
哀れこの上なき、死んでいる者よ。
いつか見た黄金の槍を持つ者はただ黙して上座より戦域の地図を眺める。卓の前に参列した諸侯はその男の顔色を伺って、どこが「邪魔」にならぬかと口々に言い訳を並べ立てる。
黄金の槍。
そう呼ばれたみすぼらしい少年は幾度も「餌場」を経、王より拝命した「竜騎士」の称号を持つ騎士となった。その時より何一つ変らず、男は瞳の中に何かを携えたまま、ただ「餌場」を駆け回る日々を送っているだけであった。
その協議の場にいて、底知れない男の瞳には死んだ者の顔だけが映る。
怯え、畏れ、疎み、羨んでいる死人が映る。
その中に、あの時、自分が持つべきであった旗を男に掲げられた、死んだ男の顔がある。
竜騎士の瞳の中にある葬列に、旗持ちであった頃の、小僧が偉ぶって並んでいる。かくも惨めな葬列の中にある己を悔やもうも、死んだ者の中に居る己を、彼は心地よくも思っていた。
「閣下。先鋒の陣は私が」
「……」
誰も彼もが、死んでいる。
前面に展開し、最も死人を出すべき先駆けの陣。いつも『小僧』はそれを志願する。
誰も彼もが、言葉を失ってそれを眺める。そして決まり切った返事が一つ。
誰も彼もが、虚ろうた瞳のまま立ち上がる。
竜騎士が椅子から立ち上がり、その場を退出するのだ。
誰も彼もが、死んでいる。
皆、竜騎士が去るその時まで頭を下げ、黙して送る。
此処は葬列なりや、死人が送る、騎士の葬列なりや。
「御退位を」
かしずくものである。
王の御座の面に立って恭しく一礼の後、膝を折って手を差し伸べた。その後に一言、退位をとのたまった。これは定めだったのだろうかと、その場に居合わせた誰もが沈黙した。
意見するなど以ての外である。それがまして王位の話であれば、不可侵である。
「お前は、引き立ててやった恩を仇で返そうというのか」
「……恩など受けてはおりませぬ」
「地位を、名誉をくれてやったではないか。領地も与え、食べるに困らぬ全てを与えた」
「……何も受けてはおりませぬ」
「失せろ、恥を知れ」
「……」
始終。横槍を入れる者など居なかった。誰もが王への恭順を示さず、また去りゆく騎士に追従することも無い。
その日、国が別れた。
古くより王と共に有った諸侯は未だ王と共にある。野心に燃える者、竜に怯える者は身の保証のために竜騎士に下る。今や大国となったその国が別れるというのだから、大陸の諸国をも巻き込んだ争乱の時になると、王座の前では話された。そんなものは愚かな杞憂でしかない。
既に雌雄は決していた。誰が今更、大国を別つことを良しとしようか。
皆が予想していた様に、王に付く側の寡兵や哀れなり。
王の有り様に失望し、殆どの諸侯は裏切りの竜騎士に付く。兵の多寡に関わらずとも、趨勢は誰の目にも歴然である。挙兵する必要もなく、不可視の分断が誰の目にも判然とするならば、王は召喚する他に生きる術もない。
「……」
空間に沈痛という色が見える。半日の事、国が二分した事など国民は誰一人として知らないだろうが、事の次第を知っている者には半日であろうが千日の思いに等しい。
苦渋というものが目に見えるのならば、それは今まさに目の前に見える王の顔だろう。半日前には不敬を受けて不機嫌であった顔が、今まさに決断を下そうという顔であった。
当の王は既に決断を下し、それを世に知らしめるのが残る責務であろうか。
「……」
拝謁願う、謁見の間。神より授けられた王位を持つ者だけが座ることを許された椅子。
側に従えた者もいまや沈黙だけが忠義であると、誰も彼もが声一つ上げぬ。
紅に金細のあしらわれた長大な絨毯を歩く、騎士を捨てた者。
「……」
かしずく事はない。いつか『拾われた』様な子供の時分には見ることの無かった、人を見下ろす光景に男は感慨とは違う高揚を得た。それは憐憫や嘲笑と言った類から来るものではなく、まして己の傲慢から来るものでもない。
同じ紅色の景色に、ただ心持ちの違う自分が居ることに。
老いた王は立ち上がり、男の前へと歩み寄る。
残すところあと数歩。決定的な決裂の距離であり、これ以上の融和は無い。
「余の何がお前に障るのだ。それ以上に何を求めた。不足があるのならば申してみよ。至らぬのなら申してみよ」
「……思うに不足など有りませぬ。思うに至らぬ事など有りませぬ」
「ならば何故、余の治世を阻もうと言うのだ」
「遅いのです。決断までに遅く、信ずるに遅く。そしてなにより、抗うに遅いのです。どうか王位を私に譲り、御退位を」
「――っ」
嫡子が存命であり、他に男児が三人も在る。王位の血統に難はなく、またその王子達の国に対する貢献は王位を継ぐに値する。それを縁のない者が、どこの誰とも知らぬ者が、名門の出でも無い男が王位を要求する。
