イヴに世界とキミと
この世界には魔法と呼ばれる力がある。
傷ついた者を癒し、料理を作る時に火を起こし、夜を照らす灯りを生み出す。時には荒ぶる炎となり軍隊を焼き尽くし、闇を駆ける雷は城すらも崩した。
魔法は魔力をきっかけに根源となる神や悪魔、精霊へこんな魔法を使いたいと請願――詠唱をし、最後にその魔法を表す言葉――魔名を術者が発すると完成する。
詠唱とは言ってみればお願いの口上だ。格上には「無理を承知でお願いいたします」と下手に出るし、同格なら「契約に従って仕事してください」と依頼する。格下なら「いいからやれ」の一言で済む話だ。
魔名とは魔法の名前だ。名を示す事により扉は開かれ魔法はこの世界で具現化する。
並の魔道士一人と一流の剣士十人が同等戦力と言われるこの時代。魔法は誰もが使えるものではないが故に、魔道士は憧れの対象であり、強者の象徴であり、恐怖の存在であった。
豊穣の女神アグリクルトゥラを信仰する銀髪の女魔道士、シーン・ウィリディスは苦手な攻撃魔法を発動させる為、剣撃音が響く薄暗い砦の中で必死に集中していた。
集中を乱す原因。シーンの碧眼が追っているのは灰色の髪をした剣士。相対するは黒い外套に身を包む魔道士然とした黒髪の男。右手に持つ杖が妖しく赤の光を纏わせる。シーンの心はまた騒ぐ。
「ALTER PROCEDURE 表紙の無い本から呼び戻す八焔」
祈るような、それでいて命令するような言葉を小さく吐くと、黒髪の男は手に持つ杖を振りかざす。
虚空に突然現れたのは八匹の炎大蛇。舌を出すかのように炎をちりちりと空に這わせる。百名近い傭兵たちは恐怖と共に後ずさった。
「八蛇焔舞っ!」
黒髪の男が魔名を唱えるや否や周囲の景色は轟音を伴い揺らめく。太く長い八匹の炎蛇は四方八方に散り、廊下を徹底的に舐め回し焼き尽くす。重い鎧に身を包む傭兵たちは逃げる事すら叶わず、鎧の上から赤く熱い舌と牙で撫で回される。砦はおぞましい断末魔と焦げる臭いで満ち溢れた。
黒髪の男を討伐するという目的の元集まった者たちは、討伐対象が放った僅か二つの魔法で黒焦げた骸と化した。
そんな地獄のような中で灰髪の青年―― カイ・ラーウスが床を蹴る音が辺りに響く。目で追うのすら困難なほどに剣撃は速く、体さばきは流れるようで淀みがない。
生き残っている男はもう一人いた。茶髪の男が振るっているのは戦闘用の大きな鎚。屈強な腕から放たれる一撃は相手を即無効化出来るほどの威力がある事は疑う余地もない。剣撃と比べると攻撃速度は遙かに劣るが、相手の動きが分かっているかのように鎚を振り下ろしたその先に敵の姿があった。
カイの一撃は確かに鋭く、茶髪の男が振り下ろす一撃は的確だった。
そんな二人の攻撃を紙一重でかわす黒髪の男。余裕の笑みすら浮かべながらするりするりと攻撃を避ける。茶髪の男が予測ならば、黒髪の男は答えを知っているかのような動きであった。
焦るな。そう自分に言い聞かせシーンは集中を続ける。魔力が高まるのを感じつつ、さらに密度が濃くなるよう丁寧に練り込む。魔法の本質は心象だ。シーンが魔法を行使する際に思い浮かべるのは細かな数多の緑の光。それらが集まり鍵を象る。
よし、と心の中でシーンが呟いたのと、カイが壁まで吹き飛ばされたのはほぼ同時だった。思わず声が出そうになるのを必死で抑える。乱れる集中、揺れる心を懸命に押さえ込み自らが信じる女神への扉の鍵穴に、淡く紡いだ心の鍵をそっと入れた。
「慈悲深き豊穣の女神。小さき我の嘆願をどうか聞き入れ給え。大地を汚し者たちに戒めを。小さき我にその代行を」
白く細い左手首に付けた白銀の腕輪が淡い緑の光を帯びる。女神アグリクルトゥラがシーンの願いを聞き入れた証拠だ。シーンは闇に佇む黒髪の男に向かって左掌を向けた。後は魔名を口にすれば魔法は行使される。柔らかな銀髪がさらりと揺れ、髪先がふわりと浮き始める。魔名が示される時に訪れる独特の緊張感が一気に高まる。シーンの唇が小さく開く。廊下に響いたのは男の声だった。
「CREATE PROCEDURE《順序の創成》 選ぶは沈黙 来るは最奥 五と七の間で」
男が呟いた瞬間、辺りに甲高い音が響く。この場で最も光を放っていたシーンの腕輪が暗闇と同化した。
「え!? な、なに?」
「女神アグリクルトゥラからまさか攻撃の力を借りられるとは。かなり高位の魔道士ようだが……封呪対策は無しか。お粗末だな」
黒い外套を揺らし、黒髪をかき上げる美形の男。町や村を襲い、蹂躙し、略奪し、全てを破壊すると言われている魔人ネイス・ウィオラーケウス。
曰く、千の魔法を紡ぐ大魔道。異世界の神を従える大賢者。破壊と殺戮のみを興とする魔人。
噂とは伝わるころには名もなき詩人によって大きく膨れあがっているのが相場だが、この地方最大の都市アルタイ評議会が報酬に物を言わせかき集めた屈強な傭兵たちが沈黙した今、噂は決して巨言ではなかった事をシーンは今更ながら痛感していた。
「シーンっ! ボーっと突っ立ってないでさっさと逃げろっ!」
幅広の剣を杖代わりに立ち上がろうとしているカイ。苦痛に表情を歪めているが、鋭い眼光放つ双眸はネイスを睨み続ける。
「逃げろって……カイはどうするのよっ!」
灰髪の青年、カイ・ラーウスはシーンの問いに対し、返答代わりだとばかりにブロードソードを正眼に構えた。意地でもシーンが逃げるだけの時間は稼ぐ。決意は放たれる剣気で推して知る事ができる。のそりと起き上がった茶髪の男、ギルム・フルウムは、額から流れる血をまったく気にした様子もなく、無言のまま戦闘用鉄槌を振りかぶった。激しさはないがこの上なく濃い闘気が静かに漂う。ネイスは鼻で笑った。
