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コンコンと頭をつつく振動で目が覚めると、目の前には三崎君がいた。あれ、いつの間に寝ていたんだろ。
目を擦ってもう一度見ると、学校から帰ってきたのだろう、ジャケットを羽織ったまましゃがんでいる。窓の外を見やると既に真っ暗だった。
「……死んでるかと思った……」
ほら、こうやって安否を確認してくれる。
殺す目的ではないと信じたい。
「あ…お帰りなさい」
「……は…?」
私が挨拶をすると、気の抜けた声が返ってきた。
気が抜けていても低音はゾクゾクします。
「……お帰りなさいとか…」
頭をかいて私から離れていった。
そっか、家主でも住む事を許された彼女でもないのだから、我が物顔で“お帰り”と言うのも変なのだろう。
「ごめんなさい。もう言いません」
「……そういう意味じゃ…ないから」
意味が分からず首を傾げると、小さいため息と共に『こういう状況でよく言えるな』と呟いたのが聞こえた。
…結局、言うべきじゃなかった、のかな…?
焦る私から身体を背けると、ジャケットとトレーナーを脱いでベッドの柵に投げた。
思わず目を逸らしたものの、トレーナーの下にはちゃんと着ていた。残念なんて思ってないんだから。
三崎君を覆っていたものがなくなり、薄手の長袖と普通のジーンズに身体の線が浮かんでいて、再び目を逸らす事になった。
女子高育ちの、男子に免疫がない恋の初心者には目に毒…!
滑らかなその背中のラインに、いつも抱きついていたのかと思うと、過去の自分へ親指を立てるか下げるか迷ってしまう。
慌てて参考書に目を走らすと、参考書からぐううーと音が出た。正確にはその下にある私のお腹からだけど。
す…好きな人の前でお腹が鳴るとか…! 恥ずかしい…!
顔を上げられず下を向いたままでいると、小さく笑う声が聞こえた。
「……参考書見て…腹鳴らせて…。本当、変……」
口元に手を当てて少し肩を震わせていた。
わ、笑った…!
私といる時に笑うのを初めて見たんだけど…!
どうしよう、こんな状況だけど物凄く嬉しい!!
携帯がないのが悔しい!写メりたい!今だけでいいから返してくれないかな…!!
「何か…作るけど。……食べたい?」
「! は、はい! 食べたいです!」
そう言うと部屋着用のトレーナー(これも黒)なのか、それを着て、冷蔵庫から材料を取り出してキッチンへと消えて行った。
私はというと、心臓がバクバクして止まらなかった。
あの三崎君の笑顔(顔上半分は分らないけど)に、三崎君の手料理…!
私きっと明日には死ぬのかもしれない…! ああんもう死んでもいいかもしれない!
例えご飯に毒が入っていたとしても今なら食べられる!
そう決意をして暫くすると部屋の扉が開き、美味しそうな香りと湯気を立ち上らせた料理が出てきた。
コトンと2皿をテーブルの上に置き、スプーンをくれる。
美味しそうなふわふわのオムライスに、朝昼ロールパン2個だった私のお腹は早くも勝鬨を上げた。
「……早く…出来るものだと…これくらいしか出来なかった…」
私のお腹具合を考えてのメニューだったらしい。
こんなお店で出てきそうなものなのに、これくらいとか言う三崎君を少し怖いと思った。
そしてその温かさに涙が出そうになった。
「……おい…?」
「え?」
「なんで…泣くんだ……」
言われて自分が泣いているのに気づいた。
涙が出そうとか言ってたくせに出していたとは。
「あ…あは、は。何でだろう。美味しそうだから、かな…?」
笑って誤魔化すと、口を尖らせて顔を背けられた。
きっと眼鏡の奥で眉を寄せて、困ったヤツだなと思っているんだろう。
「……俺が、怖いんだろう?」
出てきた言葉に驚いた。
何故そうなるんだろう。別に痛い事も何もされていないのに。
横に首を振って否を示す。
「…嘘を……」
「嘘じゃない…本当です…。…三崎君が優しいから…ちょっと嬉しくなってしまっただけです」
そう言うと、少し俯いてから早く食べろと皿を寄せられた。
「……毒は…入ってないから……」
食べるとやっぱり美味しくて、更に三崎君の株が上がっていった。
餌付けも馬鹿に出来ない。