そこに居合わせた者全て、この男はこの場で王位簒奪を成す者だと知っている。
「ならぬっ! ならぬっ!」
次に声はなく。絨毯に重きの残痕。
決裂の距離を詰め、王は腰に提げた短剣を抜き、両の手で柄を握りしめ刺突を放つ。狙うのは心臓。かならずや一撃で息の根を止め、従えた竜の威を避けなければならない。
大空の王者たる竜が人に従うなどよほどの事である。
従える為にはかの竜を従えるべく、盟約を要する。かの者を、亡き者にすれば竜は従う意味など持ち合わせぬ。
唯一、王の望む栄華の続きであった。
それが叶わぬ事だというのは王自身が承知していて、側近達全てが始終を瑣末事である様な振りで見送った。
謁見の間。王家の偉功を示した色硝子を石壁と共に深緑が砕き入る。我らが王家の栄光と軌跡を描いた歴史の証明を、ただ一つの現実が打ち破る。
切っ先は僅かに濡れる。
直接刃を手掴みし、刺突を横に逸らした。短剣を掴んだ手から滴り落ちる血は紅色の絨毯に染み、金糸の細工を汚す。眼前に居た王は頭を竜にはまれ、息の根を止める。
場内に吹き込んだ風音に乗って、軋む音がする。
硬いモノを噛んで、砕き、内からあふれる音がする。
「貴賤無く、人とは食い難い」
「お前はいつより自身を私と呼んでいただろうな」
覚えてはいない。
朦朧とし始めた意識を留め、纏っていた衣を破り、千切られた腕を止めよう。死にたくはない、死ぬわけにはいかない。まだ、えぐっていないのだと。
失血をなんとしても止めようと硬く結って押さえてはみるが、暗闇の中、ぬるい感触が伝う。燭台の仄暗い光が橙から色褪せてゆく。
「覚えていない」
「お前は『好きなだけ好きな物』を食わせると言うたが、予は人など食いたくはない」
「ほう、いつかそういったか」
「いいや、これが初めてだが。肉に比べて骨が多くてな。そうさな、脂身も旨くない」
「もっとはやくいえばよいものを」
「四つ足を食っている方が腹に貯まるのでな」
暗い。王位を簒奪した後、教会より使わされた大司教より戴冠を受けた聖堂。
『我ら父なる大地を統べ、大空の王を従える者よ。その誉れは王侯を統べる天上の者に相応しい。我らが新たなる王よ、帝王となる者よ――』
礼装に包んだ聖職者達より賜った冠も、いまや鈍い光を返さんと血溜まりにある。
天上に至るにはほど遠いその身の上に、饐えた魔物の息がかかる。
「お前に…… お前に差し向けた者は供物だ。そしてこれからも、私が―― 俺が死んだ後もお前との契りを違えぬ為だ」
「どちらかが死ぬまででは無かったか」
「理に噛みつく為だ」
「予は噛みつき方など教えてはいないが」
「そんなもの、勝手に見て覚えた」
「ほう。して、後とはどういう事だ」
「これから先、人はかならずや竜を討つ。食えぬ草の大地を作り替えて豊穣に変え、四つ足の家畜も人の為に造り替える。法術は竜の鱗も突き破り、人はいつか神をも畏れぬ」
息だけがかかる。抜け落ちた血は息づかいに僅かに揺れ、腐ったような臭いと共に固まり始める。
「世の理はいつか食い破られる。俺はそれを早めただけだ。人同士争っていては理を食い破る前に人が潰えるだろう。竜を野放しにすれば竜が理を守るだろう」
「予を用いて理を食い破る為の贄とするか」
「人が人を食う世の理などいらぬ」
「お前は本当に人が理を食い破れると思うてか」
「おお。必ずや食い破るだろう」
「予がまた人を、理の内に戻すとは思わぬのか」
「はっはっはっ!」
暗く。光など無い。
「これはもう止まらぬ。竜よ、抗え、啼け、噛みついて見せよ。そうでなくては、私は――」
銀色に輝く空。灰色の世界に鈍の夜明け。
薄暗い山の裾に大きな魔法の陣と整列した兵団がある。白兵戦の為の陣はとうの昔に廃れ、いまや魔法の応酬が雌雄を決する。時代遅れの兵法など騎士と呼ばれる者の知識として埋もれ、騎士たるものは魔術に秀でる事が尊ばれる。白兵の為に並べられた人は木偶でしかない。そこにいるのが諸侯のお気に入りであるというわけでもなく、ただ見栄のために並べられた木偶である。
槍の穂先に旗を掲げ持ち、整然としてその戦に列聖することが使う者の力を示す。
強壮なる足を持った甲冑軍馬を駆って、指揮官が最後の駒のように居並ぶ。
これで陣の完成である。
高らかに声。掲げられた宝剣。怒号のような鬨の声。
それは真に恨みであり、辛みであり、そして妬みである。
聴け。我らの胎動を。そう言って憚らぬ人の、産声を聴け。
神が使わした深緑の竜が空に謳う。羨望を受け、憧憬を受け、渇望を受けよと。
今に為せ。いつか人が超えるべき理の鏡として、大空の王として君臨せ。
銀色より出でし、人色の淡き陽に掲ぐ。
いつの日か、小僧が仰ぎ見た物よりも美しい御旗である。
大空の王者たる深緑の竜と、差し向かい手を伸ばす人の旗を。