02
少しずつ歯車が狂い始めていることに気づいているのは、ごく僅かである。静かに振り下ろされた鉄槌は、ゆるゆるとその様相を露呈し始めている。
今にも地滑りが起きそうな弛んだ地盤は、追い打ちをかけるように雨が押し流そうとしていた。
これを食い止めることができるかどうかは、誰もまだ、分からない。
墓地は番人が死んだ後、誰も手入れをしなかったために砂にまみれて、今では雨が泥を流している。
未だ降り頻る雨には、最初のような勢いはない。詰まらない延長戦の如く、惰性のまま流れ落ちるばかりである。
その真ん中で、彼女は立っていた。
幽霊の彼女は雨に打たれることなく、目の前の墓石を見つめている。
彼女の意識は今、恨みと悲しみしかなかった。光る両目を閉じると、悲しみにくれた生きた女性にしか見えない。
彼女はようやく目を開けると、墓石の表面をなぞるように手を這わせ、腕を落とした。すると、みるみるうちに憤怒の形相になり、消えていってしまう。
彼女の見ていた墓石には、こう記されていた。
イシュメル・クィリア
1274-1302
幾分か雲の色が薄くなってきた午後、オーレリーは屋敷に戻ってきていた。別段こそこそする必要などないのだろうが、監視の目も気にして、一応裏手から入った。クロエの結界は便利なことに、指定した人以外は弾く仕組みになっているという。これにはオーレリーも脱帽した。今の研究では、まだそんなことができる域には達していない。
最初ここに来たときから、この屋敷は外の雨の音しか聞こえなかった。雨が少しずつ弱まるにつれ、この屋敷をどれほど静寂が支配しているかが分かってしまう。
クロエは一階の居間で寛いでいて、アルシオンは部屋でまだ寝ていると言った。
話すなら全員集まってからの方がいい。少女を呼びに行く役は、オーレリーが買って出た。
少女の部屋は、屋敷の中でも三階の一番奥まった所にあった。オーレリーは少しだけしか覗いていないのだが、彼が通された客室よりも狭かったと思う。
なぜ今では侯爵家の主でもある彼女が、そんな物置部屋のような部屋を使っているのか――。
謎はまだある。彼女はとてもじゃないが、正規の教育を受けたようには見えない。ここでどんな暮らしをしていたのか……。
それらは彼に関係ないことではあるが。
その少女は、まだ寝ているのだろうか。まさか、そんなことはないだろう。
そんなことを考えながら、扉の前に立った。
まずは、ノック。
返事はない。無視か。
再度扉を叩いてみたが、やはり返事はない。クロエの魔法がまだ効いていて、眠っているのか。声もかけてみたが、返事は沈黙だった。
仕方ないとため息をついて、ゆっくり取っ手に手をかけて押し開けた。
やはり狭い部屋だった。シングルベッドと小さな机を置いて、人が歩けるスペースしかない。そのベッドの上に、少女がいるはず――だった。
少なくとも、横になった皺は寄っている。代わりに、雨が降っているにもかかわらず、窓が開け放たれたままだ。
恐らくそこから出て行ったのだろうが、クロエが気づかないというのはおかしな話である。
とりあえず窓を閉め、部屋を出る。今更騒ぎ立てても仕方ないからだ。触れたシーツは既に冷えている。随分前にいなくなったということだろう。
一階に降りて居間に向かうと、クロエはまだ椅子に座って寛いでいる。
部屋に入ると、それまで目を閉じていたクロエが、目を開けて振り返った。
「あら。アルシオンは起きてこないの? それとも、まさかあなた、あの子に何かしたんじゃないでしょうね!」
質問の途中で目を吊り上げるクロエに、何でそうなるんだと口の中で突っ込みながら、彼女の向かいに座った。
「しかし、アルはどうして町外れのボロ屋に住んでいたんだ?」
「あれがあの子の家だったからよ」
「は?」
あまりに自然に言うので、脳が理解しかねた。
「……ここに家があるじゃないか」
「あの子はこの家では嫌われていたからねぇ。姉さんが優秀だから、侯爵家の夫婦は特にあの子を必要としてなかったのよ。何より、魔術士を特に嫌っていたしね」
魔術士? 頭の中に疑問符が浮かび、首を捻る。
「どうして、そんな」
「不思議なことが嫌いだったようよ。原理が分かっていても、受け入れられなかったらしくて。生理的なものかしらね」
魔法というものは、今ではどこに行っても必要とされている能力である。それを嫌う人間もいるとは。
「それじゃあ【生命の木】の管理なんて、できないじゃないか」
「そうよ。【誠実の砦】自体近づかなかった。二十年近いかしら……。長かったわ」
それは徹底している。
しかし、少女は魔術士ではなかったはずだ。
「アルが魔法を使えるって? まさか。じゃあ何のために俺を引き入れたんだ」
クロエはそれは、と少しもったいぶって口を閉じた。
そんなに話し辛いことだろうか。
「それは……あの子の持っている能力が特殊だからよ。人には属性というものがあるらしいじゃない。あの子は、そのどれにも属さない」
「それは魔法が使えないということじゃ、ないのか?」
基本的に魔法というのは、呪文と己の力だけでは発動しない。何かを媒体にしなければならないのだ。それは炎だったり水だったり、草だったりする。召喚術が一番分かりやすいだろう。しかし、それらと人には相性があり、それを属性というのだ。