食事の間、お互い終始無言だった。
「おトイレ…借りてもいいですか?」
胃に物を入れたから少し催してしまった。
人間としての生理現象だから仕方がない。恋する乙女だからと言ってここが止まるなんて事はなかった。
ベッドの上から、少し離れてベッドに寄りかかっている三崎君に声をかけると、頷くだけの返事が返ってきた。
テレビに夢中である。
邪魔にならないように、鎖の音を立てないようにそろりそろりと風呂場へ向かうと、後ろから声をかけられた。
「……ついでに…風呂、入ったら…?」
ビックリして振り返ると、バスタオルはそこにあるのを使えばいい、と洗濯機の上の事を指で示す。
私はなんとか頷いて扉を閉めた。
「…どうしよう…ビックリしすぎて…止まっちゃった。そういう意味で言ってるわけないのに…」
とりあえず便座の上で蹲ってみた。
だけど、待てども待てども来る気配はないので、仕方なくお風呂をいただく事にした。
服を脱ぎ始めて思った。
「どうやって脱ぐの…?」
途中まではいい。
脱げる事には脱げたんだけど、両手首を繋いでいる鎖に包まり留まっている。足の方も一緒だ。
下のスカートと一緒に包まっているパンツがなんとも情けない。
こんな状態じゃ三崎君を呼べないから、濡らす覚悟で浴槽に入る。再び着るのも面倒臭い。
ユニットバスは初めてで、色々四苦八苦したけれどなんとかシャワーを浴びる所まで行けた。
浴びれば浴びる程鎖にかかる服がお湯を吸い、段々重みを増して動き辛い…!
ささっと洗って出てしまおうとしたけれど。
シャンプーは遠慮なく使わせて頂くけど(やはりリンスはなかった)、身体はどうしようか。
視界には緑色のボディタオル。
「これは黒じゃないんだ…」
と、うっかり手に取って眺めてしまったけども。
…さ、流石にマズい…よね、これ駄目だよね、これは!
慌てて元の場所に戻してしわを伸ばした。けれど濡れた指の後がついている。
こんなの使おうとしてたなんて思われたら、気持ち悪いとか言われてお風呂も入れさせてもらえなくなっちゃうかもしれない…!
シャワーを撒き散らして“うっかりお湯がかかっちゃった風”を装ってみたけど、お湯はカーテンの隙間から外へ飛び出しトイレの床をも濡らした。
水浸しの中、がっくりと項垂れた。
…それにしても。
監禁という状況でお風呂に入れるとは思ってなかった。そんな映画やドラマの見すぎかしら。
「これじゃただのお泊り…」
そう言った所で己の能天気さと不謹慎さに反省し手で顔を覆うと、ジャラ、と鎖の音が響いた。
白い浴槽に、黒の鎖がよく映える。
「…」
日常から非日常を伝える黒。
だけど怖くはない。
むしろ今までより三崎君の傍にいられると喜んでいるのだ。
三崎君と出会ってから私はおかしくなったのかもしれない。
カーテンを開けてタオルを探したけど、そう言えば洗濯機の上だと言っていた。
入る前に持ってこればよかったと、出来る限り服を絞り、濡れてしまう床にごめんなさいと謝りながら扉を開けると。
「……替えの服…ここに置いてお―――…」
部屋から出てきた三崎君と視線が合った。
その手には黒のスウェットがあり、視線は私の目から下に下がっていった。
当然下は私の真っ裸。
真っ平らだが、一応男子とは違う生き物。
飛び出そうとする悲鳴を抑えて大事な所を隠してしゃがみこんだ。
「ご…ごめん…! もう出てくるとは…思わなくて…! タ、タオル…」
そう言って私を跨いでいったかと思えば、タオルを広げて被せられた。
「……これ着ていいから…っ。し、下着は、コンビニので我慢してくれ…」
「あ、あの…っ!」
再び跨いで行こうとする三崎君を呼び止めて、ズボンの端を掴んだ。
ビクッと身体が揺れて、戸惑っているのが分かった。
私だって戸惑っている。羞恥を抑え、タオルで身体を隠しながら必死に声を出した。
「……どうやって着ればいいですかぁ…?」
「……………は?」
たっぷりの沈黙の後、気の抜けた声がキッチンに響いた。
タオルを巻いて、部屋の中で2人で立ち尽くした。
私の身体の上にすっぽり被せられたスウェットの上着、片足しか入らないパンツとズボン。上下の鎖の間には丸まった服。
異様な光景だ。
こんな姿、親にも女友達にも見せた事なかったのに…!