「ふん。残るは剣士と戦士、それに女魔道士が……二人か」
「二人?」
ネイスの言葉をシーンが疑問に思った時、背後から知らない声の詠唱が響く。
「変化なる同一。連続の位相。我は九の真円と六の四方形を備える。陣なる十。形あるもの全ては一。盟約によりその責を果たせ」
「おいおい、ゲオメトリアとは今度はまた随分とマイナーな神を持ってきたな、女!」
ネイスは暗闇より聞こえる詠唱に感心した表情を浮かべた。魔力が一気に高まり、あたりに緊張と昂揚が充満する。シーンは窮地に立たされているにも関わらず、聞いた事の無い構成の詠唱に思わず耳を傾けた。
透き通るような女の声が魔名を発するや、ネイスの足下から天へ伸びる光が生まれる。やがて両手を広げた程度の円が現れ、同時に白い文字と紋様が円の内外周に次々と浮かび上がる。その数九つ。次いで五つの四方形が現れ、円と重なり一際明るく光り輝く。闇に白く輝く多層構造の魔方陣が完成した。視界が歪む程の圧倒的な魔力が吹き出すが、魔法を行使した女魔道士からは尚も魔力の高ぶりを感じる。
「まだですっ!」
右手を挙げる金髪の女性エマ・アーテルは、この世界で最もよく知られている精霊を魔方陣の中に喚び出す。赤い体に獣の貌。背中には一対の羽。体からはゆらゆらと自身の根源を揺らしながら空中を漂っている。炎の精霊イグニス。生活に最も密着した精霊であり、戦闘に最も近しい精霊である。
「ほう、魔力付加の魔方陣か。確かにこれならたかがイグニス程度でもそこそこの威力になるだろうな」
だがそれがどうした、と目で語るネイスを軽く流し、エマはにこりと微笑む。
「これで終わりですよ、魔人ネイス・ウィオラーケウス!」
下級精霊であるイグニスを使役する程度ならもはや願いの口上など言うまでもない。術者であるエマがそっと魔力を高めるだけでイグニスは命じられるまま何も考えずに従う。
魔方陣内で激しい音と共に爆発が起こる。六つの魔方陣は相互干渉し、不自然で不条理な乗算を繰り返しながら魔力を高める。二つの魔方陣はその魔力をイグニスに注ぎ続ける。残る一つの魔法陣で小さな炎を生み出し、果てようとするイグニスを再生し続ける。明らかに構築式がおかしな魔方陣内は、もうもうと膨らむ黒煙が充満した。
ネイスは魔杖ウェリタースで魔方陣に触れる。キン、と甲高い音が響き魔方陣は音も無く崩れた。途端、立ちこめていた黒煙は辺りを浸食するかのように広がり、そして世界に浸食されたかのように薄く消えていく。その頃にはカイ・ラーウス、シーン・ウィリディス、ギルム・フルウム、そしてエマ・アーテルの姿はなかった。
「まったく、あの女は……」
ネイスは煤で汚れてなお艶のある黒い外套を手で払う。まもなく日が地へと沈む頃だった。
ぱちぱちと音を立て赤く燃え盛る。シーンは膝を両手で抱え、揺らぐ炎をただなんとなく見つめていた。疲労と心労。突き刺すような寒さ、舞い散る雪。遠くから聞こえるのは獣の遠吠え。夜の闇は人の不安をかき立てる。そんな中、熱さと明るさを持つ炎は唯一の安らぎである。
「豊穣の女神に願う。癒しの息吹を与え給え」
膝に顔を埋め、シーンは女神アグリクルトゥラに嘆願する。だが女神の声は聞こえない。もうこれで何度目の嘆願になるだろう。今更だがシーンは気が付いた。魔法を封じられるという事は魔法を使えないばかりか、アグリクルトゥラの声すら聞く事が出来ないという、女神に使える巫女にとってこの上なく耐え難い事を意味すると。
きっとお祈りの姿勢が悪いのだわ、とシーンは炎に向かって片膝を立て跪く。教典に従い、普段なら省略する作法を全く略す事なく、まるですがるような気持ちで一つ一つ丁寧に行う。だが、聞こえてくるのは弾ける焚き火の音と誰かの足音だけであった。
「終わったわよ」
振り返ると黒いマント姿に腰には様々な宝石が施されている魔法剣をさしている金髪の女性、エマがやや疲れた顔をした森の奥から歩いて来た。
「周辺に魔力感知型と領域侵入感知型の警戒結界と三重の攻性結界を張ってきたわ。これでとりあえずは一安心なはずよ」
「こっちも終わったわい」
大きな獣を引きずりながら歩いてくる茶髪で大柄な男、ギルム。鋭い一角が生えている鉄の兜に、所々へこみがある鉄の鎧。兜にも鎧にも装飾気など一切なく、実戦の事だけを考えた無骨な作りをしている。引きずる獣の側頭部が大きく陥没している事から、ウォーハンマーで倒した事は明確だ。焚き火の近くまで引きずると腰から短刀を取り出し、手慣れた手付きで獣の解体を始めた。
「ふぅ。やっと着いた」
枯れ木を集めて来たカイ。銀色のプレートアーマーはギルムと同じく装飾はあまり施されておらず、カイの纏う鎧も実戦を重視した作りになっている。そんな鎧と背負う薪がなんともミスマッチで、シーンは思わず笑ってしまう。睨むカイ。
「何笑ってんだよ?」
「なんでもないよっ」
問うカイに対し即答するシーン。誤魔化すように立ち上がるとギルムから肉を受け取り、夕食の準備に取りかかった。
「改めまして。エマ・アーテルです。クラスは魔道士。炎系統と陣を使った魔法が得意よ。傭兵ギルドのランクはアウルムです」
