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柘榴石の懸念  作者: あまめましゅう
6.木々の憂い
23/43

03

 扉があと一歩のところまできても、まだクロエは足を止めなかった。さすがに訝しく思い、オーレリーは立ち止まろうとしたが、左手の獣も足を止めない。


 引きずられる形で、扉に激突――は、しなかった。


 まるで水に手を突っこむように、するりと体が沈んだ。

 この光景には、オーレリーも言葉をなくした。遺跡でも、ここまで大掛かりな仕掛けはそうは見れない。

 そんなことを考えているうちに、自分の体も扉をくぐっていた。扉は何の抵抗もなく、まるで空気のように、するりと中に入れた。


 扉は幅も広いが、厚みもかなりだった。大股に歩いて二十歩はあるだろう。

 扉があると思われる空間は、水槽のようにゆらゆらと視界が揺れる。足取りは重くなく、クロエと獣の歩みは止まらない。それに置いていかれないようにしながら後ろを振り返ると、今までいた場所が透けて見える。灯りに照らされている草木や、その背後にそびえる森と、暗い空。左右には生垣が見え、なんとも不思議な気分である。

 首を戻して前方を見れば、出口は闇に覆われていて、その先は見えなかった。

 その闇の深さに、背筋が自然と伸びる。いい加減、終着点が見えてもいい頃だと思うのだが、これが始まりだとも思った。

 何より、【木】が彼の目的なのだから、ずいぶん遅い出発になる。

 萎えていた心が、高揚し始めた。


 もう、あと三歩、二歩――。

 扉を、抜けた。


 全身が闇に塗りこめられ、手元すら怪しくなる。まだ目が慣れていないせいだが、両隣にいるはずの、クロエと獣の姿すら見えない。

 二人に触れている手の感触だけが、頼りだった。


「着いたわよ」

「え?」

「ほら、こっちに来て」


 手を引かれるがままに、オーレリーは壁のような、何かに触らせられた。

 壁の割りに、ほんのりと暖かく、表面は滑らかで少しばかり柔らかい。

「それから、はい、これ」

 握られていない左手に、丸い物を載せられる。

 掌に余るくらいのそれは、壁と違って硬く、形もいびつだ。石ではないだろうが、これはなんだろう?


 しばらくすると、やや目が慣れてきて、クロエの顔くらいは見えるようになった。

「果物よ。お腹減ってるでしょう? ここで野宿しましょう」

 言われて、腹が極限まで空いていることを思い出した。どんな果物なのかは分からないが、ここまできて毒が盛られていることはないだろう。

 ありがたく、果物に齧りついた。


 皮が硬いのに、中身は柔らかかった。おまけに汁気たっぷりで、甘いが独特な酸味があり、歯応えもあってとても食べやすい。

 あっという間に一つ平らげると、呆れた様子のクロエがもう一つくれた。それも夢中で食べる。

 腹が減っていたことを除いても、果物は美味しかった。


 勧められるがままに座りこみ、壁に背を預けると、急激な眠気に襲われる。

 こんな風に眠るつもりはなかったのに、頭が考えることを阻止しようとする。

 冗談ではない。精霊と、特に獣の目の前で無防備に眠るなんて、話にならない。


「……クロエ!」

 薄れていく意識の中で、クロエの難しい顔が、見えた。


「これで文句ないでしょ?」

 オーレリーの意識が完全に沈んでいるかを確かめてから、クロエは獣を振り返った。

 闇に溶けていた獣は目を開き、頭を垂れて眠っているオーレリーを一瞥してから、頷く。

「万が一のことがあったら、お前は番人の任から外れ、ここから出て行ってもらう」


 クロエは剣呑な目つきのベアニクルに、うんざりした顔で分かっていると投げ遣りに言った。

「フィーラが選んだのよ。間違いがあるわけないじゃない」

「本物かどうかは、明日分かる」


 あくまで頑なな獣に、クロエは匙を投げた。どちらにしろ、明日にならなければ話は進まない。今口論しても仕方がないことだ。

 これで話は終わりとばかりに獣は背を向け、また闇に溶けていった。

 クロエも嘆息し、獣とは反対方向に向き直る。

 その背中が見えなくなる頃、一匹の蛍がふらりとオーレリーの頭上を舞った。くるくると円を描くように彼の体の周りを飛び、顔の前まで来たかと思うと、鼻の上にとまる。

 瞬きをするように、蛍は尾の光を揺らめかせた。

 滑稽な光景である。止まり木になっている本人には気づいていないし、蛍ですらその体内に持つ毒を放出するわけでもない。

 やがて、蛍は顔を半分覆っている布を見飽きたのか、気紛れに飛び立った。


 ようやくオーレリーは一人になり、彼も闇に呑まれ、全てが沈む。





 鳥が囀る声と、さわさわと頬を撫でる風に、目を覚ました。顔を上げたオーレリーが見たのは、春の楽園。

 【森】に入る前に見た、猛々しい野生の草木ではなく、柔らかな新緑が木々の木漏れ日の下で輝き、蝶が飛び交う。辺りに門は見えず、どこまでも野原が続いている。しかしおかしなことに、木は一本も生えていない。