恥ずかしすぎて死んでしまう…!!
「……成る程…盲点だったな……」
「私も脱いだ後に気づきました…」
それは遅いだろうという目が向けられる。
し、仕方ないじゃない!ビックリさせた三崎君が悪い!
「……面倒だな…風呂……」
どうしよう明日から入らせて貰えなくなるの…!?
汚いまま三崎君の近くにいるなんて私耐えられるかな…臭いとか言われたら立ち直れないんだけれど!
必死で三崎君を見つめると、顔を逸らしため息を1つ吐いた。
そして、
「……逃げようとしない、なら、今外す…。…一応聞くけど……」
と言ってきたので、
「はい! 絶対逃げません! 何なら左足にも嵌めてもいいです!!」
ズボンを穿いている方を差し出した。信頼を得なければ清潔な明日が待っていない。
私の誠意(?)が通じたのか、ポケットから鍵を取り出し何故か普通に外された。
「へ?」
そして華麗な仕種で右足にあった足枷が、左足に移動した。
その間数秒。私は見下ろす事しか出来なかった。普通に逃げるなんて出来なかったけど。
鎖からはいつの間にかスカートとパンツが抜け落ちて床に転がっていた。
慌ててスカートの中にパンツを隠していると、『早く穿いて』と急かす。うう…冷たい…これがドエスってやつ…?
急いで穿くと手錠が外され、無言で促された。
いそいそと着ている内に、鎖からは上着が脱がされボトッと音を立てて落ちていた。
私が着替え終わるのを見ると、解放された両手が、三崎君の手によって拘束された。
「!?」
な、何故! 手錠じゃないの!?
あ、いや、こちらの方が嬉しいんだけど、も! でももう既に心臓が破裂しそうだからやっぱり駄目…!
ぎゃああと色気のない声を上げる前に逃げようとするも、三崎君の前では私の力なんて無いにも等しく、ビクともしなかった。
ぐにぐにと親指の腹で手首を押され、訳が分からず私の腰は思いっきりへっぴり腰になった。
さっきの真っ裸を見られた羞恥が上乗せられ、触れる所が熱くて仕方がない。
「……傷つけては…ない、か。…優秀だな…」
そう呟いてふと視線を上げてきた。
へっぴり腰になった私と元々背が高い三崎君との距離は思ってたよりも近く、息が前髪にかかった。
「! ひゃあっ!」
こんなに近くで見た事がない私には到底直視する事が出来ず、直ぐに視線を逸らすとあっさり手錠がはめられた。
「……ちゃんと拭いて…乾かしてから寝て……」
部屋の隅で畳んで積まれていた小さなタオルを取ると、もこもこの手錠を拭きだした。
べちょべちょのもこもこを見て、確かに部屋が汚れてしまうと納得した。
「自分で出来…ます、から…! あの…っ」
ちらりと風呂場を見ると、ああ、と言って向かっていった。
バタンと扉が閉まるとずるずるとその場にへたり込んだ。
…私の裸を見たのに、あの無反応さは結構堪える。
食指が動かなかった…。
NO凹凸は駄目ですか…!
ましてや私の肌よりも手錠の性能!
これならエロい事目的の監禁であって欲しかったー…!!
なんなの全然女として見られてないって事じゃない!