肩口まである流れるような金髪。切れ長の蒼い瞳。薄い唇と通った鼻筋。レザーアーマーを着込んでなお細身である事が分かる美貌の魔道士。だが、カイが夕食をとる手をぴたりと止めたのはエマの美貌ではなく言葉だった。
「ア、アウルムですか! 凄いとは思っていましたけど、まさかアウルムとは……」
傭兵ギルドのランクは実力とキャリアに応じて、下からオス、フェルム、クプルム、アルゲントゥム、そしてアウルムと分類される。ただしアウルムクラスの傭兵だけは他のクラスとは別格で、そう簡単になれるものではない。
与えられる権利は凄まじく、相応の理由があるならば王への謁見を申し出る事も許される。王国に仕える騎士ですら持ち得ない特権だ。報酬も破格。身分は王国から保証。全ての傭兵の憧れであり、目標であり、ほとんどの者が辿り着けない高みなのだ。
「なるほどのぉ。ネイスでも相手に出来るわけだ」
「やめてくださいギルムさん。今回も逃げるので精一杯でしたよ」
ギルムは狩ってきた肉を食いちぎる。嫉妬。悔しさ。あるいは両方か。実に分かりやすい表情だ。
「ふん。ギルム・フルウムだ。クラスは戦士。見ての通りウォーハンマーで戦う。魔法は一切使わん。……ギルドランクはアルゲントゥムだ」
カイの手は依然止まったまま。驚嘆の次は賛嘆だ。重いウォーハンマーはどんなに力を誇る者が振るったとしても剣の一撃に速度という点では遠く及ばない。鈍重なモノ相手ならさておき、俊敏なモノに当てるとなると相当な技量を要する。
「すごかったです。ネイスと俺の動きを読み切っての攻撃。どこに移動するのか、次に何をするのか分かっているのかと思いましたよ」
敵を追うのではなく、振り下ろす先に敵がいる。カイにしてみれば奇跡にも等しいありえない芸当だった。
「ふん、褒めても何も出んぞ。あんなの長年の勘じゃ、勘」
ギルムは筋肉の塊とも言える巨体を揺らし、一握りほどもある髭を左手で何度も何度も触りながら豪快に笑った。余程気を良くしたのだろう。焼いた獣の肉をカイに投げ渡し、ほれ、次はお前さんじゃ、とカイに自己紹介するよう促す。カイは姿勢を正し二人を見た。
「カイ・ラーウスです。クラスは剣士。俺も魔法は使いません。ギルドランクはフェルムです」
「フェルムじゃと?」
「かなりの腕だと思ったけど?」
驚くギルムとエマ。だが無理もない。フェルムは下級クラスだ。初心者に毛が生えた程度の者がネイスとの一戦で生き残れるわけがないと考えるのは自然な事だった。特にギルムはすぐそばでカイの剣技を見ているからなおさらだ。けれどそう言われる事は先刻承知か、カイは爽やかで活発という初見の印象を裏切らない晴れやかな笑顔で答える。
「ギルドに登録したのがつい最近でして。それまではずっと商隊護衛をしてました」
「なるほどのぅ。それなりに実戦は経験しておるわけか」
合点がいったとばかりに再び肉を食べるギルム。エマも少し浮かした腰を据え直し食事を再開した。カイは隣に座るシーンに目をやる。視線の意味に気が付いたシーンは小さく一度咳払いをし、炎を挟んだ向こう側の二人にやや声を張り上げ話し始めた。
「シーン・ウィリディスです。ギルドでのクラスは魔道士なんですが、正確にはメディウムといいますか、女神アグリクルトゥラ様の巫女です。ギルドランクはアルゲントゥムです」
「魔法を封じられてますけどね」
「う、うっさいわね!」|
まるで濡れているような艶やかな銀の髪を揺らし、銀色の瞳はまっすぐカイを睨み付ける。小さな白い手をぎゅっと握りわなわなと震わせシーンは抗議する。「はいはい」と小馬鹿にしたようなカイの返事がさらにシーンをむきにさせた。エマはしばらくそんな二人を眺めていたが、シーンが息をついた絶妙のタイミングで話を切り出す。
「さて。自己紹介が終わったところで本題ですね。私たちに選択肢はないわ。ネイスを倒すか、それとも倒されるか。今回の依頼、契約書は読んでるでしょ?」
「……はい。撤退、逃亡は認めない。もしも契約を破り逃亡した場合、アルタイ評議会から手配書がまわされ逃亡した者は賞金首となる。でしたよね」
カイの言葉に場の空気が重くなる。うつむくシーン。ギルムは相変わらず無言だがさっきまでの呆れた表情とは代わり、真剣で深刻なそれになっている。カイはシーンをちらりと見ながら、拳を握り込む。
一七五人の傭兵がいた。クプルムなど数える程でほとんどがアルゲントゥムだった。事前に訓練した甲斐があり、傭兵団は烏合の衆ではなく、ある程度連携した動きをする事すらできた。いかに魔人と呼ばれていても所詮は人間。奇襲を仕掛け接近戦に持ち込めば負ける要素などなかったはずだ。だが、結果は惨敗。一七五人中、一七一人が死んだ。
「ネイスを倒すしか私たちに生き残る道はない。事前に条件は提示されてたから何も文句は言えないわね」
「それにアルタイの先には私たちの村がある。だから絶対ここで止めなきゃ!」
エマの言葉にシーンは呟く。広がる黄金の穀倉地帯。男が懸命に畑仕事をする中、庭先では女と子供が細かな選別作業をしている。手伝いができない小さな子供たちは女神アグリクルトゥラの白い神殿で楽しげに駆け回っている。そんな毎日。ずっと続くと思っていた。
ところがある日、村に魔人ネイスという危機が訪れようとしている事を知った。カイとシーンは迷わず今回の討伐依頼に志願した。
「ふーん。この先でアグリクルトゥラ信仰って事は、二人はグラエカ村の出身なのね。なら絶対食い止めないとね」
シーンは力強く頷く。アグリクルトゥラは豊穣の女神であり、癒しと守りの女神でもある。村を守る事は巫女としての責務だがそれ以前にシーンも村人の一員である。
