05
北にある城では、ちょっとした混乱が起こっていた。
まず、アルシオンが一人でゴドフリーを仕留め、そのまま北上しているという報告が入った。
そのすぐ後に、旅の男と精霊が【誠実の砦】に現れ、追っ手を逃れて【森】の中に消えたという報せが入ったのである。
どちらを先に追いかけるべきか、意見が分かれたのだ。
【森】に入る鍵になる少女を捕らえるべきだという者と、がら空きになった侯爵宅を占拠すべきだという者とにである。
それは居残り組も考えて、人員を二手に分けられるほど、この城には人手が足りなかった。
町長は代表で報告に来たカータの話を聞いて、いつにない俊敏で立ち上がった。
「娘を捕まえろ。それからでも屋敷を押さえることはできるからな。こちらに向かっているなら、話は早いだろう」
カータはその返事に、まだ硬い顔つきだった。
「しかし、あの娘を捕らえられる者がおりません。魔法も効かなければ、すばしこさは群を抜いています」
「スタンリーがいるだろう」
彼はじろりと睨まれて、首を竦めた。
スタンリーとはゴドフリーの双子の兄にあたる。ゴドフリーが殺害される現場を目撃し、報告したのも彼だった。
「あれは今、私たちの手に負えません。生け捕りにしろと言っても無理でしょう」
「ほう、いつからあれは、弟思いになったんだね」
カータは悄然と首を横に振った。
「そうではありません。どうも――喜んでいるようなのです」
そう、カータが本人から報告を聞いたとき、舌なめずりをして、言葉の端々に貴職を滲ませていた。
爛々と輝かせる瞳は、好敵手を見つけた獣のような獰猛さを隠しもしない。
そんな男が、少女を受け渡すとは思わなかった。
「お前が寸前で止めればいい」
さらりと流され、カータは違和感を覚えた。町長はいつも、無理は言わない。その人の能力に応じて、確実な指示をする。
それなのに、今、その法則が打ち破られようとしていた。
カータにあの男を止められるかといえば、答えは不可能である。なんと言っても、実力差がありすぎる。カータも一応学生の時代、実力試験では上位だったが、相手は傭兵として、数多くの武勇伝を持つ人物である。
「では……!アルマ殿をお借りします!」
「いいだろう。だが、すぐに済ませように。あの男と精霊が戻ってきたら、手が出せないからな」
そこで話を打ち切るとばかりに、町長は椅子に座り直して、背を向けてしまった。
カータは全身に疲労を感じながら、物言わぬ町長の椅子の前で立ち尽くした。しかし、ぐずぐずしている暇はないと思い返す。
「では、行って参ります」
返事はない。益々困惑しながらも一礼だけして、カータは部屋を出た。
町長は彼の足音が十分に遠ざかったのを確認してから、立ち上がる。
町長にはカータの心配が理解できなかった。【森】の番人であるザクロの精霊を捕まえることができて、魔法が効かないだけのただのすばしこい小娘に、ここまで手間取ることが不思議でならなかったのだ。
あの少女に、一人でできることなどない。だから、あんな得体の知れない旅の男を雇ったのだ。
ただし、精霊と旅の男の行動は意外だった。少女を追わず、なぜ【森】へ行ったのだろう。
彼の座っている椅子は、革張りの重量感あるものだが、町長は今、その椅子に手をかけようとしていた。
恐らくここに引っ越してきたときから、ずっとこの場所にあると思われるそれを、彼は動かそうとしているのである。
町長は中肉中背で、特に体を鍛えているようでもないし、その面長な顔からは思慮深さが窺える。そんな人が、よっこいしょとばかりにこんな大きな荷物を一人で動かそうなど思っているのだとしたら、ずいぶん滑稽な図になるだろう。
しかし、町長はそれを実行した。軽く背もたれを掴んで、机と平行に引く。
すると、いとも簡単に滑らかな動きで椅子がずれた。その下に、人が一人入れるくらいの大きさがある引き戸が現れる。
町長はその引き戸を開いた。中には木でできた梯子がかけられていて、暗い底は見えない。
その中に滑り込み、完全に体が床に埋まると、手を伸ばして動かした椅子の脚を掴んだ。そしてまた先ほどと同じ要領で椅子を元の位置に戻し、引き戸を閉める。
後は、長く続く穴を降りるだけである。
町長の執務室が、なぜ中二階という中途半端な位置にあるかは、この深い穴が全てを物語っている。執務室は城の崩れているぎりぎりの所に位置している。執務室の真下には、部屋はない。瓦礫で埋まってしまっているからだ。
誰もがこんな部屋を執務室にするのに反対したが、町長の独断で押し切ったのである。
彼は知っていたのだ。部屋に秘密の通路があることも、その先に何があるのかも。
長いこと密封されていた空気は、幾分黴臭い。縦穴は石を積み上げて作られていたが、大分老朽化しているせいで、所々が脆くなっていた。壁を苔が覆っている。
そうして底に辿りついた町長は、手探りで壁を探った。固い感触がすぐに見つかり、両手で押し開ける。
中から、光がこぼれた。
そこは広くはないが、物置のようで所狭しと棚やら箱が置かれていた。窓があるわけでもないのにこの部屋が明るいのは、天井の中心にぶら下がった燭台に、灯りがともされているからである。
ただし、蝋燭の灯りではなく、白々としたよく見る魔法で作られた灯りだった。この灯りは、町長が見つけたときからこうで、それからずっと消えていない。
だから、町長はこの部屋を「とこしえの間」と呼んでいた。
町長は慎重に物と物の間を進む。下手に進めば怪我では済まないことを、彼は知っていた。というのは、全て魔法の道具であるからだ。
ザクロの精霊を捕まえた道具も、拘置するための罠も、ここから彼が探し出したのである。
町長はいつもより足早に、一番奥にある、一際大きな黒い戸棚の奥に立った。その材質はよく分からないもので、金属のようだが手触りは木のように滑らかだ。
その扉を開けて、町長は固まった。
中には真っ青な布が敷かれ、中央に台座がある。両手で捧げ持つような形のそれに、本来あるべきものが載って――いなかった。
一瞬だけ固まった町長は、ざーっと血の気が引く音を聞いた。
こんなことは、有り得ない。
だが、見間違いでない証拠に、台座に触れても何もないし、台座周辺にも探しているものの痕跡はなかった。
それでは、この中にあったものは、どこに行ったのだろう?
