01
町の最北には、半分崩れかけた小さな城があった。背後には隣町に抜ける近道がある、広大な森が控えている。だがこの森には、猟師も引け腰になるほどの獰猛な獣が多く、人は滅多に足を踏み入れることはないという。
その手前にある城も、どこに野生の動物が潜んでいるか分からないほど、朽ちていた。その上、城には幽霊が出るという噂があり、この城に入った人間は、誰一人無事では出てこられないというのだ。
城といえど、比較するなら街中にある侯爵家のほうが大きく、立派である。この城も補修すればそれなりに見えるはずなのだが、それぞれの理由で長いこと手を加えられたことはなかった。
その城に、今住んでいる者がいる。
言わずと知れた、町長アマンダである。
彼はこの城を改修したりはしなかった。ある程度掃除をし、雨風が入ってこないようにしただけで、彼は崩れていない側に物を持ち込んで、移り住むことにしたのである。
大抵の村や町がそうなのだが、町長の家は役場を兼ねる。この城は今では自宅兼町役場になっていた。
だから最上階の三階は自宅として、妻と遅くに生まれた子どもがいる。それより下は、いつも色んな人たちでごったがえしていた。
地下もまた、人が多い。
つまり、地下牢である。オーレリーが捕まっていたのがこの最深部にある牢で、崩れた瓦礫で半分埋もれている箇所に当たる。大体牢はいつも満杯で、そろそろ新しく建築する案も出されていた。
そんな矢先に、雨が降り出した。
この城にいる人たちも例外ではなく飛び上がって喜んだが、ごく一部は違っていた。
町長と側近たちである。
彼らが起こしたわけではないが、砂嵐は彼らが町から富を奪う絶好のチャンスであるからだ。
おまけに、捕らえていたザクロの木の精にすら、逃げられている。
雨が止めば、町の人は猛然と異議を唱え、この城を襲いに来るかもしれない。しかもタイミングの悪いことに、今はオーレリーという邪魔な虫まで出てきている。
だから、できるだけ早くに手を打たなければならなかった。というのは、【生命の木】を誰が早く奪取できるかに、全てがかかっているからである。
あの【木】は町を守る象徴であり、それを支えるものは、侯爵家のように莫大の資産を与えられるのだ。
町長はそれをみすみす目の前で奪われるつもりはなかった。どんな手段を使っても、奪わなければならなかった。
それが彼の夢に近づく、第一歩だからである。
町長の執務室は、中二階の奥まったところにある。扉からして重厚なつくりのものに換えられ、床には赤い絨毯が敷き詰められている。両側に置かれた書棚には、統計学や設計に関する本が並べられ、中央には職人の技で磨かれた机と椅子が置かれていた。
その机の片隅には、事務員が特別に取り寄せた、この辺りでは珍しい生花が飾られている。
彼は欲に溺れた俗な人間のように言う町の人も多いが、彼についていく人が多いのも、また事実である。
この人のいいところは、約束は必ず守ることだ。それだけ自分に厳しいが、他人にも厳しさを求める。そのため、彼の元で生き残っている側近は、彼の生き方そのものに賛同している者が多い。このグループは改革派と呼ばれている。
その筆頭に立つ町長の右腕が、カータ・ベルチカである。
机の前で彼は直立不動のまま、椅子の大きな背もたれを見つめていた。
カータがここに立つのは、町長の補佐に就任してから、もう数え切れない。その度に町長は椅子に座り、こうして背を向けていた。
最初の頃は、就任を命じられた時に一瞬だけこちらを見てくれただけで、それ以来振り返ってはくれなかった。
それは恐らく、カータがまだ未熟で、町長の意思に添えていないためにこちらを見てくれないのだと思っていた。
それが思い違いだと分かったのは、至急に町長の判子をもらわなければならない書類があったときのことだ。その判子は町長本人の指輪についているが、当然だが町長本人以外は使えないことになっている。こればかりは町長に押してもらわなければならなかった。
