03
今も昔も特に変わらない気がするのは、どうしてだろう。
視界を額から流れてくる雨が遮り、その度に拭うがキリがない。そう、これまでと同じように、キリがない。
追っ手をいつものように撒いて、アルシオンは町中を壁に這うように進んでいた。
灰色の布を頭から被っているため、濡れた布が肌に張り付き、冷たいし、動きにくい。
だが、この灰色の町と同化するには、どうしてもこれが必要だった。こんなに背が低いのに、赤という色は遠くからも見つけられてしまう。いっそのこと、真っ黒に染めてしまおうか。
いいやそれより、と未だ晴れ間を見せない空を見上げる。
この地に埋もれてしまえばいい。
自嘲して、進める歩を早めた。
下らないことを考えるのは、今じゃなくて良い。今はまだ、やることがあるのだから。
だから、早く、早く辿りつかなくてはならない。誰よりも、あたしが先に着かなくては。
しかし、目的地まではまだまだ遠い。そして、誰にも気づかれるわけにはいかなかった。
置いてきてしまったオーレリーには、少しだけ悪いことをしたと思う。あの男にはずいぶん町長を引っかきまわしてもらったのに、ここまできて除け者にしてしまった。
もういなくなったことに気づいてしまっただろうか。怒っているところなんて見たことがないが、さぞ怒っていることだろう。
そこで、頭上から声が降ってきた。
「お嬢ちゃん、どこに行くんだい?」
声は雨音に邪魔されることなく、すんなりと聞こえた。
少女はばっと壁から身を離し、頭上を見上げる。
雨が顔を叩くが、全く気にならない様子で大きく瞳を更に大きく見開き、それを凝視した。
少女が張り付いていた家の二階の窓から、にたりとした嫌な笑みを浮かべた男が腕を窓枠のところで組み、こちらを見下ろしている。
彼女はその憎らしい顔に、見覚えがあった。
「……ゴドフリー! いつこの町に戻ってきた! いや、あたしの前に金輪際顔を出すなと言ったのを、忘れたのか!」
「忘れたね」
激昂する少女に、ゴドフリーと呼ばれた男は、笑顔を崩さず火に油を注ぐ。
「ふざけたことを言う前に、降りてこないか!」
それに男は口を尖らせて、やおらこう言ったものだ。
「今は雨が降ってるだろ? 一張羅が濡れちゃうじゃないか」
これが少女の限界だった。素早く懐からナイフを取り出し、間髪いれずに男に向かって投げつけた。
ナイフ投げは彼女の得意とするところで、力一杯投げると壁を突き破る。馬鹿力というわけではないのだが、本人によれば修行の賜物だそうである。怒りで我を忘れた今でも、その威力は衰えない。
ナイフが鋭く空を切る音――。
その後は、男の眉間にナイフが深々と突き刺さっている、はずだった。
「お嬢ちゃん、こんな危ないもの人に投げつけちゃ駄目じゃないか」
刃は男の目の前で停止していた。男は人差し指と中指に挟むようにしてナイフを止めたのだ。
何事もなかったようにからかう男に、少女は舌打ちしてくるりと背を向け、走り出した。
「おおい、話の途中で酷いじゃないか! 逃げないでくれよ!」
男の笑い混じりの声が背を追いかけるが、少女は無視した。彼女は男の得物が分かっていたのだ。それは――。
はっと息を詰め、上体を崩さないように、少女は横に跳んだ。
少女が蹴った地面を、追うように何かが弾く。
立ち止まって、後ろを振り返る。
今しがた男が顔を出していた家の真下に、服から軍靴まで真っ赤に染め抜いた、奇天烈な身なりの男がいた。
ゴドフリーである。
身につけているもので赤でないものと言ったら、羽織ったマントを留める金具が金色なのと、僅かに袖口から覗くぴらぴらしたシャツらしきものが白いだけで、あとは赤で塗り潰されている。こんな服を着る職業はない。本人の趣味であることは一目瞭然である。
問題は、その手にある物だ。
両端に重りの付いた、長い鎖である。勿論それには魔法がかけられていて、男の思うがまま、自由自在に動かすことができるのだ。ただしこれはただ単に、人を捕らえるものではない。鎖の外側にはびっちりと小さな鋸の歯のようなものが並んでいて、これに触れるだけで指が切れる。こんなものを振り回し、挙句捕まってしまえば、肉に刃が食い込んで、相当な傷を負うことになる。暴れれば掻き傷になって、治りが遅くなるという凶悪な代物だ。