「あの、エマさん。解呪してもらえないでしょうか。お願いします!」
目を閉じ、懇願するシーン。祈りに似た姿勢のまま動かない。
目を閉じ、思案するエマ。何か思うところがあるのだろう。
静かで無音だが、どこか張り詰めた雰囲気で時は流れていく。
「……そうね。やってみるわ」
エマが手を合わせると、シーンの足下に現れる黒い円が現れた。六芒星を中心とした紋様の中に踊るように配置された記号。やがて円の外周部分の文字が回り出し、それとは逆方向に内周部分の文字紋様も回り始める。
エマの表情からは事は順調なのかそうでないのかなかなか読み取れない。カイは固唾を飲んで見守り続けた。やがて黒い円はだんだんと真円から形を崩して、ついには小さな黒い光と共に霧散した。エマから小さなため息が漏れる。
「ごめんなさい。やっぱり無理みたい。あんな短い詠唱でこんな強固な封呪をするなんて……」
「いえいえこちらこそ無理を言ってすいませんでした。本当にお手数をおかけしました。エマさんが悪いんじゃなくってその……きっとあれですよ。あの……ほら、ネイスが異世界の神と契約してるって噂は本当かもしれないですね。……って、私なに言ってるんだろう」
なんとかこの場を取り繕ろうとわたわたしたあげく、自分の言葉でさらにパニックになるシーン。そんな彼女の様子を見てエマは優しく微笑む。エマの優しさに触れ、ほんとごめんなさいとシーンはうなだれた。
「まぁ確かにヤツの詠唱は聞いた事のないものばかりじゃったな」
「異世界の神?」
ギルムはどこか思うところがあるのか髭をさすりながら呟く。その言葉に疑問を口にしたのはカイだ。そもそも異世界という意味がカイには分からない。そんな世界があるなどとカイは聞いた事も考えた事もなかった。そんなカイの表情から気が付いたのか、エマは説明を始めた。
「有名なのはクリストゥスね。人間の罪を身代わりに負い、「永遠の生命」をもたらしたと言われている神の子。どこから伝わってきたのか全く分からない教典『ノーヴム・テスタメントゥム』には死んだ人間を何度か蘇らした事も書かれているわ。他にも魚とパンを増やして餓えをしのいだり、病気を癒したり。異世界の神であるにも関わらず信仰する人が多くいるのはそのせいね」
「死からの復活は人にとって夢じゃからな」
「でもまだ誰もクリストゥスの声を聞いていない。そもそも異世界の神なんて噂は沢山あるけどほとんどが嘘よ。信憑性が最も高いのがネイスっていうのも皮肉な話よね」
神の声を聞くだけなら魔道士ではないカイでも、誰でも聞く事が出来る。心を澄まし神に祈り、その小さき祈りが届けば小さな扉が開き神の声は聞こえる。だが聞こえるだけだ。会話が出来るのは契約を果たした魔道士だけである。それは悪魔も然り。精霊の声を聞くことができるのは限られた魔道士のみだが、それでも存在を実感する事が出来る。
だからまず神の実在を感じる為には声を聞くことから始めるのは一般的な手順なのだが、異世界の神の声を聞いた者は誰もいないとされている。そして、ネイスが魔人と言われる所以はそこにある。
誰も聞いた事のない詠唱。異世界の神と契約していると噂されても無理もない圧倒的な威力と対策が全く出来ない魔法。誰が言い出したか、魔人とは言い得て妙な二つ名であった。
「クリストゥスは確か他の神との契約は認めないはず。信仰するなら他の神や悪魔との契約は全て無しにしないといけないって聞いたわ。そういえば大きな町じゃクリストゥスの降誕祭がそろそろあるはずよ。確か『メリークリスマス』とか言いながら大きな木に果物や色々な装飾を施してたり。後、蝋燭の火の元クリストゥスの誕生をお祝いしているとか」
「そうなんですか……」
カイが見た事のある神事といえば、シーンが巫女を務める女神アグリクルトゥラの神殿で行われる豊作祈願の祭りと収穫祭だけだ。打楽器と笛の奉楽と共に艶やかな純白の衣を纏い、舞を奉納するシーン。この時だけはいつも知るシーンとは別人のような、まるで遠くにいるような気がしてカイはあまり好きではなかった。
「だれもその奇跡を見た事はないけれど、異世界ながら死からの復活をはっきりと告げている唯一の神。なんであれ、異世界の神がもたらす魔法とその使い手はこの世界の常識では計りきれないわね。……でも、腕の良い速度重視の前衛と攻撃力重視の前衛。後衛には魔導士。客観的に見て、このメンバーならなんとかなると思うの」
「何かいい作戦でも思いついたか?」
低い声を一層低く。目に宿る光は鋭く。あぐらをかいた巨体を少し前のめりに。ギルムとてネイスを倒す以外に道は残されていない。
「作戦というか、完成までかなり時間がかかるけど強力な攻性魔方陣があるんです。ドラゴンをも一撃で仕留められる威力。この魔法ならきっと……」
「つまり俺とギルムさんで構築までの時間稼ぎをするって事ですか?」
「話が早くて助かるわ。簡単に言えばそうね」
前衛が時間を作り、後衛が仕留める。パーティとして一つの定型である。体を張って敵と相対するのは前衛の役目。ここまではカイに異存はない。ギルムもそうだろう。問題はそこではない。
「どれだけ掛かる?」
ギルムの問いはまさにカイの問いでもあった。ネイスは魔道士ながら剣撃を体術で避け、詠唱無しの魔法で攻撃をしてくる。先の戦闘でカイとギルムは二人がかりでネイスに挑んだが、一撃も与える事が出来なかった。それどころか二人はネイスから攻撃を喰らい、壁まで吹き飛ばされた。結局カイもギルムも、倒れた一七一名の傭兵もネイスにただの一撃すら与えていない。