 視界を上げてみて、息を呑んだ。

 そこには穏やかな青空が広がっているものだと思いきや、一面の木の枝が埋め尽くしている。

 またしてもオーレリーは、呆然とその景色を眺めてしまった。

 揺れる葉の隙間から、微かな陽の光が漏れ、地面に模様に描いている。左右を見ても、木の枝に切れ目はなかった。

 首が痛くなるほど仰向き、そこで、ようやく気がつく。これもまた信じがたい光景ではあったが、ここで現実逃避に走っても何の得にならない。

 首を元の位置に戻し、立ち上がる。


 彼が壁だと思っていたのは、実は途轍もなく太い幹であり、その麓で彼は眠っていたのだ。

 樹皮は灰褐色で、ところどころに亀裂はあるが、触り心地は眠る前と同じ滑らかである。木が大きければ葉も大きく、肉眼で見る限り、楕円形ではあるが三つに裂け、緑に鋸歯があった。その歯に覆い被さるように、桃色のふわふわとした毛のついた球体と、黄色の球体が所々に見える。

 ただ、手を伸ばせば届くような高さにあるわけではない。木登りでもしなければもぎ取ることはできないだろうが、木はつるりとしていて足場がないのだ。

 昨日食べさせられたのは、多分あの黄色の果実だろう。


 自分の体には嘘はつけない。それほど眠っていたと思わなかったが、光の加減からすると既に昼に近いだろう。彼は空腹だったのだ。


 ただ、強制的に眠らされたこともある。慎重に構えないといけない。

 一番良いのは、彼に果実を差し出した――これをどうやって採ったのかも謎だが――クロエに聞くことだが、彼女の姿は見えない。こちらはあまり出てこなくてもいいのだが、獣の姿も見えない。


「今頃起きたの? ずいぶんと悠長ですこと」

 声は真後ろから聞こえた。


 気配はなかったはずだった。だが、慌てて背後を見れば、そこには若い女が立っている。

 鈴が転がるような高い声だが、口調は重々しい。そこには若干疎ましさを含んでいたが、憂いのある表情が様になるほど、造作の整った女性だった。鮮やかな新緑がその双眼に輝き、とても長い睫毛が大きな瞳を縁取っている。肌はその姿勢からも頷ける、弾けんばかりの小麦色で、肩から零れ落ちる波打った深い色の金髪に併せると、太陽をまんべんなく受けた向日葵の花のようだ。そう思えるのは、彼女がいつも溌剌とした人であることがすぐに分かったからである。


「それで、どなたなのかしら。人の領域に勝手に入って高鼾をかくなんて、初めてだわ」

 機嫌が悪いのか、棘がある物言いである。


 オーレリーは彼らしからぬことだが、言葉に詰まってすぐには答えられなかった。

 なぜなら彼女の手には、彼が背負っていたはずのものが、握られていたからである。

「いつの間に」

 起きたときは背にあったのを確認していた。もし奪ったというなら、彼が背後の巨木に目を奪われていたときだろう。

 しかし、その長い得物には紐が切られている様子はない。それならば彼の上半身から抜き取ったということになるが、そのためには腕も上げなければならない。激しく無理がある。


