01
あなたは思ったことがある?
永遠を捨ててでも、欲しい一瞬がある、と。
濁った水と、湿気を帯びた黴の臭いがする。
頬に雫が落ちるのを感じながら、アルシオンは床に倒れこんだまま、動かなかった。
硬い石のごつごつとした突起が痛かったが、それも気にならないほど感覚が鈍っている。
少女がぼろきれのように放りだされているここは、窓もなく鉄格子で遮られただけの、暗い牢獄だった。そう、オーレリーがいたところと、同じところである。
萎えたように身動きしないその両手と両足は、やはり以前オーレリーが拘束されたときと同じ鉄の枷で固定されている。
彼女の目が覚めたときには、既にここにこの状態で転がされていたのだ。別に薬を嗅がされたわけではないが、蹴られた腹が痛くて立てなかった。
その腹を蹴った張本人はというと、先ほどから彼女の前に、何食わぬあの気に入らない笑顔で、報告しに来た。
何でも、少女の屋敷を掌握し、明日にでも町の制圧にかかるのだという。
どうもオーレリーとクロエは屋敷を出て、【誠実の砦】に向かったらしい。途中で方向転換していなければ、追いつかれて捕まっていたということだろう。
【生命の木】よりも、あの棒が大切なわけではない。ただ、あれが町長の手に渡ったままというのは、こちらの不利になることを思い出したのだ。
あの棒は、ただの棒切れでないことの証拠に、あの棒を持っているだけで【森】の通行手形となる。クロエの防波堤など素通りし、途中にある扉ですら鍵を必要としない。
なぜなら、棒の素材は【木】から出来ていて、先端に嵌っているのはザクロの実なのだから。
しかし、そうなるとこちらの行動は大体読まれていたということになる。
どこまでも人を舐めたことをする。胸中では激しくオーレリーを罵っていたが、少女は男にぴくりとも反応を示さず、虚ろな目を向けることもしなかった。
無反応な少女に、男は軽いため息を吐いた。
それから二、三ほど男は何か言っていたようだったが、少女の耳には届かない。
現と夢の間を行き来しながら、少女はうとうとと動かない体を持て余した。
こうして、どれほど経つのだろう。密閉された空間では、松明の僅かな灯りだけが頼りで、昼なのか夜なのかも分からない。
まさかここに横たわる日が来るなど、考えたこともなかった。少女はここに足を踏み入れたことがあったのである。
彼女がまだ五歳にしかならない頃である。姉に連れられ、冒険と称してこの城を毎日のように駆け回っていたのだ。
つまり少女の姉は、侯爵家の長女にしてはやんちゃだったのだ。
だから、この城の構造は知り尽くしていた。抜け道も、隠し扉も、不自然に開けられた壁の向こう側が見える穴も。
姉はなぜか、この城について博識だった。否、この町全般について、言い換えた方が良いだろう。
町一番と呼ばれた、もう今は土の下に眠る老賢人に姉は師事していたのだ。
まだ幼い日の少女は、毎日屋敷に帰ってくると目を輝かせて今日習ったことを話してくれる、姉が大好きだった。
侯爵家の娘ともあろう人が、なぜ家から出て政治学やらを習うのかというと、跡継ぎがいなかったからである。侯爵家の血を濃く受け継いでいる人は、姉妹以外いないのだ。
では、妹である少女はといえば、最初から良家へ嫁に出される予定で、産まれた時点で既に婚約者が決まっていた。
それがベッティーネ伯爵の長男である。
田舎貴族にしては大層な良縁だろう。両家の先代当主同士が仲が良く、その上で成り立った婚約だった。
少女がベッティーネ家に訪れたのは、八歳の時分である。
当時は少女も幼いながらドレスを着て、三歳年上の少年と相対したのだ。そこまでは順調だった、と言っていいだろう。
しかし、少女がベッティーネ家の財宝を見てから、全てが変わってしまった。
侯爵家とは違い、ベッティーネ家の隠し宝物庫は屋敷の中心部にあった。居間のような広さのある部屋で、優雅に飾られた宝の間を通り、それは高々と掲げられていた。
侯爵家の先代当主から友情の証だと贈られたそれは、見た目はただの白い棒で、どちらかというなら台座の方が宝のように見えるほど、宝とは思えない。
そう、【鬼蛍】である。大戦の際、聖者フルドマが所有していたことで知られている、聖具の一つだ。
聖具というのは、聖木を元に作られた道具のことをいい、これらは総じて不思議な力を持つという。
特にこの【鬼蛍】はその特徴が顕著に出る。刃は持ち主を選び、抜く者に合う形になり、その刀身には蛍が舞うという。だが、この剣に選ばれても御しきれない者は、剣に意識をのっとられてしまうのだ。
少女がこの剣に意識を支配されるのは、これで二度目になる。
最初が、その宝物庫だった。
少女はお嬢様らしく振舞っていたので、勿論宝物に触れるなどという、行儀の悪いことはしなかった。
手前まで来た少女へと、剣自身が浮かび上がったのだ。
それに触らないわけにはいかない。一緒にいた伯爵家長男や父親が掴もうとしたが、嫌がるように逃げてしまったからである。
少女は恐る恐る手を伸ばしたのだが、あっさりと掴めたことにまず驚いた。
その後、数分なのか数時間なのかはっきりしないが、記憶が飛んでいる。
次に気がついたとき、腕に深手を負った伯爵家長男が、少女の手首を握り締めていた。
部屋は見る影もなく、無惨に荒らされていた。少女はその時、酷く混乱した。部屋の隅にいた父親は、この日のために仕立てた服がぼろぼろになり、驚愕と畏怖の入り混じった奇妙な顔でこちらを見ている。何より、少年の腕から滴る真紅の血に、怯えた。
それからも、あまり周りの音が聞こえなかった。ただ、少年が自分を宥めていたのと、父親が伯爵に頭を下げ続けていたのを、よく覚えている。
伯爵家とも大家に牙を剥くなど、家を潰してくれと言っているようなものだ。それくらいのことは少女も知っていたから、しばらくして自分の立場が分かると、真っ青な顔で伯爵に謝った。謝ってどうにかなるものではないが、自分が事を起こした張本人らしいから、頭を下げたのだ。
顔面蒼白どころか、今にも死にそうな顔をしている親子に、しかし、伯爵は笑顔で許した。その代わり、少女をこの屋敷に泊まらせていけと言う。
伯爵の言うことである。父親は首を傾げながらも、あっさり帰っていった。
不思議なのは、取り残された少女も同じだった。どうして狼藉を働いた娘など、留め置くのだろう。
その疑問は、あっさりと伯爵の口から聞けた。
伯爵は少女に向かって、この家の養女になれと言ったのだ。
あまりに突然のことに、少女は言葉も出ない。だが、拒否もできない。
その答えも、晩餐の後に教えてもらうことができた。
なんでも【鬼蛍】は伯爵家に伝わる宝刀で、代々この家で持ち主を探しているのだという。これは大昔の祖先からの言い伝えで、どの時代の当主も、剣の持ち主になる人物を探していた。しかし、今までこの剣を抜けた人物は、数人しかいないという。それにどうしたことか、剣を渡してもその人の死後には、伯爵家に戻ってくるらしい。
少女はそれを、時間をかけて飲みこんでいった。飲みこまざるをえなかった。
両親がその事件を境に、態度を変えたからだ。
別れの挨拶に戻った少女を、嫌悪の目で見て、さっさと出て行けとばかりに荷物を叩きつけ――、家から追い出したのだ。
少女はまた混乱した。伯爵から説明の手紙は先に届き、了解したという手紙も送り返されていたはずなのに。