「時間にして……五章くらいかしら」
「五章、か。かなり厳しいがなんともならんってわけでもないな。後はその魔方陣で本当にネイスを倒せるかじゃが……」
「威力は十分なはずです。陣が発動した瞬間から効果影響内は封呪状態になりますので、仮に防護魔法を展開したとしても無効化されると思います」
「ふむ。その話が本当ならワシのハンマーや坊主の剣より勝機はあるのう」
エマが立てた作戦を反対する者はこの場に誰もいなかった。それどころかカイは次にネイスと相対した時どう立ち回るか、どうすれば良いのか考え始めていた。だが自分の役目を見いだせず、なんともやりきれない思いを抱く者がここに一人いる。
「あの……私は?」
カイは驚いた。
「私はって。魔法封じられてるんだろ? 魔法を使えない魔道士なんかいても邪魔じゃないか。どっかで隠れて見てろよ」
「イヤよそんなの。絶対にヤっ!」
「そんな問題じゃないだろ? なんもできねーじゃんか!」
「回復とかできるもん! 治癒の石とか使ったら回復はできるもんっ!」
「ならその石を俺やギルムさんが持ってりゃいいって話だろ?」
「っ! で、でも!」
必死の形相。かつてシーンがここまで激しく食い下がった事があっただろうか。カイはその勢いに押される。
シーンとしてもこればかりは譲れない。カイが傭兵となると聞いて、苦手な攻撃魔法を必死に会得した。アグリクルトゥラに使える巫女として最高位の回復魔法を操る事が出来るのだが、アグリクルトゥラは攻撃魔法を極端に嫌う。それを何度も嘆願し、祈り続ける事でようやく一つの魔法を与えられた。これは異例中の異例である。そこまでしてカイと共に旅だったシーンにとって、魔人との戦いなどというこれ以上なく危険な戦いにただ隠れているなど考えられない。
もはや交わされるのは言葉ではなく、無言の視線。どちらが根負けするかという類の争いになっていた。
「分かったわ。シーンさんは私の後ろにいてもらいましょう。いざとなったら助けてもらえるから安心だし。ね?」
「まぁエマさんがそう言うのなら……」
どこかホッとした表情のカイに対し、ムっとした表情のシーン。眼を細めカイを睨む。
「何それ? エマさん相手だと随分素直なのね!」
「るっさいな。この役立たず!」
「誰が役立たずよ! このばか! あほ! 変態!!」
「だ、誰が変態だ!」
「とにかく交代で見張りをして今日は休みましょう。まずは私がするからカイくんもシーンさんもギルムさんも先に寝てください」
「そうか。ではお言葉に甘えさせていただこう。次はワシがするから適当に起こしてくれ」
じゃれ合いになど興味ないとばかりに、尻の下に先ほど狩った獣の皮を敷き、木にもたれ掛かり愛用のウォーハンマーを抱くように座ってギルムは眠る。エマは数本の薪を焚き火に投げ込んだ。炎が暗闇の中、より自己を主張し始める。
「ほら、カイくんもシーンさんも寝て寝て。ね?」
「あ、見張りなら俺がしますよ。エマさんは寝てください」
「ふふ、ありがとう。でもここは私にまかせて」
「ほら、エマさんがああ言ってるんだから素直に聞いとけば?」
精一杯皮肉を込めてシーンは言い放つ。内心全く持って面白くない。
「うるさいな。とっとと寝ろよ!」
「言われなくても寝るわよっ! ……もうこれからは絶っっ対に朝起こしてあげないんだからっ!」
「え?」
「お前等、うるさいぞ」
左眼だけを開き、睨むギルム。二人はうなだれ、小さな声で「すいません」と謝る。目を合わした二人。ため息を一つつくとカイはマントを外しシーンは敷物を用意する。大きな木を背に互いに肩を合わせマントを前から羽織ると、二人は静かに目を瞑った。
寒さ鋭い冬の朝は凛としていてどこか神聖な雰囲気すらあった。凍った針葉樹は太陽の光を浴び、キラキラと輝いている。アルタイへと続く街道はよく踏み固められてしっかりと整備されている。道幅も申し分なく、馬車が道行く人を避けてなお馬車同士がすれ違える程ゆとりがあった。
周りには木が生い茂り身を隠す場所は十分にある。剣を振るうには十分。鎚を振るうにも十分。そして隠れて魔法を唱えるにも十分の場所。
エマの予想通りの場所、時刻に現れたネイスは、カイとギルムに気が付き、この上なくだるそうな表情を見せた。
「お前らか。せっかく逃げられたのにまた出てくるとは」
エマの気配は全くしないが打ち合わせ通りなら作戦は始まっているはずだ。カイはギルムに目配せし、ネイスへと話しかける。
「一つ聞きたいのだが?」
「なんだガキ? 随分と分かりやすい時間稼ぎだな。どうせあの女が魔方陣でも構築してるんだろうが……まあいい。言ってみろ」
眠そうに頭をかきながら話すネイス。カイはいきなり言い当てられてどきりと心臓が高鳴る。だが結果的に作戦は上手くいっている。カイは事前に考えていた、いや、前から疑問だった事を素直に質問する。
「なんで町を襲うんだ? 金か? 女か?」
「国だ。以上だ」
一瞬の迷いも無く即答するネイス。予想以上に早く会話が終わった事に焦りを感じたが、それ以上に国を欲している事に驚いた。
「ちょっと待て! 国って!?」
「聞きたいのは一つだろう?」
「こんな狂人相手に話しをしても仕方あるまい! 坊主、行くぞ!!」
