07
獣の駆ける行く先で見た光景は、竜巻が襲ったのではないかと思うほど、争いの爪痕が目に焼きついた。猛々しく美々しい草木は薙ぎ倒され、無抵抗の暴力を受け続けた哀れな姿を今もさらけだしている。魔族や変身した町長を倒すためとはいえ、【森】への被害は甚大だった。これだけ広範囲にやられてしまっては、再生にどれだけの時間を費やせばいいのだろう。
おそらく、少女の寿命では、復活した姿は見られない。
彼らが受けた仕打ちから比べれば、町への援助打ち切りなどかわいいものなのだろう。彼らは人間を許したわけではないのだ。ただ、見逃してやっただけ。
解決策はないものかと悩んでいる間に、獣はその俊足を持って、ルミエラのところに辿り着いていた。
巨木は、いつも通りその腕を空一杯に伸ばして、そこに佇んでいた。その荘厳な姿に、昔は畏怖さえしたことがあったが、今は心なし枝についている葉が萎れているように見える。足下の惨状は、【森】の荒れ具合よりも酷い。地面は抉られ、【木】が落とした実が、あちこちで潰れて腐っている。おかげで、辺り一帯に饐えた鼻を突き刺すような臭いが充満していた。
「メル! メルキオール!」
悲鳴のような声がしたかと思うと、少女の目の前に突然人が現れた。必死の形相で現れたのは、――ルミエラ。
彼女は少女の右手を見て、息を呑む。いやいやと首を横に振り、顔をくしゃりと歪めた。
「アルシオン……どうして」
そこまで言ってから、ルミエラは少女の脇に差してある、白い棒に気がついた。
「それは…! まさか、アルシオンが持ち主になったというの?」
少女は、訳が分からないまま首を縦に振った。
すると、絶望したようにルミエラの顔から血の気が引いた。
「ああ、何てこと! メル! あなたにはまだ早いって話したでしょう?どうして、こんな! もう、後戻りできなくなるなんて!」
ルミエラの悲鳴に、獣が無念そうに謝罪する。
「申し訳ありません。まさかアルシオンがメルキオールさまと契約を交わしてしまうなんて、」
獣が頭を垂れるが、ルミエラはいいえ、と固い声で遮った。
「わたくしも予想外だわ。まさか、メイビルとまた、ここで会うことができるだなんて、思いもしなかった」
「メイビル?」
少女が尋ねると、そうよ、とルミエラは頷いた。
「あなたが持っているその剣の名は、メイビルという。わたくしの、息子だ」
少女には、ルミエラが何を言っているのかが分からず、ただ首を傾げた。
「……メイビルは、わたくしの最初の息子。メル、あなたのお兄様にあたるのよ。メイビルは先の戦で命を落とした。……判事が、わたくしの息子を道連れにしたのよ。その危険があるのは知っていたわ。でも、メイビルはデジレウパルムさまの跡取り候補として連れて行かれたの。それなのに、……あんなことになってしまって……」
ルミエラは声を落として、唇を噛む。判事とは何か分からない少女は、ただ首を傾げるしかない。
「だから、せめてメイビルの形見として、メイビルからその剣を作ったのよ。人間が、メイビルを忘れないでいてほしかったから。フルドマという男に渡せたのは、幸運だったわ。彼は、メイビルを神からの贈り物だと言って、聖具として扱ってくれたから。
でも、まさかアルシオン。あなたの手に入るなんて……」
「……どういうこと?」
まだ話の先が見えない少女に、ルミエラはため息を吐いた。
「いいこと。あなたがその剣を使ったことがあるというのなら、メルに触れれば契約できたのも偶然ではないのよ。【木】と契約できるのは、判事だけ。でも、あなたのように時折、【木】と調和が合う人間もいる。だからといって、契約ができる人間は絞られてくるわ。オーレリーはこのことを予想していたのかしら?」
それはどうだろう、と少女はまた首を捻った。オーレリーは最初から少女を旅に連れて行くつもりはなかったようだし、そんなことは考えていなかっただろう。
「ルミエラ、聞きたいことがあるんだけれど」
「クーア=パチルのこと?」
分かっていると言わんばかりに、ルミエラはこちらだと少女を促した。先を歩くルミエラの肩は落ち、今にも座りこみそうである。その背中を、少女は複雑な思いで見つめた。
