04
カータ・ベルチカは、その朝目覚めて、違和感を覚えた。
その違和感が、寝巻きや体の下に敷いてあるシーツではないことに気づくのに、しばらく時間がかかった。彼は仕事から離れると、恐ろしく行動(や思考)が鈍くなるのである。
その正体は、毎日うんざりするほど執拗に続いていた、どこまでも無遠慮に窓を叩く音が聞こえないことであった。
だから、見慣れた天井が目に入っているのに、今自分は隣町へ出張しているのだと錯覚した。
いや、そんなことはないと霞がかった頭で考える。今は特に大切なときなのだから、それは有り得ない、と。
まだ正常に機能していない脳の命令で、それでは耳栓をしていたのかと耳に手をやった。カータは神経質なところがあり、物音一つで目を覚ましてしまうのである。だが、昨日は激務のあまり、睡眠薬を呷ってそのままベッドに倒れこんだのだ。寝惚けてやったならともかく、耳栓をする暇もなければ、雨戸を閉める余裕すらなかったはずだ。
そのあまりの静けさに、カータはベッドを降りて、分厚いカーテンの引かれた窓辺に飛びついた。
何しろこの一年というもの、雑音に常に悩まされ続けたのである。もう半分、諦めてもいた。この町に住んでいる限り、耐えねばならないことなのだと。
だが今、不気味なほど寝室は静まり返っている。
彼は覚悟を決めて、カーテンに手をかける。
一気に引くと、あまりの光量に、目を瞑った。それでも瞼を透ける光に、手で影を作る。
窓は砂に洗われて、真っ白になっていたはずだが、昨日までの洪水のような雨で綺麗に磨かれていた。
光に目が慣れ、窓の外を見て、彼はまた驚く。
先ず、太陽が顔を見せていたことだ。今まで顔を布で隠していたせいか、この町で太陽を見たのは、やはり一年ぶりになるだろう。
まだ暗い空には、昨晩までの雨雲の余韻が多く残っていて、爽やかな印象からは程遠い。ただ、確実に回復に繋がっていると思うと、希望を持てた。
視線を下げてみると、嵐の残骸がいくら擦っても落ちない汚れのように、町全体にこびりついている。
これから復興が大変だ――特に農業は。既に家畜で売れるものは全て売り払ってしまったし、畑は隅から隅まで干からびてしまっている。第一、今から農業をしろと男たちに言ったところで、戻ってくるとは思えない。
仕方ないのだ。これは、計画なのだから。
彼は両手で自分の頬を叩き、気合を入れた。
彼は服を着替え、大急ぎで朝食を食べ、歯を磨き、後片付けをした。それから腕時計を見て、顔をしかめた。これでは予定の時間ぎりぎりになってしまう。
町長に与えられた部屋は――町の中心になる、集合住宅地の一画だが――、彼が所帯を持ったときのことを考えて、一人で住むには無駄に広かった。彼はまだまだ結婚するつもりはなかったが、この三階の角部屋からの眺めが気に入っていたため、引越しせずにいる。だが、馬などの足を持たない彼は、贅沢の代わりに毎日早起きをしなければならなくなった。彼は今のところ満足しているが、さすがに昨晩のような目が回るような忙しさの後、階段を上るのは辛かった。
そして今日も、ここから通勤していくわけだが、彼は今日に限って非情に慌てていた。朝、ぼうっと外を眺めていたのが原因で、大幅に時間を浪費してしまったのだ。
普段ならば、もう通勤真っ最中のはずなのだが、まだ家からも出ていない。早めの行動を信条とする彼にすれば、この事態は最悪と言えた。
しかも今日は大切な日だというのに。絶対に、遅刻はできない。
そう思いつつ、カータは玄関へ走った。扉を開けて、走り出ようとした、その時。
扉の向こう側から、誰かの手がにゅっと目の前に現れて、扉を掴んだ。彼は取っ手を掴んだまま引っ張られ、たたらを踏んで止まった。しかし、扉を無理矢理引いた誰かに、その肩を思い切り押される。
突き飛ばされた彼は、受身を取れず、派手な音を立てて尻から床に倒れる。
「誰だ!」