書類を両手で握り締め、カータは今すぐお願いしますと声を振り絞った。
机に書類を置いていけと追い出されてるのではないかと、額に汗しながら答えを待つ。あの時、心臓がはちきれそうに高鳴っていたことを、よく覚えている。
だから、椅子がゆっくりと回ったときは、心臓が止まるかと思った。
町長はじろりとカータを一瞥して、用件は何だねと尋ねた。
カータが一瞬にして真っ白になったことは、言うまでもない。
その時にカータが町長に教えてもらったのは、町長が椅子を回転させているときは、考え事に没頭しているとのことだった。
それだけ思考が深いということなのだろうが、カータが町長に人間味を感じ、親しみを持って傾倒しだしたのはこの時からだった。
だから、こうして気づいてもらうことに待つのも、慣れてしまった。
「カータ」
「はい」
唐突に振り返った町長に、驚きもせずにカータは返事をした。
町長はカータを見るわけでもなく、右手の薬指にはめられた、紅い宝石が目映い指輪を見ていたが、不意に顔を上げる。
「あの娘はどうなった」
真っ直ぐに射抜かれる視線を全身に浴びながら、カータは直立不動を崩さずに口を開いた。
「――はい。まだあの屋敷に立て篭もっております。アロマ殿が再度結界を崩すために向かわれましたが、成果はありませんでした」
「ザクロが戻ったからな。手は打ったか?」
「はい。メイドを撃ち殺したとの報告がありますので、……アマンダ様?」
カータはぎょっとして、口を噤んだ。
町長の顔がみるみるうちに恐ろしいような顔つきになり、席を立ってしまったからである。カータは今まで一度もこの人のこんな顔を見たことがなかったし、ましてや驚いて席を立つなど、普段の冷静沈着な町長にはありえないことだった。
呆然としているカータの前で、町長は机に手を置き、頭を振りながら尋ねた。
「なんだって? それを聞き流すわけにはいかん。お前には誰も殺すなといったはずだが?」
言葉の鋭い切っ先に耐えながら、カータは必死に頭を巡らす。
「しかし、そうでもしなければあの娘は、」
「口答えはしなくてよろしい!」
怒れる町長に、カータは身を竦めた。
「ああ、なんということをしてくれたんだ。お前はわたしの信用を裏切る気か?」
「それはどういうことですか?」
恐る恐るカータが尋ねると、町長は完全に背を向けてしまう。
低い声が、耳を打った。
「お前がメイドと思っていたのは、ベッティーネ伯爵家当主の姉だ」
「そんな、まさか!」
カータは耳を疑った。
ベッティーネ伯爵といえば、国王と親しくする、国有数の実権ある一族である。
しかも当主の姉といえば、この国初めての女将軍として名を馳せていた。ただ、先の戦いで足に怪我を負い、引退したとの噂を彼も聞いたことがある。
「なぜ最初に言って下さらなかったんです!」
訴えは悲鳴に近かった。カータはベッティーネ伯の姉の顔など、見たことがないのだ。
肩越しに振り返った町長は、険しい表情でカータの弱音をはねのける。
「そこまで言わなければ、お前はわたしの命令を聞き入れないのか?」
「……。申し訳ありません」
「もういい。そのことについては、後で話し合うことにする」
カータはその言葉に、深く頭を垂れた。
その後カータはアルマがどうやってマヤを射殺したかの経緯を喋ったが、町長は難しい顔のままである。
内心歯噛みしながら、彼はあの小憎たらしい男を蹴り倒してやりたかった。一年前姿を現したときから、あの胡散臭い魔術士を信用していなかったのだ。
「それで、あの男はどうだ?」
「屋敷を抜け出してから、現在地は掴めておりません。身元のほうは両日中に分かると思いますが」
そろそろ近隣の村や町に放った間諜が戻ってくる頃である。
「あれは教会の人間だ」
さらりと町長は言った。
「……、は」
咄嗟に、カータはそれだけしか言葉として発することができなかった。
町長はいつも、誰よりも百歩は先を見ている。だが、カータにはまだそこまで見切ることができないのだ。
「……、なぜそう思われるのです」