 ふふんと彼女はこちらを嘲笑うかのように、手の中をくるくると回して遊び始めた。

「……それが何なのか、知っているのか?」

「質問をする前に、わたくしの質問に答えてもらいましょうか?」

 見た目通り、強気な気性のようである。


 彼は諦め、素直に彼女に従った。

「オーレリーだ。あなたは?」

「わたくしはルミエラよ。ではオーレリー、質問に答えなさい。なぜここにいるの?」


 その名前に、また一瞬反応が遅れる。ルミエラとは、【生命の木】の守護者の名ではなかったか。本人だと信用するなら、攫われたという話はやはりデマだったのだ。


 しかし、こんな身近にいて、町の人はともかく、なぜアルシオンは気づかなかったのだろう。

「……ここにアルシオンという女の子がいるのではないかと、」

「アルシオンがここに? 来てないわよ」


 それはなんとなく分かっていた。

 だだっ広い野原には隠れる場所はない。ただ、木の反対側にいれば別だが、それならクロエがすぐに見つけてきそうなものである。

「だからといって、ここに入ることを許した覚えはありません。もう用事は済んだでしょう。早く出てお行きなさい」

 そう言って、ルミエラと名乗る女性は、有無を言わさず手の中で弄んでいた物を彼の胸元に突き出し、真っ直ぐ左を指差した。


「その前に聞かせてほしいんだが、あなたは失踪中では?」

 そう苦言を呈すると、守護者は深いため息を吐いた。

「……そんな無駄な話を」

「無駄ではないだろう。外は大荒れだってのに、あなたは悠々とここにいらしたようだ。クーア=パチルをどうしたんだ?」


 ルミエラが、初めて表情を消し、黙った。

 その様子に、少女の姉はもうこの世にいないことが分かったが、ここぞとばかりに彼は続けた。

「彼女はあなたを攫って逃げたと疑われ、その妹であるアルシオンもそれを幇助したとの疑いを持たれ、今も町長から逃げ続けている。それを、知っていたかな?」


「……そんなことは知らんわ。わたくしには、関係などない」

 あくまでしらを切るつもりのようだが、目は逸らされたままだ。


「それでは困る。あなたが【生命の木】を司るならば。いや、その前にそんなことを言うのに、どうしてあなたはその姿をしている? 俺はその答えを聞かないと帰れない」

「フィーラを持つ者として、か?」


 オーレリーの胸元に突きつけていた手を引っ込め、ルミエラはその長い包みをゆっくりと撫でた。

 彼女が彼の思う通りの人物なら、それが何なのかも分かっているだろう。

「そうだとも。よく分かっているようじゃないか。その理解力を持って、是非説明してもらいたいね。俺は暇でここに来てるわけじゃないんだ。役目を果たして、次の場所に行かなくちゃならない」

「それならば、さっさと行くがいい!」

 もう放っておいてほしいとばかりに声を荒上げる彼女に、オーレリーも少なからず頭にきたようだった。

 今まで諭すような調子で話していたのが、鋭く一変する。


「そうとも、早く出て行きたいのは山々なんだ。だが、俺は残念なことにそんな薄情になりきれないんだ。あなただってそうだろう? ルミエラ・メイシェ!」


 彼女は、はっきりと彼の顔を見た。

 彼は目を隠しているために、引き結ばれた口元が怒っているだけが分かる。彼女はそんなものに怯んだりはしない。


 しかし、彼女のその名を知る者は、ごく少数のはずだった。


「まさか、お前が判事だというのか?」

「ご名答。これで分かったろう? あなたには俺の質問に答える義務がある」

 僅かにうろたえて見せるルミエラに、こえでようやく話が進むと思った、が。

「人間ごときに指図される謂れはない!」

 苦しい顔でどこまでも抵抗する彼女に、今度はオーレリーがため息を吐いた。相手がここまで分からず屋だとは思いもしなかったのだ。


「頑固な方だ。……言っておくが、あなたの姉妹はとても性格が良かったぞ」

「……それこそ、わたくしには関係のないことだ」

 彼女はそこまで抵抗する理由が、オーレリーには分からなかった。


 彼は彼女の名前を聞いた時から、その正体は分かっていた。

 【生命の木】そのものである。


 彼は今まで【木】をいくつも見てきたが、こんなに姿が立派で、他の【木】よりも周囲から守られているというのに、彼女は周囲を拒絶している。

 なぜだろうと内心首を傾げていると、右手から草を踏む音が聞こえた。

 視線だけを動けば、少し離れた所に、顔を強張らせたクロエが立っている。

「クロエ! 丁度良かった。この者を早く外に連れて行きなさい」

 口早に言い、ルミエラはオーレリーを指差した。その露骨さに、彼も渋い顔をした。


「……逃げるつもりか」

 小さな呟きに、彼女のこめかみがぴくりと動いた。

「今、何と言った?」

「ルミエラさま。もうやめませんか。こんな風に人を嫌っても、何もいいことなんてありません」

 精霊であるクロエにまで言われ、ルミエラは下唇を噛んで悔しそうに、二人を睨みつけた。

「人の何を信じろと言う! わたくしは、あの者たちがしたことを忘れたことはない! あんな――おぞましい!」


 おぞましい?


 クロエを見れば、こちらは青い顔で何も言えない様子だった。

 多分彼女たちが失踪したと思われるときに何かがあったのだろうが、どちらも今話しかけたところで、答えてくれそうにもない。

「そんなに訊きたいのか、若造」

 更にまた左手から、声がかかった。黒い獣――ベアニクルである。

「ベアニクル! 余計な事を言うでない!」

 金切り声でルミエラが喚声を上げたが、獣はゆったりと首を横に振った。

「ずっと考えておりました。なぜあなた様があのような仕打ちを受け、こんな風に森から一歩も出られなくなったというのに、人間には罰が下がらないのか? 自分本位で己の立場も弁えない、愚かな人間どもに、その身を持って思い知らせてやるべきではありませんかな」

 淡々とした言葉。しかしそれには、深い憎悪が渦巻いている。


「……それならば、そなたがすればいい。わたくしは、……思い出したくもない!」

 そう言って、ルミエラは口を閉ざしてしまった。だが、どこかに行ってしまおうという気はないらしい。その場に立ち、苦渋に満ちた顔をしているが、しっかりと顔を上げている。その態度に、オーレリーは小さな希望を見た。

 これなら、大丈夫かもしれない。


 おもむろに獣が口を開き、話を始めた。




 そう、それはあまりに残酷で、身の毛がよだつような、不快な話。





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