勢いよく打った尻をさすりながら、カータは自分を蹴った相手に怒鳴った。だが、顔を上げその相手を見て、固まってしまう。
相手は扉を閉め、こちらを振り返ったところだった。
「やぁ、久しぶりだな。カータ」
「なぜここにいる……? アルシオン!」
名を呼ばれ、少女は不敵に微笑んでみせる。彼女は牢獄にいたのに、あまり乱れた様子はなかった。服を着替え、髪を梳かした。食事も摂ったようで、顔色も良い。
「なぜ? そんなの決まっているじゃない。脱獄したからだよ」
今までになく、少女は自信に満ち溢れていた。何があったのか、少しだけ言葉遣いも変わっている。
カータはどうしてこんなことになったのか、理解できない。
少女は彼に理解してもらうつもりはないようだった。つかつかと座りこんでいるカータに歩み寄ると、おもむろに足を上げ、先程押した肩を踏む。
見上げた瞳は、どこまでも冷たい。
「お前も馬鹿な奴だ……。あんな男についていくとは。お前らの望みがどれほど愚かなことか、今から思い知らせてやる」
「お前一人に何ができる!」
これは、彼の強がりでもなんでもなかった。彼女は今まで捕まっていたわけだし、これまでも手出しできなかったのだから、今更どうこうできるわけがないのだ。
しかし、少女は彼を笑い飛ばした。
「勝手に言ってろ。それより、自分の心配をした方がいいんじゃないのか?」
「何?」
カータは体を起こそうとして、できなかった。彼の肩にある少女の足は、細いのにびくともしない。無理矢理手を退かそうとしたが、肩に張り付いているかのように動かなかった。
「どけ!」
「うるさい」
一言で切り捨てられ、カータは絶句した。この少女は本当にアルシオンなのだろうか。
「なぁ、宿屋の息子よ。お前が人に命令できる身分だと思っているのか? 言っておくが、町のみんなはお前が町長の手先だと分かっているから、頭を下げるんだぞ」
「俺は正しいことをしているだけだ!」
「正しいこと?」
繰り返した少女の呟きは、冷ややかさを通り越し、絶対零度まで下がっている。
侮蔑さえ滲ませ、少女はカータの肩に置いた足に力を込めた。
「寝言は程々にしておけよ。お前はこれから、見せ物になるんだ。それを覚悟しておけ。
――立つんだ」
ぎりぎりと肩を踏みにじってから、少女は足をどけた。カータの白いシャツには、くっきりと土で靴跡が押されている。
それを払おうとすると、今度は喉元に、白い棒のようなものを突きつけられた。
カータはまた声を荒上げようとしたが、その前に棒の正体に気づいて、動揺する。
そう、【鬼蛍】である。
だが、これはこんなところにあってはならない物だった。昨日少女から奪った後、彼自身の手で金庫にしまったはずなのだ。
その疑問に気づいたのか、少女は棒をカータの首に力を込めて当て、凄味を効かせた声で回答を述べた。
「金庫は壊させてもらったよ。ついでに、中にしまってあったもの全てな。ずいぶん溜めこんだものだ。あれでこの町は完全に復興できるな」
「泥棒めが! それはお前がどうこうできるものじゃない!」
そう怒鳴ると、あっさり少女は引き下がった。
「分かっているよ。あれはあたしの物じゃない」
ならば返せと、カータが言う前に少女が口に開いた。
「然るべき方に渡すだけだ」
その言い様では、然るべき相手が町長ではないように聞こえる。ように、ではなく、確かにそうなのだが、カータにすればそんなことは考えられない。
反論しようと口を開いたが、また遮られた。
「分かったら、行くぞ」
話は終わりだとばかりに、少女はカータに両手を挙げさせ、頭の後ろで組ませた。
カータを見たまま後ろ手で玄関の扉を開け、彼の背後に回り、少女は【鬼蛍】の尖端を彼の背中に当てる。
「さぁ、出るんだ」
背骨に当たる棒の感覚は生々しい。カータも、この棒を振り回す少女の姿を見ていた。その上で逆らうほど、彼は命知らずではない。
結果、彼は力なく少女に従うしかなかった。