唾を飲み込み、そう問うと、町長はため息を吐いた。
「あれが背負っていたものに、見覚えはないのか?」
そう言われ、カータははっと思い出した。
オーレリーを投獄する際、無理矢理背中のものを引き剥がそうとした、その瞬間のことだ。それまでのらりくらりとかわしていた彼が、一変して鋭く、伸ばされる手を払ったのだ。
今まで一度も本気で笑わなかった唇が、怒気をともし、触るなと言った。
一人の優男を相手に、ガタイのいい男たちが立ち竦む光景は、滑稽だったろう。
しかし、その場にいたカータは、その理由がよく分かった。
少しでも動けば刃で切り刻まれるような、危うい雰囲気。口を挟むことなど赦されない、威圧感。
直後、彼が触れないならばここに置いていこうと譲歩してくれたことが、救いに思えてしまったほどである。
しかし、そこから大人しく枷をかけられて牢に入ってくれたことが、カータは不思議でならなかった。本人としては、彼らの顔を立ててやっただけなのだが、カータはそんなことなど思いもよらない。
その後、ふざけた調子で男たちが布にくるまれたそれを触ろうとしたところ、雷に打たれたかのように倒れ、動かなくなってしまったのだ。
そこまで思い出して、カータはあの長さの杖が空に掲げられた風景が脳裏に蘇った。
だが――、それは、考えられない。
「彼が持っているのが、それだと……?」
「フィーラ以外に何がある」
大神フェオキラスの背に生えた、虹色の羽をフィーラと呼ぶ。ユリウス教会にはフィーラの破片と呼ばれる物があり、年に一度、感謝祭で公開されていた。
しかし、これを管理できるのはかなりの上位にいる人物でないと無理に違いない。フィーラという杖は、それほど高度な扱いが必要だからである。
ユリウス教はいまでも完全実力主義を通していて、フィーラを受け継ぐには、試練が待ち受けているはずであった。この試練を通過し、認められることができるのは、大陸でも片手に数えるほどしかいないという。
だが、あんな若造がそこまでの実力を持っているなど、到底思えない。
「もしそれが事実でしたら、フィーラを持ち出した罰として、教会から制裁されるのでは?」
「知らないか。三年前に予言者の長が罪を犯してウィトワから逃げ出したのを」
予言者とは、位とするなら教皇に続く第三位にあたる。予言というのは大抵が遺伝によるもので、この能力を持つ者は、ほぼ強制的に教会で能力の開花を指導される。ここで勝ち残ったものだけが、試練を受けることができるのだ。
その予言者たちを統括する長が、賢者の一人を殺し、都市を脱走したのは有名な話である。
「確か……その男は懸賞金が掛けられていたと思いましたが」
「そうだ。その金が入れば、軍備も整う。そうすれば、わたしたちの夢も叶う」
夢。
町長と目が合い、カータは背筋を伸ばした。
彼らの夢は、必ず実現させなければならないものだった。そして、カータは町長に、命が尽きるまで尽くすことを己の剣に誓っている。
後戻りはできない。……今後、何があろうとも。
「それでは、あの男の捜索は続行いたします。その、女将軍の始末は」
「わたしがやろう。そもそも、わたしの言葉が足りなかったから招いた事故だからな」
言葉を遮って町長はそう言ったが、どう考えても町長のミスである。ここで威張れる立場ではないはずの彼に、カータは再度頭を下げた。
町長はカータにとって、全てといって違わないからである。
「お手を煩わし、申し訳ありません」
町長は手を振り、顔を上げさせた。
「もういい。早く、あいつを捕まえろ」
「はっ。それでは、失礼します」
一礼して、カータは執務室から出ていく。
その背を見送り、町長は椅子に座りなおした。その口元には、笑みが浮かんでいる。
まだまだ彼の思うようにはいっていないが、オーレリーも手中に入ればこちらのものだと考えていた。手配書とずいぶん面立ちが違うが、追われる人間が素顔を晒しているわけがない。
彼は椅子をくるりと回転させ、まだ来ぬ明日に思いを馳せた。