そのどれにも当てはまらないということは、その人は魔法を使役できないということになる。そういう人がどうしても魔法を使いたいならば、魔法のかけられている道具を使うしかない。それは剣だったり鏡だったりする。
だからそれは特殊なんかではなく、それだけのことで言い淀むことはないのである。
「……魔法剣でも振り回したか」
そうだという返事を期待した。
「そうじゃないわ」
案の定、クロエは直ぐに否定する。
「確かにアルシオンは魔法をほぼ使えないわ。でも、あの子には魔法が一切通用しないの。魔法を無効化してしまうのよ」
それは確かに特殊だ。少なくとも、オーレリーは聞いたことがない。
「でも眠らせることはできた。それは?」
「あれは魔法なんかじゃないことぐらい、知ってるでしょ? 額のつぼに気合を入れてやると、気絶するだけよ」
それも初めて知った。確かに眠れ、と強く魔力を込めていたが、呪文は要らない。
「攻撃もか?」
「物理的なものは別よ。毒とか剣はね。魔法で作られた火や水は全く効かないわ。そのせいで、治癒魔法はあの子に効かないの」
オーレリーはなるほどと顎に手をやった。彼としては、ちょっと気になったことを聞いただけなのだが、こうもあっさり答えが返ってくるとは思わなかった。これは彼女が精霊だからというより、彼女がいつもこうなのだろう。
「なるほどねぇ。姑息だね、魔術士協会も。いい勉強になったよ」
「どういたしまして。で、アルシオンは?」
そういえば、当の本人の存在を忘れていた。
「実は、逃げたみたいでさ」
「誰が?」
本気で不思議そうな顔をして、真面目に聞いてくるクロエに、負けじと笑顔で返した。
「アルがだよ」
「冗談はよしてちょうだい! あの子が逃げるものですか!」
怒鳴りつけられても、オーレリーはいつも通りびくともしない。
「まぁまぁ、怒んなさんな。これであなたがどうして気づかなかったか分かったことだし、あとは隠れたところを見つけなきゃならない。こんな危険な単独行動をとることが、いかに馬鹿か教えてやらないとな」
それを聞いて、何を思ったのか、クロエもにっこりと凄味のある笑顔を浮かべた。
「そうね、二度とこんなこと繰り返さないように、きちんと教えてあげないとね」
顔を見合わせた二人の周りに、冷たい空気が降りて取り巻いている。
多分噂の本人が見たら、逆に逃げるだろう。
勿論、二人には逃がしてやるつもりなどこれっぽっちもないのだが。
「さて、どこから探したらいいのかしら?」
今度は至って嬉しそうに、クロエは一番の問題を切り出した。
「闇雲に探し回るわけにはいかないだろう。心当たりとかはないのか?」
「あなたの方こそどうなのよ」
「……それを俺に聞くか?」
オーレリーは少しだけ顔を引き攣らせたが、すぐに頭が回転しだしたらしく、とんとんと自分の膝を指で弾く。
「町長のところ?」
無難である。
クロエはあっさり却下した。
「じゃあ、宿屋は?」
「あの店主が密告していることを、あの子は知っているわ。だから、行かない」
人を見る目だけはあるんだなと妙なところで感心しながら、彼は続けて言った。
「じゃあ【生命の木】のところは?」
クロエはぴたりと固まった。一瞬間を置いて、首を振る。
「まさか。【森】の入り口には私がいるのよ? 気づかないはずないじゃない」
「でも、魔法は効かないんだろう?」
はっきりと彼女の顔色が変わった。視線をきょろきょろと彷徨わせ、最後にオーレリーを見る。
「そうよ。でも、それじゃあ……!」
混乱しだしたクロエの目を真っ直ぐに見て、オーレリーは低く、しかしよく腹に響く声で続けた。
「俺はなぜ、アルがつけまわされているのか分からなかった。罪人の妹だから? それでもいい。でも、それだけじゃないことは分かったさ。
それに、たった数日前にここに来たばかりで、特に面識のない俺を牢屋に追い込んだのは、脱出できなければ用なしだと考えていたからだろう。どうやらあれは、アルの試験だったみたいだけどな」
「試験?」
「そう。たとえ拷問されても、俺から得られる情報は少ない。問題は、俺があの牢屋から抜け出せるかどうかだ。それで実力を測ったんだろう」
「だから、……あの子は、どうしようと?」
「町長の今最大の望みはなんだと思う?」
彼はにやりと笑ってみせた。
「【生命の木】さ」
クロエはその答えに、眉を顰める。
「どういうこと?」
「町長がアルの魔法無効化体質を知っていたら、どうなると思う? きっと、【生命の木】の周りには魔法がかかってる。何としてでも辿りつきたいが、わざわざ呼びつけたこの辺り一番の魔術士でも歯が立たない。
その後に気づいたんだろうなぁ。こんな目と鼻の先に後ろ盾を失った、しかもとっておきの能力の持ち主がいることを知ったら、あの町長は金を惜しまないだろうよ」
オーレリーの話が進むにつれ、どんどん彼女の顔は険しくなっていく。
「なんてこと! 早くあの子を探しに行きましょう!」
クロエは椅子から弾かれたように立ち上がり、青い顔でオーレリーを急かした。追い立てられて部屋を出ながら、彼はそっと廊下の窓から外を見る。
雨はまだ止む気配を見せやしない。この執念深さは、一体誰のものだろう?
その答えは、今はまだ、出ない。