06
幼い頃、【森】は少女の隠れた遊び場だった。
両親は少女に貴族らしさを求めたが、そんなものは彼女にとって、障害にしかならなかった。彼女は遊びに行っていた宿屋の主人のほうが親らしいと思っていたし、家には帰りたくないとすら思っていたのだ。だから、【森】の奥深くは別として、この辺りは庭のようなものだった。その庭に二度と入れないと知ったときは、オーレリーを憎みさえした。
だからこそ、今、危険だと分かっていても、馴染みのある濃い緑の匂いは、少女の気分を向上させる。
これが、最後だとしても。
できるだけ静かに足を運びながら、前方に光る何かを凝視した。
それは何の支えもなく、宙に浮いているように見える。それが一体何なのか想像もつかないが、彼がああまで言うのなら【生命の木】が関係しているのだろう。
後で必ず吐かせてやる、と胸に決めながら、少女は光の前に立つ。
――と、そこで、左側に殺気を感じた。
そちらに目を向け、一気に血の気が下がっていく。
少し離れたところに、爛々と光る金色の目が少女を射抜いている。
黒い巨体。――ベアニクル。
「お願い! 見逃して!」
声が裏返りそうになるのを必死で堪えながら、少女はそれだけ訴えた。
飛びかかってきて、その鋭い牙と頑丈な顎に食い千切られるかと思うと、骨の芯まで冷えてくる。
だが、少女の声に反応するでもなく、獣は身動きせずにそこに座ったままだった。
「見逃してやってもいい」
思ってみない返事に、少女は大きく目を見開く。厳格で知られている獣に限って、こんなにあっさりと許してくれるはずがないのだ。
案の定、条件があるという。
「……何?」
表情の見えない獣の裏側が見えないかと目を凝らしてみるが、微動だにしない獣に隙はない。
ひたりと少女に視線を合わせて、淡々と答えた。
「あの男がルミエラさまにかけた、魔法を解くよう言ってくれ。それから、その光っているものを、【木】まで戻してほしい」
「なぜ?」
【木】にかけた魔法のことは分かるが、後半はオーレリーが隠していることだろう。疑問の声を上げると、獣が話し始めた。
「お前の前に光っているのは、ルミエラさまのお子だ。あの男はお子を引き取りに来たようだが、まだそれには時期が早い。ルミエラさまは断るつもりだったが、先手を打たれて何らかの形でお子と直接交渉したらしい。ルミエラさまはいけないと言ったんだが、密かにクロエを呼んで、あの男のところに行こうとなさっていたんだ」
獣は一呼吸置いて、続ける。
「アルシオン、我らはお子に触れることはできない。だが、きっとお前なら触れることができるだろう。頼む。ルミエラさまは動けないまま、嘆いておられるのだ」
少女は獣が頼むと頭を垂れたことに驚いたが、話の内容にも驚いていた。
この光り輝いているのが、ルミエラの子ども? オーレリーはなぜ子どもを連れて行こうとするのか? そして、なぜ獣は子どもに触れられないのだろう。
どちらにしろ、少女が触れるしかないのだ。ただ、ルミエラの元に戻すか、それともオーレリーのところに連れていくかは、決めかねる。
改めて光に向き直ると、少女はごくりと生唾を飲みこんだ。おそるおそる光に手を差し伸べると、やんわりと暖かい。結界を張っているから触れられないのかと思いきや、何かに遮られることもなく、ゆっくりと彼女は光の中心に手を伸ばす。
途端、視界一杯に光が弾けた。
あまりの光量に目を閉じると、頭の奥底から囁き声が聞こえる。
一瞬空耳かと思ったが、繰り返し囁かれているのが自分の名前であることに気がついた。
誰、と問いかけると、メルキオールという囁きが返ってきた。
確かに幼い声に聞こえるが、本当にルミエラの子どもなのかと疑うと、幼い声が当たり前だと憤慨している。囁き声だから迫力はないが、今は信じるしかない。
すると、今まで怒っていた声が、それじゃあ契約しようと言い出した。
何を、と尋ねる前に、光が引いていってしまう。声を追うように目を開けると、差し伸べていた掌に、小さな褐色の種が載っていた。
まさか、これが今まで光っていたというのか。
「……、これ」
何、と続けようとした声は、声にならなかった。
それは、種から蔓が何本も一斉に飛び出して、少女を襲ったからである。
悲鳴を上げる暇もなく、蔓が少女に巻きついて視界が遮られてしまう。
突然のことに混乱している少女に、またあの声が頭の中で囁いた。
痛くないよ。でもあなたは、あの人について行くんだろうから、ちょっと体を貸してもらうね。
あまりに勝手なことを言われて、混乱が頂点に達する。
ふざけるな!