今度は町長が、青い顔で立ち尽くす番だった。頭の中は高速で回転しようとしていたが、あまり上手く答えを見つけだせない。
「町長ともあろう人が、そんなことでいいんですかねぇ」
突然、後ろからかかった声に、ぎょっとした。ここにいるのは自分だけのはずで、誰もここに入りこめるはずがないのに。
慌てて身構えながら振り返って、更に目を剥いた。
「なぜお前がここにいる! スタンリー!」
咎めるそれは、悲鳴に近かった。
スタンリーと呼ばれた男は、壁に沿って置かれた、少し背の高い棚の上で悠々と座っていた。
二十代前半の端正な顔をした男である。鋼のような張りのある長身で、上着から爪先まで黒一色にまとめていた。何より目についたのは、短く刈りこんだ淡い金髪と、頬から首にかけて一直線に引かれた傷である。
男は皮肉な顔で、雇い主を見やった。彼は町長の怒りなど、気にもしない。
「もしかして、これをお探しですかな?」
そう言って、男は体の後ろから一本の棒を取り上げる。
それを見て、町長は冷たい汗が背に流れるのを感じた。
スタンリーが持っているものこそ、町長がさっきまで必死に探していたものだったのだ。
それはよく見れば、棒ではなく剣だということが分かる代物だった。表面は白く、鞘と柄の境目が曖昧で、紐を結びつけているところまでが鞘であり、先端には深紅の宝石が嵌っている。装飾はそれだけで、柄などはただの棒に等しい。
実戦的にも外観的にも、台座に据えるような品物には見えなかった。
スタンリーは無造作に片手で持ち、時折くるくると手の中で回してみせる。その度、ひやりとしたものを感じた。
「それを返せ」
「なぁ、この一大事にどうしてこんなものを取りに来たんだ? こいつは主人の命令しか聞かないはずだろ?」
明らかにその剣が、何かを知っているかのような口ぶりである。
「ふざけるな。それの主人は俺だ! 早く返せ!」
「そうかな?」
とうとう怒鳴った町長に、彼は少しだけ楽しそうな顔をして見せた。
「まさか。あんたが使えるわけないだろうが。経験すらないくせに、よく言うよ」
「何を……!」
「これは【鬼蛍】だ。あんたにこれは抜けもしないし、抜き身のこれで紙一枚切ることもできるわけがない。
で、これは誰の物なんだ?」
「……」
町長は歯を食いしばり、答えない。
「まぁ、目星はついてるけどな。あんたもいい加減、悪い奴だと思っていたけど、こんなものを泥棒するほど、腰抜けだとは思わなかったね。
白状しろよ。これはあの女の子の物なんだろ」
「それがどうした」
とうとう開き直ったらしい。
「あの娘には不相応だから、俺が預かっているんだ。それが、どうした」
スタンリーは呆れたように町長を見て、ため息を吐いた。こんな奴に雇われている自分が、少しだけ情けなくなったのだ。
「そんなことより、どうやってここに入った? 入り口はあそこしかないはずだ!」
そう言って、町長は扉を指差した。彼にとって、こんなことはあってはならなかったのだ。つけられれば分かるはずだし、縦穴の入り口も、町長自身で塞いでいたのだ。誰も侵入できないはずだった。
しかし、スタンリーは軽く鼻で笑い飛ばした。
「入り口があれば、出口もあるに決まってるだろう」
「何?」
スタンリーは軽やかに床に飛び降り、今まで座っていた棚の戸を開けた。中は空で、彼は奥に身を乗り出して、角を探る。
すると、ぱこんと間の抜けた音がして、奥の板が外れた。
そこに隠されていたのは、四角にくりぬかれた抜け道だった。
唖然とする町長を尻目に、スタンリーはすぐ元通りに棚を閉めてしまう。
「まさか……」
なんとか口からついて出たのは、それだけだった。なぜ彼がこの道を知っているのか、分からない。彼は一週間ほど前に彼の弟に初めて連れてこられた助っ人で、この町どころか城のことなどあまり知らないはずなのだ。
「取引をしないか」
からかうような声で、現実に引き戻される。
「取引だと……?」
「そうだ。俺はあんたの目論見なんて関係ないが、場合によっては協力してやろうと思ってね」
怪しいと思った。しかし、鍵となる剣は奪われ、この男は期待していた即戦力でもあった。
「……いいだろう」
その返事を予測していたのだろう。スタンリーは、にやりと意地の悪い笑顔で頷いた。
心なし頭痛がしてきたようだ。
それでも町長は、しっかりと彼を見据えた。
「それで、何が望みだ?」
笑みを一層深くした彼の望みは、町長にとって意外なことだった。