こんな武器を愛用する、この男の変態ぶりがよく分かる。
いくら派手でも顔は十人並みなので、少女はこの男をいつも鎖男と呼んでいたが、今もその悪癖は変わらないらしい。
「雨に濡れるのが嫌だったんじゃなかったのか」
「そっちこそ、自分で降りてきてと言ったくせに、逃げるとはどういうことだい」
少女は黙って男との間合いをとる。
実は、普段の調子で口が滑ったのだった。
少女は今、ナイフと針くらいしか持っていない。さすがにそれだけで太刀打ちできる相手ではないのだ。
男はじりじりと後退する少女を呆れた顔で見ていたが、不意に皮肉な笑みを浮かべた。少女もそれを見て、雨ではない冷たいものが、額から流れるのを感じた。
「そうだったな。お前は今、丸腰だもんな! あれを取り返しに行こうとしてたのか? お姫様はおうちでじっとしていればいいものを、家来は今頃大慌てだろう。
可哀想に」
最後の一言に、また頭に血が上った。これが挑発だということは分かっていた。怒鳴りこそしなかったが、静かに体の左側を後ろにそらした。靴の下に砂利を踏みしめ、男の隙を窺う。
男も少女の戦闘体勢に気づいた。皮の手袋をした手で、細い鎖を頭の上で振り回し始める。
びゅんびゅんと唸りをあげる鎖をどうにか動きを封じれば、勝算はあるかもしれない。それには、どうすればいい?
先に仕掛けてきたのは男の方である。振り回していた鎖を、一直線に少女へと投げつけた。
少女の頭を狙ったそれを、軽く頭をずらすことで避けたが、それだけで終わるはずがない。
そのまま地面に落ちるかと思われた重りは、少女が避けるとすぐに方向転換した。
勿論そんなことは少女も了解済みで、すぐさま横跳びに避けると、身を低くして男へ向かっていった。
「馬鹿め!」
男は余裕の笑みを湛え、間近に迫る少女に向かって、もう片方の重りを少女に投げつけた。
直撃は免れないと思われた。鎖が少女に届く寸前までは。
男が勝利を確信したその時、少女の姿が目前で掻き消えた。
「なっ……!」
驚きの声と同時に、両肩を軽く押された――そう、男は思った。
鎖は少女を追い、真っ直ぐに男へと突撃する。
一瞬頭の中は真っ白になり、目の前は赤く染まった。
「ま、待てっ……!」
制止の声は、届かない。
容赦なく重りは男の鳩尾を容易く突き破り、背中まで貫通した。鎖は体に刃をめりこませて絞めあげる。
一連のことに、頭が追いつかなかったのだろう。男がようやく魔法解除したのは、彼が膝をついてからだった。
「こんな簡単にやられるとはね。ずいぶん腕が落ちたんだな、ゴドフリー」
背後からかけられた冷たい声音に振り返れば、少女が底冷えのする瞳で見下ろしていた。
少女は重りが鼻先に届く寸前で、大きく跳躍したのだ。そして男の頭上を飛び越える際に、彼の両肩に手を置き、逆立ちの体勢をとった後、背後に着地したのである。
彼女は鎖にこと細かい手順を下していない限り、鎖は障害物など気にせず目標に突進するだろうと踏んだのだ。
それでも鎖が男を避けて少女を追うなら、別の手段をとらねばならないと考えていた。
しかしあまりにも簡単に終わってしまったので、少女は半分呆れている。ここまであっさり決着がついてしまうなど、さすがに想像だにしていなかったのだ。
一年前の強敵は、虚栄心の塊でしかなくなってしまったようだ。そんな男に、少女はこれ以上構っていられなかった。
「一時の快楽に身を任せて、鍛錬を怠るからだ。じゃあ、あたしは先を急ぐから」
恐らく急所を突かれたのだろう。声を出そうにも、血しか吐き出せないゴドフリーは、怒りの形相で強張った手を少女に向けた。
少女はちらりと一瞥したが、男の横を素通りする。
少女は頬に飛び散った血を手で払い、先ほどまでとは打って変わって全速力で駆け出した。
ゴドフリーに見つかった以上、こそこそ行動することなど意味がないからだ。
その代わり、進路を変更した。東ではなく、北へと。
残された赤い血溜まりと、時々喉を詰まらせた唸り声を、雨が覆っていく。
一連のことを、少し離れた民家から覗き見をしていた者がいる。彼はこちらに手を伸ばしてくるゴドフリーを無視して、駆けていった少女の後姿に目を眇める。
そして小さく笑うと、家の奥へと消えた。
やっとまとも?な戦闘シーン。
これからずっとこんな感じです。