ああ…せめてもう少し胸と尻があったら、さっきのあの瞬間にでも誘惑できていたかもしれない…。
自分の貧相な身体を呪いながら、ジャラジャラと音を鳴らす手錠と鎖と拭いていった。
無事に手錠の拭き取りも終わり、時計の針は11時を指していた。
昼間沢山寝ていたにも関わらず、瞼は勝手に閉店準備を始めている。
うつらうつらと舟を漕いでいると、ようやくお風呂から上がった三崎君が部屋に入ってきた。
あれから30分程経っていた。お風呂は長めと把握完了。
相変わらず長い前髪と眼鏡はしっかり装着されているので素顔を見る事が出来ない。
まぁ、見れたら見れたで直視出来ないと思うのだけれど。
「……眠いんだったら…ベッド行って。…自分で……」
冷蔵庫の中から牛乳を出して飲みながら私に告げる。
コップを出すのが面倒なのか、パックを直に持ち、口をつけないよう器用に飲んでいた。
大きく開いた口に白い牛乳が流れていく様を、私はじっと見ていた。
コクコクと動く喉元に、目が逸らせない。
すると私の視線に気づいたのか、さっと牛乳を閉まってしまった。
そして、
「……目隠しもされたいか…?」
と言ってきたので全力で横に首を振った。
これ以上機嫌を損ねる前に寝よう!とベッドに手をついたものの。
疑問が残った。
「…三崎君は…どこで寝るの…?」
ここにはベッドが1つしかない。それを私が占領するという事は。
はっ! もしかして一緒に寝―――…ていうか!
今三崎君と2人きりじゃない…!
ようやくこの空間の異常さに気がついた。
よく平気でご飯を食べたね私…! お風呂入ったね!
どれだけ無意識にテンパッていたのかが分かる。普通の状態ならば喉を通らなかったと思うの。
じわりじわりと早くなってくる心臓を押さえ、三崎君を振り返る。
「……別に…床で寝る…」
そんな!
部屋の主に床で寝ろだなんてそんな事出来るわけないじゃない!
「だ、駄目です…! もう12月ですよ!? 寒いし風邪ひいてしまいます! 私が床で十分です!!」
「……どうせ昨日寝たし…平気」
今日起きた状態を思い出し、もう時既に遅い事に気づいた。
だけどあれは私の意識がなかったからで! バッチリ正常な意識を持っている今、譲るわけにはいかない。
「で、でも…! 私は―――」
「あんまりしつこいと……ベッドに縛り付けるよ……?」
紐は梱包用のしかないけど、と棚を見て言う。
それはそれで困ると固まっていると、背中を押されベッドに突っ伏した。
よじよじと毛布の上を登ると、ベッドの脇に三崎君がごろんと転がった。
いつの間にか出してきたグレーの毛布を頭から被って、背中をこちらに向けた。
リモコンで電気を消し、部屋が黒に覆われる。
ドキドキだった心臓が落ち着きを取り戻し、眼下にある大きな身体を見つめた。
いつもより近くにいるのに、生活圏内にいるのに、何故か遠く感じる。
たまらなくなって声をかけた。
「ねぇ三崎君…」
だけど返事は返ってこない。
「どうやって連れてきたの?」
一拍置いて返事が返ってくる。
「……酔っ払って…そこにいたから……」
なるほど。そこに山があるから登る的な感覚だったのか。
酔っ払い相手なら簡単そうだ。
「でも、私知ってるよ。私の事が…嫌い、なんでしょ…?」
布団の匂いが私を眠りに誘う。
「…なのに、どうして私は、ここにいなくちゃいけないの…?」
ギシ、とベッドが軋む。
「………殺、す…?」
黒が私を覆う。
「……流石に殺しとかないから…。…絶対ないから、早く寝て…」
ジャラ、と鎖が音を立てる。
布団の中に寝かされ、鎖も一緒に入れられる。
身体の上に乗る鎖が少し冷たい。
ビクリと身体が震えると、はぁ、と目の前の黒がため息をついた。
「……何もしないから。…ここにいればいいだけだから…」
ほら、と、いつもの優しい声色で眠りを促す。
その低い声と少しでも三崎君の目的を知る事が出来て安心したのか、急激に睡魔が襲ってきた。
ああ、なんだかんだで自分が思っている以上に、そこは気になっていたのかもしれない。
眠りに落ちる間際、
困ったように笑う三崎君が見えた気がしたのは、私の願望なのかなぁ。