なるほど、二人目の息子も旅に出させなければならないとするなら、前の息子の時よりも万全に体制を整えてから臨みたいと考えるのが普通だ。
メルキオールはまだ幼い。まだまだ親の背を追ってもいい年頃だろう。少女にだって、不安がないわけではない。何より、命を共にしなければならないというのが、恐ろしい。
「ここよ」
「……!」
ルミエラの指差した、先。
【木】を半周した、そこだけはどうしてか地面が綺麗なままだった。草花も青々として、それの暖かい寝床になっている。
「……、姉さん」
そこにいるのは、紛うことなく、変わり果てた姉だった。
【木】の幹に背を預け、両手両足を伸ばしている。艶やかな髪と透き通るような肌は、そしてこちらを真っ直ぐに見つめる瞳は、今はもうない。
そうだ。もう、一年も経っているのだ。
少女は、改めて月日の流れの速さを思い知った。
そこにいるのが姉だと分かる証拠は、その涼しい胸元を飾るネックレスだけ。身につけていた服は、もう用を果たさないごみとなって、その体に張りついている。
ふと、少女は自分が涙を流していることに気がついた。泣くつもりはなかったのに。泣いたって、どうしようもないのに。
ああ、でも。
姉さんは本望かもしれないじゃないか。【木】を愛し、【木】の下で眠りたいと言っていたじゃないか。
「クーを、見捨てるわけにはいかなかった。彼女は身を張ってわたくしを助けようとしたのだから。最後まで役目を果たそうとしてくれた守護者を見捨てるほど、非情じゃないわ」
そう言いながら、白骨の首にぶら下がっているネックレスをゆっくり外す。ルミエラはそのまま、それを少女の手に落とした。
少女は暫くそのネックレスに目を落としていたが、ぎゅっと握りしめると、顔を上げた。
「役目……か。ルミエラ。あたしは町を出る。出るしかないんだ。許してくれるだろう?」
涙を拭って、少女はルミエラの苦渋に満ちた横顔を見つめる。
ルミエラはゆっくりと振り返り、少女の瞳を見返した。
「誓いなさい。ここに必ず戻ってくると。何を失っても、戻ってくるのよ。あなたが約束を違えたら、町はもうないものと思いなさい」
立派な脅迫だが、少女は素直に頷いた。彼女も死ぬつもりはないし、絶対に帰ってくるつもりがあるのだ。
「帰ってくるよ。その時は……出迎えてくれる?」
少女の申し出に、ルミエラは些か驚いたようだ。何度か瞬きをしてから、腕を組む。
「……いいわ」
面白いとばかりに、にやりと笑みを浮かべる。少し面白がっているようだ。
「それじゃあ、あたしは行くよ。……また、来る」
短く言い残して、少女はネックレスを握りしめたまま、走っていった。
二度と、後ろを振り向かずに。
置き去りにされたルミエラと獣、そして白骨は、燦々と降り注ぐ木漏れ日の下で、その後ろ姿を見えなくなるまで見ていた。
「……これで、よろしかったので?」
顔色を窺う獣に、ルミエラは振り返らないまま、頷いた。
「仕方ない。わたくしにできることなど、ほんの一握りなのだからな。あとは、デジレさまにお願いするしかないだろう。デジレさまも、そろそろ引退を考えてもおかしくないお年だ。後継者はどうしても必要だからな」
「ルミエラさまは、前に来た若者の言葉を覚えておいでですか?」
「……」
獣が言っていることは、ルミエラもよく分かっていた。それが頭の隅にずっと蹲っていて、心のしこりになっていたのは、確かだ。
しかし、信憑性がない。若造の、ただの虚言だと割り切ってしまえばいい。
だが、今でも彼の声が頭の中で響いているのだ。
第二の息子も死に、この国も息絶えるだろう、と。破滅に導くのは、紅い宝玉と、蒼い血であると。
オーレリーが来たときに、ルミエラは直感した。これが紅い宝玉なのだろうと。では、蒼い血は?
「ベアニクル、心配なのは分かっている。だが、見守るしかないだろう? わたくしには、この【森】がある。離れるわけにはいかないのだから。……見送りに行きなさい」
はい、と獣は頷いて、すぐに姿を消した。
一人になったルミエラは、小さくため息を吐いた。
彼女も、息子の無事を祈るしかない。
「ねぇ、……クー。あなたの妹は、きっとわたくしの息子を守ってくれるわね……?」