ギルムは会話による引き伸ばしは失敗したと判断したのだろう。ならば近接組が魔法組に対して取る戦法は一つ。先手必勝だ。ギルムは巨体を揺らし、その体躯に似合わない速度で一気にネイスへと駆け寄る。両手には愛用のウォ-ハンマーがしっかり握られており、今にも振り下ろさんばかりの構えだ。そう誰もが思った。
「なっ!?」
走っていた勢いそのままに突然倒れたギルム。カイはおろか、これにはネイスも驚いた。頭から背中を、そして腰が地面に触れ、足の裏が地面に着いた時、ギルムの両手にはウォーマンマーは握られていなかった。
手に持っていたのはボウガン。前転の勢いを両足で完全に殺すと照準を合わせたのかそれとも適当なのか、構えた瞬間に弓を放つ。空気を突き抜ける音。肉に食い込む音。押し殺したうめき声がかすかに聞こえる。弓は胸へと向かっていたがネイスは咄嗟に避けたのか、それとも魔法で逸らしたのかあるいは両方なのか。とにかく鉄の弓はネイスの肩に突き刺さっていた。
「ちっ!」
舌打ちしたのはギルムかネイスか。片や受けるはずのない攻撃を受け、片や必殺の攻撃を外された。双方面白くないだろうが、最初に口角を歪めたのはギルムだった。
「痺れ薬じゃ。毒ではないから心配すんな。まぁ動けなくはなるがの」
「殺す!」
発した言葉はギルムを睨む視線に乗せられる。ネイスが紡ぐ言葉に呼応して空気は震えだした。その空気に切り込むようカイは剣を振るい、ネイスに問うた。
「国を欲してどうするんだよ! 他国に戦争でもしかけるのか!」
「うるさいガキだな! こっちは今忙しいんだよっ!」
ネイスの背後、円を描くように五十の炎矢が浮かぶ。全てが炎で出来た魔法の矢は空を切る飛来音を発し、カイとギルムを目掛けて殺到する。カイは避け、切り落とし、少しずつ近づく。その視線はただネイスへと向かっていた。
「……ったく、じゃあ聞くがこの国は良い国か? あぁ!?」
「そ、それは」
「この国を、地方を治めている者共はどうだ! 税はもはや生活が困難な段階まで重く、法を作れば自分たちに都合の良いものばかり。それに異を唱える者がいたなら力で封じ、考えているのは私利私欲の追求のみ。知ってるか? やつら、二年後には隣の国へと侵攻するつもりなんだぜ? 戦争仕掛ける理由は鉱物が豊富ってだけだ。そうなりゃ世界を巻き込んだ大戦争だ」
炎の矢がカイとギルムを襲い、かい潜った二人は剣と鎚でネイスを襲う。口上と武器による応酬。カイが斬り込み、ネイスが避け、そこにギルムが振り下ろす。ネイスは二歩退くと両手を広げ、三十もの鉄の精霊を召還した。
「じゃあなんで殺すんだよ!」
「あ、昨日の事か? お前バカか? こっちは殺されそうになってるんだぞ。そりゃあ殺すだろう!」
カイは反論出来ない。それどころか剣が鈍る。体が鈍る。心が鈍る。なんでネイスを倒そうとしているのか。本当に悪いのは国なのか。鉄の精霊が飛び交う中、いつしか避けるだけになっていた。
「魔人と二つ名を付けたのも国。討伐依頼を出しているのも国。この俺が来るのをビビっているのも国。違うか?」
ずきりと胸が痛む。税が重くて泣く者を知っている。王族や貴族は平民を殺しても罪にならない法がまかり通っている。税が重過ぎると懇願に行った村長は二度と戻ってこなかった。だけど国に反旗を翻すなど考えた事もなかった。
「一生飼い慣らされていろ、ガキが!」
ネイスの言葉がカイの胸へとさらに突き刺さる。鈍っていた剣は、心は、体はついに動く事を止めた。その時だった。魔力が膨張する。明らかな違和感がカイを襲う。引き攣ったネイスの表情。ギルムはとうに距離をとっていた。
ネイスの足元に現れる黒い魔方陣。大きさはゆうに三十槍を超えている。幾つもの図形が配置され形を作り上げ、円の周りには右回り、左回り、そして右回りと合計三周もの文字がゆっくりと回っている。地面に一つ。脛あたりに一つ。膝あたりに一つ。腰あたりに一つ。胸あたりに一つ。顎あたりに一つ。頭頂部あたりに一つ。計七つ。つまり積層型魔方陣。七つの魔方陣が展開したところで周囲を回っていた文字が止まり、黒い光の障壁が噴出すように立ち上がる。同時になにかにかき乱されるような感覚に陥った。
「お前まで閉じ込められたのか? どんな作戦だよ。死ぬぞ?」
「お前はどうなんだよ?」
「この程度なら痛いだけだ。魔法を封じているだけで魔力を封じてないからな。つかお前こそこれがどういう魔法か分かっているのか? ゲオメトリア積層型魔方陣『黒光の柩』。強力な磁界と電界を操り、対象物を完膚なきまで焼き尽くす。そして同時に精神攻撃、消魔法。おまけに魔方陣内にいるモノ同士の融合だぞ? まったくエグイ事極まりない、いかにもあの女らしい魔法だぜ。でもまぁ俺を倒したいのなら、あと六つは魔方陣を組み合わせてだな……」
延々とどれだけ俺様を倒すには足りないかを得意げに説明するネイス。だがカイには理解できない。
黒い光がいよいよ強くなり、辺りは眩い暗闇へとなっていく。ぴりぴりと皮膚を刺激する感覚。高まる緊張。電気が迸り、中心から生まれつつある一際黒い光の塊が大きくなっていく。
死ぬ。なぜだか分からないがカイにそう思わせるだけの雰囲気があった。エマがこれならネイスを倒せるというだけの事はあるな、とぼんやり考えた。現実感がないまま死を覚悟したためか、地に足がつかない妙な浮遊感を感じる。甲高い耳障りな音がいよいよ高まり、終わりかと目を閉じた時、聞き慣れた声が耳に届く。