見えぬ相手を怒鳴りつけると、相手は怯えたようだ。というのは、締めつける蔓の力が弱まったからで、その隙に少女は全身を滅茶苦茶に振り回して、蔓から逃れようとした。
思わぬ反撃に、悲鳴を上げたのは頭の中だけで響く声である。
きんきんとした声を無視して、構わず暴れ続ける。それに堪らなくなったのか、蔓がほどけ始めた。
顔が出たところで、少女をただすらに見ている獣が目に入った。
「見てないで、助けてよ!」
叫んでも、獣は石のように一切反応しない。
少女は諦めて、自分の体を半分以上覆っている蔓に向かって、また怒鳴った。
「あたしをどうするつもりだ! 答えろ、メルキオール!」
名前を呼ばれたせいかどうかは不明だが、蔓は種を持っている方の腕まで戻っていく。完全に種まで戻らず、片腕を占領されたままだ。
「……早くしてよ」
まだ怯えている声が、頭に響く。
どうやら、今まであまり怒られたことがないようだ。ルミエラの子どもなら、ルミエラが叱らない限りは誰も手出しできないだろうから、当然とも言える。
だが、少女は容赦しなかった。
「喋れないわけじゃないんだから、早くしてよ。あたしは気が短いんだ」
すると、掌の上に青白い光が生まれる。微かに揺らめく光から、声がした。
「おこらないで。ちゃんとはなすから」
頭の中で聞いた声より、舌足らずな声が鼓膜を叩く。女の子かと思っていたが、どうやら少年のようだ。
「ぼくはひとりじゃ、うごけないんだ。ひとに"きせい"しなきゃいけない。それも、えらばれたひとじゃなきゃ、いけないんだ」
「……まさか、あたしが選ばれたってこと?」
肯定の返事に、更に頭の中を掻き混ぜられる気分になる。しかも子どもが言うには、契約が不完全だから腕一本で済んでいるが、本来は全身に寄生するらしい。更に、悪いことに一度寄生した種は、ある場所まで行かなければ離れないのだとも。
「ベアニクルはこの事知ってたの?」
獣はまた首を横に振る。確かに知っていれば、少女に触れさせなかっただろう。獣はこの子を、【木】に戻したかったのだから。
次に子どもは、獣に向かって話しかける。
「ベアニクル、ぼくはもうもどれないんだ。おかあさまには、ちゃんとクロエがつたえてくれてるよ。ぼくはだいじょうぶだから、もうおわないで」
小さいながらに一生懸命獣に向かって言葉を重ねる。
「それなら、アルシオンが【木】の近くで住めばいい」
獣は驚きもせずに、そう言い放った。確かにそれは的外れではない。この【森】で暮らせるというのも、少女の興味をそそる。
しかし、少女にはやり遂げなければいけないことがあるのだ。
はっきりそう言うと、獣は獰猛に唸った。
「我らを裏切るのか、アルシオン!」
そうじゃないと否定したが、獣は聞く耳を持たない。
「それなら、覚悟しろ。お前の喉笛を咬み切って、もがき死んでもらうからな!」
「ベアニクル! それじゃあぼくもしんじゃうんだ!」
怒りに燃える獣に、あわてて子どもが付け加えた。
どういうことだと視線が集中すると、動揺しているのか、先ほどよりも光が小刻みに揺れている。
「ぼくとやどぬしは、いっしんどうたいなんだ。もくてきちにつくまで、ぼくがしぬとやどぬしが、やどぬしがしぬとぼくが、しんじゃう」
子どものたどたどしい言葉なのに、獣と少女の間には、重い沈黙がのしかかった。子どもとはいえ、彼も【木】なのである。本能から知っていることに、嘘はないはずだ。
「……諦めるしかないな」
先に口火を切ったのは、少女の方である。彼女としても、まさか今、こんな風に自分の生き死にを左右するような出来事が降りかかってくるなど考えもしない。
無理に引き剥がすのは諦めて、共存を考えるしかないだろう。
しかし、獣は意外に往生際が悪く、まだ何か方法があるはずだという。
「ルミエラさまならば、何かお考えがあるはずだ! それなら、」
「それはできないといったはずだ。ルミエラにかかってる魔法を解くよう、オーレリーに言うことはできる。でも、悪いが残ることはできない」
獣の声を遮って、少女は完全に拒絶した。それは【森】をも拒絶したことに繋がるだろう。
だが、これだけはどうしても譲れない。少女には、どうしてもしなくてはならない責務があるのだから。
獣は少し項垂れて諦めたように見えたが、その低い声でぽつりと呟いた。
そう、それは、思ってもみないこと。
「では、お前の姉の居場所を知っているとしたら、どうだ?」
一体、何を言っているのか分からなかった。姉は――、北の獣に食われたと、町長が言っていたのだから。
あまりのことに言葉が出ない少女に、ぬらりと妖しく光る瞳をひたりと合わせ、獣は続けて誘惑する。
「ルミエラさまが、最後の手段だとおっしゃっていたのだ。お前の姉は、北に連れて行かれ、森の中に放り投げられているのを、ルミエラさまが引き取ったというのだ。……これは、ルミエラさまだけが知っていることだ」
心が大きく揺らぐのを感じる。何故なら少女は、この一年、姉のためにこの町に残り、町長と敵対していたのだから。
その姉の遺体をルミエラが隠している?
どうして、そんなことを。
「ねぇ、おかあさまのところに、もどるの?」
心配そうな子どもの声で、現実に引き戻された。
「……いや……」
そうは言うものの、足は動かない。獣と火を交互に見て、それから【森】の出口にいるはずのオーレリーを見た。彼の表情までは判別できないが、まっすぐこちらを見ていることは分かる。
彼ならば、何と言うだろう? やはり、戻ってこいというのか。それとも。
「……行こう」
結論を出すのは早かった。子どもが動揺するのが手先から伝わってきたが、無視する。確かにここまで来られたのに、また逆戻りするのは嫌だろう。
でも、そんな問題じゃない。
ルミエラとちゃんと話をすることも、必要だ。
獣は覚悟を決めた少女を見つめ、何も言わずに立ち上がった。背中に乗れと言う。
少女はもう一度オーレリーを振り返ったが、見えぬ目の圧力を振り払うように、獣の背に向かって歩き出した。