01
オーレリーは森に入る前に、懐から取り出した黒い布で自分の目を隠してしまった。どうやら予備の布を持ち歩いているらしい。よく見れば、真っ黒ではなく、細かい文字がびっしりと黒い糸で縫い取りがされている。裁縫をしたことがない少女から見ると、考えられない代物である。
なぜそんなものをする必要があるのかと聞けば、彼はちょっと躊躇ってから、ぼそりと呟いた。
「何もかも見えたって、嬉しくもなんともないんだよ。こんな能力、ない方が幸せさ」
少女は首を捻ったが、それ以上は聞かないことにする。誰にだって、嫌な過去の一つや二つ持っているものだ。その記憶を無理矢理掘り返されるのが、どれだけ苦痛か、彼女は知っている。
そうして森に足を踏み入れたわけだが、すぐに違和感を覚えた。
やや薄暗いのはいつものことだが、あまりに静か過ぎる。まだ日は高いから、動物が巣に戻る時間ではないのに。
派手な戦闘があったからだろうか? そのせいで門の付近は滅茶苦茶になって、原型はとどめていない。森が怒るのも当然である。
しかしその割に、森に入ってきた少女たちに反応がない。無視されているのか、それとも。
不気味な静けさを保つ森の中ほどまできたところで、少女の横を黙々と歩いていたオーレリーが突然立ち止まった。
「……何?」
少女も立ち止まって彼に仰向くと、一言、来ると呟いた。
オーレリーがそう言うのと同時に、生い茂る木の合間を突き破るように、何かが木の葉と一緒に落ちてきたのだ。
二人の目の前に。
黒い物体は地面に叩きつけられると、鈍い音を立てて動かなくなった。
それをまじまじと見て、少女は息を呑む。
黒いと思ったのは、服だった。その色は、よく見れば血で染まったものである。少女が一目でそれが人間だと思わなかったのは、頭がおかしなところから飛び出しているからである。後ろ頭しか見えないため、誰だか分からないが、あえて見ようとはしなかった。きっと、手足が変な方向に捩れているのと一緒で、顔も見るに堪えない凄惨なことになっているだろうから。
しかし、ここにどうやって入り込んだのだろうか。門は二人で塞いでいたし、生垣を登るのは無理である。
「まさか……!」
悩む少女の思考を打ち切ったオーレリーの顔は、心なしか青ざめて見える。
「何が?」
再び少女が尋ねるが、彼は聞いていないかのように、死体を避けて奥へと走り出した。
オーレリーは走りながら、さっき落ちてきた死体の意味を考えていた。
この【森】は意思がある。
だから、あの死体は故意に【森】が投げ落としたに違いない。
なぜ?
【森】を破壊しに人がやってきたのなら、【森】は全力で抵抗するだろう。その見せしめだとすれば。
彼が考えていたことは的中した。走ってまもなく、開けた――開かされた空間に、答えはあったのだ。
後ろからついてきた少女が、後退るのが気配で分かる。
それも仕方ないだろう。先ず二人の前には、木からぶら下がっている穴だらけの死体があったが、それも風景の一つに過ぎないほど、惨い戦闘の痕跡が今も濃厚な血と緑と煙の臭いに包まれている。その真ん中に広場を作った存在が黒い煙を上げていた。
おそらく、以前老木に落ちてきた物と同じだろうそれは、最早鉄屑同然だった。長く太い胴体には翼を広げるように羽がついていたらしいが、片方は根元からもげている。頭の部分と胴体、そして尾の辺りがそれぞれ下敷きにした木に突き破られ、その中から煙を発していた。
あまりに巨大な、怪物。これを北の森で作っていたのかと思えば、そちらを先ずやっつけておけばと、今更悔やむ。
だが、事は既に起こってしまった。
この鉄屑の中に乗っていたらしい人のうち、助かった者は這い出して、【森】の掃討作業に捕まり、殺されたようだ。夥しい数の男たちが完全に事切れた状態で、地面に倒れ、または木に吊るされている。
それも仕方ないことだ。【森】の立場として、突然鉄屑が降ってきて仲間をこれだけ折られ、一部燃やされ、挙句に片付けようとはしない人間に、見逃してやる義理などないのだから。
それでも、全部が死んだわけではないだろう。この場を切り抜けた人間もいるはずだ。
オーレリーが足の踏み場のないほど、木や人が倒れている間を横切っていこうとすると、後ろで少女が待って、と叫んだ。
「……これはどうして? 何で、こんなことになってるの!」
彼が振り返ると、少し錯乱しているのか、少女が信じられないと言った顔でこちらを見ている。
「説明してる暇はない。それに、……行けば分かるさ。きっとな」
それだけ答えて、オーレリーはもう振り返らなかった。そう、話している暇などないのだ。
こうなるまで気づかなかった自分が嫌になる。さっき少女が言っていたではないか。
魔族が、死ぬ間際に笑っていたと。
どうしてそこで気づかなかった?