『エマさん! まだカイが中にいるの!!』
『この機会を逃したら二度とネイスは殺せないわ。残念だけど諦めてくれるかしら』
『そんな、諦めるって!! 何言ってるのよっ! いいから止めてっ!』
『……ギルムさん。この子を黙らせて』
『は、放して! いや、放してってばっ!』
『く、この…………ええいっ!!』
キキキ、と虫の羽音にも似た甲高い音はついに幼馴染の声を遮り、カイの叫び声をも掻き消す。姿を見ることが出来ないだけでも不安なのに、声が聞こえなくなるなどこれはもう恐怖だ。自分が死ぬのはともかく、シーンに何かあるのは耐えられなかった。
「お、おい! ネイス!! この魔方陣なんとかならないのか!!」
「なんねーよめんどくせー。というか、なんで俺がなんとかしなきゃなんねーんだ?」
正論なのだが、今のカイにそれが正論であるなどと受け入れるだけの余裕も冷静さもない。
どうにかしなければシーンに何かが起こってしまう。カイは呪いの言葉でも吐くように自分に言い聞かせる。
考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。
カイは剣を地面に突き刺し、目を閉じて考えた。
ここからは出られない。シーンは決して諦めない。エマとギルムはシーンを黙らせるだろう。
俺が死んだらシーンは諦めるか? いや、シーンにそれを伝えられない。
魔方陣を潰せるか? あのネイスが無理だっていっているモノを俺が破壊できるわけがない。ならば。
「ネイス! シーンにかけた封呪の魔法を解いてくれ!」
「お前ホンとバカだろ? もういいから死んでろ」
「なんでもするから! 魔法さえ使えたらシーンならなんとか出来る! 頼む!!」
ため息をつくネイス。その後何かを言いかけた。首を振りかけた。けれどどんな風に口は動いたのか、首は縦に振られたのか、横だったのか確かめる暇もなくカイの目の前は文字通り暗闇で覆われた。エマ・アーテル最強の攻性魔方陣『黒光の柩』が完成した瞬間だ。
不気味な振動。黒い光が乱れ舞う。黒い雷が迸り、黒い炎が立ち上がる。だが、カイに見えているのは暗闇だけだ。
「う゛ぁあああぁぁぁぁぁあぁぁあああぁぁぁぁああああぁああああああ!!!!」
プレートアーマーが溶け出し、剣は爆発する。左手は爆ぜるように燃え、全身に雷が刺さる。右手にしていた銀の腕輪が砕け散り、一瞬だけ辺りは緑の光に染まった。だが闇は尚も膨らみ続ける。叫ぶカイよりも激しく闇は弾け飛ぶ。闇はさらに次の段階へと進もうとしていた。魔方陣内に在る物と者の融合。
突如起こる不協和音。そして、暗闇が引き裂かれた。
「カ……イ……」
魔方陣をこじ開けたシーン。よろよろと力なくふらつき、今、まさに尽きようとしていたカイに抱きつく。震える手でありったけの治癒の石を握りしめ、生気を感じられない顔に、焼け焦げた左手に、腕輪が砕けた右手に、動かなくなった両足に使う。
「ったく。敵だぞ、俺は」
杖を一振りし、綻びが生じた箇所から魔方陣を切り崩すネイス。絶妙なバランスで保たれていた強固な陣も、一端を崩された事により連鎖的に崩れていく。黒い光は異様に美しい青白い光へと変わり、耳障りだった甲高い音は止んでいく。
石の効果は抜群だった。もうこれで大丈夫と安心したシーンは崩れるように座り込む。最後の石を取り出し、カイに押し当てると小さく祈りの言葉を紡いだ。淡い緑の光がカイを包み込むのを見ながらシーンは意識を手放した。
入れ替わるように意識を取り戻したカイは、変わり果てた幼馴染みの姿を見て言葉を失う。目からは一筋の涙。口元からは一筋の赤黒い血。黒く焦げているプレートアーマーは中央の部分が大きくへこみ、装甲が歪んでいた。魔方陣へ強引に割り入ってきた両腕は肩口まで消し炭のように激しく焦げており、人の腕とは言えない状態だった。濡れたように艶やかだった銀色の髪はもはや見る影もない。
カイは両手で深く強く抱きしめた。頬に感じる温かかさはいつものシーンだった。両手が感じる柔らかさもいつものシーンだった。
だけど、既に息はしていなかった。
「シーン……」
嘆き。悲しみ。怒り。憤り。憎み。恨み。悔やみ。あらゆる負の感情がカイを襲う。心が騒ぐ。決意する。
「おい、お取り込み中のとこあれだがあの女とオッサン逃げるぞ。追いかけないのか?」
「いや……後だ。お前を倒す」
小さな声で。だけど迷いはなく。空っぽになった頭は泣く事よりも怒る事よりも追いかける事よりも逃げ出す事よりも諦める事よりも忘れる事よりも戦う事を選んだ。
「はぁ、なんでだ? つか、封呪を解いたってのに礼の一つもなしとか。最近のガキは。その女はお前の恋人なんだろう? 特別に見逃してやるからとっとと追いかけてさっさとカタキ討ってこいよ」
シーンの体をそっと寝かせ、カイは爆発して半分の刀身となった剣を手に取る。ゆらり、と力なくの立ち上がり、訝しげな顔のネイスに切っ先を向ける。
「今なら倒せるからな」
「ったく。そういう事か。ああ、確かに今なら倒せる……かもな」
ギルムの麻痺毒は確かに強力だったようだ。ネイスの足は震え、杖を持つ手も揺れ動いている。表情こそ大胆不敵だが、毒が効いているのは容易に見て取れた。
「なぁ、質問があるんだが」
「まったく、質問が多いやつだ。なんだ言ってみろ」
「死者を復活させる魔法を使えないのか?」
「できねぇよそんなの。そんなの魔法じゃねぇ。奇跡だ」
「じゃあもう二つ質問だ」
「なんだ」
