02
今度はナイフの洗礼はなく、迷わず酒場に向かう。
「お前さん、どっから来た」
薄汚れた扉をくぐると、薄暗い店内の奥に禿頭の男がいた。カウンターの中にいると言うことは、この店の店主ということだろう。しかし、片手に持っているのは酒瓶だし、コップになみなみと入っているのは琥珀色の液体である。
「ここはずいぶん流行っていないんだな」
男の声を無視して、彼は独り言のように呟くと、被っていた布を肩に落とした。
声は紛れもなく青年の声なのだが、布から流れ落ちたのは純白の長い巻き毛だった。それだけならともかく、目が見えないのか、これまた白い布でぐるぐる巻きに目隠しをしている。顔は小さめで、鼻も口も整った形なので、男か女か見分けが付かない。
「余計なお世話だ。出す物なんてないから、とっとと帰れ」
奇妙な客に店主は機嫌悪く言い放つと、一口コップの液体を口に含ませる。かなり前から飲んでいるようで、その肉厚な顔は真っ赤だった。
「まぁそう言いなさんな」
彼は少し口の端を上げて、カウンターに近寄る。
「前に来たときはもっと活気のある町だったと思うけど、何があったんだい?」
「知らないのか」
彼が以前にもこの町に来たことがあることを聞いて、口が緩んだのだろう。店主は愚痴りたい気分になったらしい。
「この町がこうなったのは、この一年の間のことだ」
店主は吐き捨てるように唸った。
「一年前までは、ここはこんな風に砂嵐が吹き荒れることはなかった。もう、この砂嵐は一年近く続いていてなぁ、もう食料がねぇんだよ」
彼は窓の外を見ながら、水は、と尋ねた。
「水は大丈夫なのか?」
「元から家の中に井戸があるからな」
それは便利なことだと思っていると、店主はまた酒を呷って、
「この町は緑も水も豊かだった……。だから、シシロと呼ばれているのさ」
シシロというのは、豊潤な、という意味がある。
「何でこんなことに?」
「【生命の木】の守護者が消えたからだ」
「いのちのき?」
聞き慣れない名前に青年が首を傾げると、店主は身を乗り出すようにようにして、説明を始めた。
「そうさ、この町の外れまで行けば、南の森に入る。森の中心に立っている巨木が【生命の木】だ。この木のおかげでシシロがあったんだからな」
「どういうことだ?」
「あの木があるから、今までこの町は酷い天災に襲われることなく、平和にやってこられたんだ。隣の国からの攻撃も、ここには及ばないしな」
他の被災地と比べたら、とんでもない話である。
「守護者はいなくなったら、また新しい守護者が現れるんじゃないのか?」
「今まで守護者の世代交代なんて、一度もなかったんだよ」
「守護者がいないと、何か不都合なことがあるのか?」
何気なくするっと出たこの言葉が、店主の逆鱗に触れたらしい。
「ああ! だからこそ俺らはこんな風に家に閉じこもっていなきゃならない! これ以上聞きたいことがないなら、帰れ!」
怒鳴り声に叩き出される形で、青年はまた砂塵の吹き荒れる大通りに立っていた。慌てて布を被り直したせいか、髪が一房零れ落ちている。
「横暴な爺さんだったろ」
声に後ろを振り返れば、青年より頭一つ分は背が低い、小太りの男が立っていた。やはり砂よけか、頭からフードを被ってマントをしっかり着込んでいる。更にマスクで目から下を覆っているためか、目だけが強調されて見えていた。三白眼のぎょろりとした上目遣いで青年を見つめる。
「どちらさま?」
突然後ろに立たれ、声をかけられたことなど、青年は気にもしない。
「いや、あんたが酒場に入っていくところを見てね。こんなところではなんだから、うちに来ないかい?」
何せ暴風の中会話しているのである。青年もさすがに辟易したらしく、一も二もなく頷いた。
男の家は町の中心部に固まって連立されている、集合住宅のうち一階の一室だった。年季の入って薄汚れた扉の向こうでは、所狭しと物が積まれていて、埃っぽい上に歩くべき通路もない。
仕方なく物を跨ぎ、時には足で物を押しのけて、どうしようもないときは本を踏みつけながら進んだ。
マントを脱いだ男は、いかにも狡そうな小男だった。刈りあげた頭には所々白髪が混じり、黒く日焼けした丸顔には至る所に傷が走っている。外では雑音にかき消されて分からなかったが、声が猫撫で声で気持ちが悪い。
男は一番奥にあるくすんだ緑色のソファに一人くつろいだ様子で座ると、青年にはそこら辺に座ってくれと、辺りに積まれている本を指差した。
青年は周りを見渡して、逡巡してから、すぐ横に積まれていた本の上に薄く積もった埃を払い、座った。
「こんなところに何をしに来たんだ? こんな国境には戦争しかないんだぞ、ぼっちゃん」
「それこそ余計なお世話というものだよ、おっさん」
尻の下がゆらゆらと危なげに揺れるのを、どうにかやり過ごしながら、青年はそれより、と言った。
「こっちが聞きたい。俺に何の用だ?」
「こんな辺境にくる奴の狙いは、一つしかないだろう? 今なら安くしておくぜ」
青年はしたり顔で怪しげな物言いをする男に、話にならないとばかりに肩を竦めた。
「馬鹿かい、あんたは。金なんて俺は持ち合わせてないよ。俺はこの町が、どうしてこんな風になったのかが知りたいだけだ。
――守護者がいないと、何がいけない?」
「それをどうして俺が話さないといけないんだ? 見返りもないのに?」
男は青年が客ではないことにようやく気づくと、途端に興味をなくしてぞんざいに言い放った。
「教えてくれれば、この砂嵐を止められるかもしれない、と言ったら?」
青年は勿論、大真面目に言った。
が、相手も勿論笑い飛ばした。
「お前こそ、寝言を言うのもほどほどにしろよ! お前なんか家に入れるんじゃなかった、出てけ!」
「まぁまぁ」
二度目の雷に慣れてきたのか、青年は少し笑顔になった。そして、今度は居直った彼の方が、さらりと言った。
「こんなことが冗談で言えないだろ。まぁ、暇潰しだと思って話してくれないか?」
「誰が暇だって? さっさと出て行け!」
自分から呼んでおいて、身勝手もいいところだ。
だが、青年は何も言わずにその部屋を出た。
また嵐の中に放り出された青年は、当てもなく町をさ迷うように歩く。
路地裏に差し掛かった辺りで、青年は立ち止まった。どの家も厳重に閉め切られて、扉すら叩けない。
「そろそろ出てきてほしいんだけどなぁ……」