少女がついてきているかも構わず、オーレリーは走った。
森の出口が近いことは、人々の罵声がどんどん近づいてくることで教えてくれる。
それで、まだ手遅れでないことが分かったが、より速度を上げた。
間に合わせなければならない。
彼はそのために、ここまで来たのだから。
森を抜けると、見渡す限り枝が広がっていて、【生命の木】がいかに巨樹であるかが分かる。
その下で、十数人の男たちが群がっていた。
「そこをどけ!」
「俺たちにはその木が必要なんだ!」
「お前、町長の犬だろうが!」
「誰が犬だって? そこのおっさん!」
どやどやと文句を言っている男たちの最後に、スタンリーの怒声が鳴り響いた。
「俺は誰にも飼われない! 二度とそんなこと言うな!」
重症だろうに、男たちを黙らせてしまうほどの声量で叫んでいる。
オーレリーからその姿は見えないが、想像はつく。しかし、あまり無理をさせるのは酷だろう。
「ところで、皆さんはどうやってここまでいらっしゃったんですかね?」
いきなり背後から呼びかけられ、誰もがオーレリーを振り返った。振り返った顔触れは、誰もが血走った目でやつれきった三十代から四十代の男たちばかりである。おそらく、先程死んでいた人々と同様、町の人なのだろう。
内心苦々しく思いながら、オーレリーは微笑んで続ける。
「そんな驚かないでくださいよ。こんなところまで来てなんですが、黙って手を引いてもらいますから」
誰もがこの奇妙な格好の青年に対して、いきり立った。引っ込んでいろだの何だお前はと、怒声が飛び交ったが、そんなことで引き下がるオーレリーではない。
笑みを絶やさず、彼らに向かってすたすたと軽快に歩いていく。
「では、言っておこう。この木はあんたたちの物とは違うんだ。本気でこの木を手折りたいなら、まずは俺が相手をしよう。そのときは、命を懸けろよ」
そう言ったところで、彼は男たちの中心まできていた。誰もが彼を止めることが出来ず、道を譲るしかなかったのである。
そこで、気圧される雰囲気に耐えられなくなったのか、男たちの中では一番年若い男が、喚きながらオーレリーの前に躍り出た。
その手には、長い筒のようなものが握られている。手元は少し折り曲がっていて、指を引っかける所がついている。武器なのは、何となく理解した。多分、隣の国でよく使われている飛び道具だろう。
若者はその先端を、オーレリーに向けた。
「ふざけるな! 俺たちはな、町のためにここまで来たんだ! よそ者なんかが口を出すな!」
叫んで、構えた筒をがちゃがちゃと耳障りな音を立てて操作した。
オーレリーは黙って筒の中の空洞を見ていた。今若者に何か言っても、彼は聞き入れはしないだろうと思ったのだ。
「何が町のためなの!」
彼の代わりに、悲鳴で尋ねた声があった。
「アルシオン……!」
周りの声に促されて視線を巡らせると、オーレリーを取り囲む男たちから離れたところで、少女がぶるぶると震えながら立っていた。
青いを通り越して土色に染まった顔は、泣きそうなところで歯を食いしばって堪えているような、酷い顔つきである。
「どうしてこんなことが町のためになるのか、説明してよ!」
「それはだな、アルシオン。この町はもう今までの暮らしじゃ、立ち行かなくなったからだ」
進み出たのは、一番年配かと思われる、髪が灰色で顎に髭をたくわえた男だった。ここにいる誰もが少女とは顔見知りなのだろうが、男の口調には我が侭な子供に言い諭す響きがある。
「嵐は止んだじゃない!」
「そうじゃない。もう何年も前から、町は借金で首が回らなかった。君のご両親の使い込みや、国の税金に対応するには、これしか道がなかったんだ」
言われて、少女は絶句したようだった。どうやら初めて聞く話だったらしい。
そんな少女に追い打ちをかけるように、男は続ける。
「俺たちには頼れる後ろ盾なんかない。そこであいつは、この木を売れば、借金を返せる上に、これからは今までよりも良い生活ができると言ったんだ」
少女はまだ理解できないと首を振った。
「そんな! ベッティーネ家が援助してるでしょう?」
「よそ者が俺たちの生活の面倒なんて、きちんと見てくれるわけないだろう! アルシオン、お前だってそうだ。この町を出て、町長と同じになっちまった!」
あまりの言われように、少女は愕然としている。
それでは、彼女が今までやってきたことが全て無駄になってしまうのだから。
そこで、オーレリーが口を挟んだ。心底不思議そうに腕を組み、首を傾げてみせる。
「ベッティーネ家って言ったら、当主と国王が懇意に付き合ってるって有名な家だろ?」
「……そうだが、」
「あの家の治める領地は、こう言っては何だが、他よりうまくやってると思うよ。それだけの手腕があるんだろうな」
だから何だという男たちに、彼は尋ね返す。
「ベッティーネ家の訪問はあったんだろう? どんな理由があるのかは知らないが、援助するなら当主が来てもおかしくない。そんなに現状が厳しいなら、何らかの対処はしただろうさ。確かここの葡萄酒は最上級でよく知られていたはずだし、」
「もういいわ!」
金切り声で叫んだのは、ルミエラ。