「あんたなら異世界の神、クリストゥスと契約出来るか?」
「しねぇよ。クリストゥスは他の神との契約を認めねー神だからな」
「……そうか。じゃあ、な―― 」
カイは冷たい刃を一片たりとも躊躇することなく突き立てた。
この国三番目の地方都市、アルタイの町はどんよりと曇っており、今にも雪が落ちてきそうだった。風は突き刺すように寒く、みな閉じ籠もるように過ごしていた。そんな中、アルタイの城にある謁見の間だけは尋常ならぬ熱気に満ちていた。
「カイ・ラーウスか」
「はい」
「ネイスを討ったというのは誠か?」
「はい。証拠の品はここに」
カイは一本の黒い杖を近くにいる騎士に手渡す。受け取った騎士の表情がわずかに歪む。力ある者ならあの杖に渦巻く魔力がどれほどものがすぐに分かるだろう。覚悟が無い者にはそれはあまりにも重かった。
「これは……魔杖ウェリタース! では本当に討ち取ったというのか!!」
評議会の魔法最高顧問は歓喜と恍惚の表情で杖を抱え上げる。カイはかしずき、深い毛並みの赤い絨毯を見ながら声を聞いていた。
口々に本物なのか、と魔法最高顧問に迫るアルタイの重鎮たち。ざわめきは後ろに控える騎士からも起こっていた。
ネイスによって潰された町、村は十を超える。アルタイは税収という点から見るととっくに破綻していた。評議会は民から税を絞れるだけ搾り取って逃げる算段までしていたくらいだ。そこへまさかの討伐報告。我が耳を疑うのも無理がない。だが、カイにとって評議会の安堵など全く関係ない。
「約束の報酬はここでいただけるでしょうか?」
「おお、そうじゃったな。準備しよう。ところでエマというアウルムランクの傭兵がおっただろう。やつはどうした?」
「逃げました」
「逃げたじゃと!?」
「はい。ああ、そうでした。申し訳ございません、失念しておりました。エマ・アーテル、そしてギルム・フルウムの二名は敵前逃亡でございます」
「そ、そうか。よし、おって手配いたそう。そ、それよりも報酬じゃ。まずは報酬を渡そう」
深い毛並みの絨毯は足音を一切消し去るが、鎧が擦れる音からかしずいていても近づいてくるのが騎士だと分かる。魔人討伐の報奨金は老人が持てるような重さではない。もしかしたら報奨金を渡すなど自らするものではないのかもしれない。カイまであと一歩といった所で音が止む。次いで擦れるようなか細い金属音。空気を切り裂く音と同時に激しい金属音が響いた。
「これは一体どういう事で?」
カイの首を狙った剣の一撃。カイは左手甲で受け流していた。顔を上げると引きつった表情の騎士。そして壇上の向こうには白く長い髭を蓄えた八人の老人たち―― アルタイ評議会の面々。
「ネイスを討てる程の剣士を生かしておく事はできぬからな」
「これは最初から決まっていた事でな。悪く思うなよ」
「そもそもこんな額をもらってどうする。わしらが有意義に使ってやろう」
『な、言ったとおりだろ? 報酬なんて出るワケねーんだよ』
背後から聞こえた声。立ち上がり、カイは先ほどの騎士の目をはたき、剣を奪う。黒髪の男はつかつかと魔法最高顧問に近づくと、杖を奪い取った。
「な、なにやつじゃ!!」
「あん? お前等、俺の顔知らねーの?」
怯える老人たちは分かっている。目の前にいる男が何者なのか本能的に分かっている。こと金に絡む事と危機に関する嗅覚だけは八人の老人たちはこの上なく鋭かった。
「ネイス・ウィオラーケウスだ。初めましてだな、そしてさようならだ」
カイはここに来て、やっとネイスの言葉は真実だと確信に至る。エマを追いかけず、ネイスと戦った事は間違いではなかったと。
『あんたなら異世界の神、クリストゥスと契約出来るか?』
『しねぇよ。クリストゥスは他の神との契約を認めねーからな』
『……そうか。じゃあ、なんだ? 契約出来ないとは言わないんだな?』
ネイスの耳元からわずかに離れた壁に剣を突きつけ、カイは問う。
『国を取るのにクリストゥスだけってのは無理だからな』
『国を取った後ならいいのか?』
『俺に女を復活させろとでもいいたいのか?』
『そうだ』
『クリストゥスと契約出来るかどうかなんて分かんねーよ』
『可能性は0じゃないんだな?』
カイの問いにそれまでニヤニヤと笑いながら話していたネイスの表情が締まる。
『なら俺を手伝うか? 俺の剣となってこの国を落とすか? 全てが終わった後なら考えてやらなくもねーぞ?』
『……誓えるか?』
『誓えねぇ。そもそもクリストゥスと契約出来るかどうかが分かんねー』
ギラリと鈍い刃先に光が走る。冷たいものがネイスの頬を撫でた。
『はぁ……分かった分かった。まぁ、いいだろう。全てが終わったらクリストゥスと契約してやる。その代わりお前は俺の手足となって国を落とす。これでどうだ?』
『……承知した』
謁見の間に呼び寄せられたのは近衛騎士三十八名。魔道士十五名。まだまだ集まってくるだろう。相対するは異世界の神と契約せし魔人ネイス。黒き雷を身に纏う剣士カイ。
「ちょーど良い日じゃねーか。今日はクリストゥスの降誕祭。クリスマスイヴって奴だ」
今年からは降誕祭に参加すべきか、と二人の男は思う。一人は契約がスムーズにいく為に。一人は女の復活を願って。
「俺は国を。お前は女を救う、だ。そんなわけでメリークリスマス ジジィ共! んじゃま、とっとと終わらせるぜ!!」
後に百万の軍勢となる最初の一人。後に無二の友となる男との出会い。世界を救う物語はこうして始まった。