07
もうこの【森】に入って、どのくらい経つだろう。
精霊は全力で走ったりせず、しかし休憩をいれたりしないで、ひたすら先に進んだ。
なぜ徒歩なのかと聞けば、この【森】は【木】への道のりを、魔法などで補助的な誤魔化しができないような仕組みになっているからだと言った。そして、先は長いのだから、一気に消耗してはならないとも。
それにしても、この迷路には果てがないのではないかと危ぶむほど、広かった。ただひたすら足を運ぶしかない。
唯一の救いは、迷路の上空には雨雲がないことだ。もう五日ぶりに目にする、晴々とした雲一つない青空が広がっていた。
それでも、日暮れがすぐに彼らに追いついてくる。空が群青に染まりだす頃には、クロエも焦ってきたらしく、少し駆け足気味になった。
灯りも枯れ木を拾い火を付けるしかないから、早く【木】に着かないといけないらしい。
なぜなら、この【森】にも、野生の獣は数多く生息していて、しかも人間の連れがいるから、襲われる危険が高いらしい。どうしてか、【木】の近くであれば、その危険性はずいぶん減るという。
そんなわけで、もう日が沈みきった頃、二人は最後の難関に差しかかろうとしていた。迷路の出口は入り口と同じで、扉によって塞がれている。
生垣よりも高い小山のような扉には、幾重にも鎖がかけられ、人の大きさと同じくらいの錠がかかっていた。それでも全貌がよく見えるのは、扉の頂上につけられたランプのお陰である。これは、魔法で作られたもののようだった。
「それで、どうすればいいんだ?」
さすがにうんざりしたのか、オーレリーは巨大な扉を見上げながら、同じく隣にいるクロエに尋ねた。
「そうね。私が扉を開けるから、あなたにはお客さんを相手にしていてほしいわね」
「了解」
短く返事をして、オーレリーはくるりと身を反転させた。光の届かない暗闇からは、『お客さん』の唸り声――それも複数が聞こえてきている。
オーレリーは未だ素手のまま、一歩進み出た。
「さぁ、かかってこい!」
威勢のいい大声を合図に、暗闇から一斉に黒い影が躍り出た。
その土を蹴る音を耳にしてから、クロエは両手を胸の前で組んで、久しく唱えなかった呪文の詠唱を始めた。獣の悲鳴や重いものが地面に叩きつけられる音を無視して、――組んだ手の前に、光が生まれた。
開いた手の中には小さな鍵があり、クロエがそれを掴もうとした、そのときだった。
「避けろ!」
オーレリーの叫び声に振り返ると、目前に獣の鉤爪が迫っていた。それでも、クロエは慌てもせずに、獣の足を手で軽く撥ね退けてしまう。どう見ても、彼女よりも獣のほうが体が大きく、且つ普通の女性の手であったにも関わらず、だ。
黒い影が鮮やかな弧を描いて、着地する。その獣が頭を上げ、背を伸ばした姿はまるで豹にも見えたが、その額には第三の目が開いている。しかしその立ち姿は、惚れ惚れするほど柔軟で、漆黒の毛並みは上等な天鵞絨のごとく煌いている。体格もオーレリーが片づけてしまった他の獣より、一回りは大きく、貫禄があった。
「何のつもり? ベアニクル」
クロエは蚊を払った程度にしか考えていないらしく、目を丸くして獣を見た。
「それはこちらの台詞だ、クロエ・グリシャ。どうしてここに人間を連れてきた」
鋭い牙が覗く口が、人の言葉を紡ぎ始めたのに、オーレリーは驚きを隠せなかった。やはりここは、別世界なのだろうか。
答えによってはただではおかないとばかりに、豹のような生き物は物騒な唸りを上げる。
しかし、クロエは首を竦めただけだった。
「とんでもない。彼は教会の人よ。巡回に来たのに通してあげなくちゃ、まずいじゃない」
「人間なんて、信じられるものか!」
こちらは身も蓋もなく、切り捨てる。
それでも彼女は、あまり深刻な顔をせずに、仕方ないわねと言った。
「オーレリー。フィーラを見せてちょうだい」
その名を聞いた途端、獣は全身の毛を逆立てて、一歩退いた。
オーレリーはクロエの言葉に、またしてものけぞるところだった。彼は彼女に、背中の物を見せたことがないはずだ。
「フィーラだと……? まさか、その背中の物が?」
「はったりなんかじゃないわよ」
不敵に腰に手を当て、クロエは我がことのように胸を張った。
「あなたが感じられないのも仕方ないことだわ。このフィーラは眠りについているもの。でも、こうすれば」
そう言って、素早くオーレリーに近寄ると、背中の物に手を翳した。
オーレリーが身を引く隙を与えず、腕をしっかりを捕まえて、クロエはにっこりと獣に微笑んでみせる。
「ほらね」
布に巻かれたそれが、突然中から激しく発光し始めたのだ。
獣は唸るのを止め、それを食い入るように見つめていたが、ようやく大きく息を吐いた。
「……好きにすればいい。但し、一緒に行くぞ。それが決まりだからな」
獣は嫌々ながら言ったのだが、クロエはその返事に大喜びした。
「勿論よ! 早く行きましょ」
足取りも軽くなり、彼女は先ほどから放置していた鍵を手に取った。
オーレリーにはどういうことか分からないが、中にやっと入れるらしい。気絶している獣の体を跨いで、彼も扉の前に立った。
すると、隣にベアニクルというらしい獣が並んだ。大きいとは思っていたが、顔が同じ目の高さにあり、豊かな毛皮の下に隠れた、強靭でしなやかな筋肉に、目を瞠る。こんな巨体を片手で払うなど、間違ってでもできないだろう。
獣は顔を扉に向けたまま、こちらを流し目でじろじろと観察している。
「何か?」
尋ねると、ぷいと顔を背けてしまった。
気に入らないが、仕方なく付き合ってやるとさも言いたげである。
オーレリーは顔を引き攣らせて、今度はクロエを見る。こちらは、また呪文の詠唱に入っていた。先ほどと同じく、両手を胸の前で組み、その手で鍵を持っている。呪文は長くなかった。だが、人間の言葉ではないらしく、発音は聞き取れない。初めて聞く高く澄んだ音が、体に染みこんでいく。
呪文というより、それは短い歌のようだった。
呪文が終わる頃には、手の中の鍵が輝き始めている。
しかし、鍵穴は頭上の遥か高いところにあるのだ。どうするのだろうと思っていると、いきなりクロエがこちらに真顔で向き直り、彼の腕を掴んだ。
「早く!」
「え?」
「ベアニクルに触って! この扉は、鍵を持つ者しか通さないのよ! 私に触っていれば大丈夫だから、早く!」
真剣に急かされたが、オーレリーは珍しく、少し逡巡した。
勿論、この隣にいる獣のどこに触れるかにだ。獣の毛皮は触れることすら躊躇わせる逸品だが、そういうことではない。
手を出せば噛みつきそうなこの獣の、どこに触れば安全かということに、だった。
尻尾は多分、一撃で昏倒させられるだろう。顔は……あまり考えたくない。
だが、迷っている暇がないのにも事実である。腕がなくならないことを祈って、獣の背に手を当てた。
予想外に、獣は無抵抗だった。
ちらりと嫌そうな目を向けられたが、すぐに逸らされてしまう。
準備はいいかとクロエに訊かれ、オーレリーは頷いた。
「行くわよ。ついてきなさい」
重々しく言うクロエの足は、扉に向かう。
この先にいるはずのアルシオンを思い――、一度くらい殴ってやらなければ割に合わないと、今更ながら気がついた。