04
ぴたぴたと水の滴る音がする。
宿屋の店主は暗い中目覚めて、顔をしかめた。
雨漏りの音だ。
おそらくまだ深夜だろう。ここ二日ばかり、ずっと雨雲のせいで常に暗いから、正確な時間が計れない。
店主はため息を一つして、寝台の上で起き上がった。
彼一人である。その昔は彼にも連れ合いがいたのだが、この土地が砂だらけになる遥か前の話だった。
こんなときには女房がいないことに不便を感じる。まぁ、そういう男だから、彼は一人なのだろう。
店主は小さく舌打ちして、ベッドから降りて部屋を出た。
寝室の隣は居間になっていて、居間を抜ければ厨房に繋がる。ここ一年ばかり雨など降っていないから、屋根の修繕をすることすら忘れていたが、居間の天井から雨漏りがするのだった。
しかも、年季が入っているとはいえ、彼がいつも愛用しているソファの真上が問題の場所である。
最初に見つけたときは、既に水浸しだった。今は水気を取って、水受けの鍋を置いてあるが、外が晴れない限りは乾かないだろう。恵みの雨と喜ぶには早かったかと肩を落としたが、これは個人的な問題である。
今は滝の如く叩き落ちる豪雨ではなくなっているが、まだ土砂降りには違いない。寝る前に用意していた鍋を見れば、既になみなみとみずが溜まっていた。
こんな状態ではおちおち眠れやしない。確かに雨は必要だが、できることならあと二、三日の間に止んでほしいところだ。
店主は不機嫌に厨房に向かうと、同じくらいの大きさの鍋を持ってきて、水滴の落ちるタイミングを見計らって、鍋を交換した。新しい鍋底に水滴が落ちると、金属を叩く耳障りな音がしてこれまた嫌なのだが、これは深いため息でひとまず我慢することにした。
大鍋を抱え、厨房の勝手口に向かう。たぷたぷと波打つ水を、店主は寝惚け眼の危なげな足取りで運んだ。扉を開けるとやはり真っ暗で、ここでまた一つ、ため息。
勢いよく鍋の水を捨て、扉を閉めて振り返った――。
「こんばんは。夜分遅くにすまんが、聞きたいことがあってね」
店主は驚いた拍子に開いた口が、塞がらなかった。
居間への入り口に立っているのは、一昨日町長に捕まった長髪の男だったからだ。勿論脱獄したことは聞いていたが、まさかまた戻ってくるとは思いもしない。
オーレリーは固まってしまった店主を見て、小さく笑った。
途端、店主はカッとなって、叫んだ。
「どうしてお前がここにいるんだ! 出てけ!」
オーレリーはそんな怒声くらいではぴくりともしない。
逆に、余裕の満ちた笑みを深くした。
「そんな邪険にしなさんな。それに、いいかい? あなたに拒否する権利なんて、これっぽっちもないんだからな」
自分の作っただろう掌に乗った光源で浮かび上がる彼は、笑みを浮かべているのに、ゾクリと悪寒が背に走った。
彼が見た目どおりの優男なら、店主は有無を言わさず叩き出しただろう。
しかし、この男は違う。
最初の印象では、ただの旅人だった。だが、町長に捕まったときから彼は単なる旅人ではなくなった。その微笑の下には何が隠されているか分からない、要注意人物である。決定打は牢から脱獄し、さらに魔術士の攻撃を防御した上、攻撃を仕掛けてきたことだ。店主はこのことを口伝えにしか聞いていないが、町長が町に招いたという男の実力は、しっかりとこの目で確かめたことがある。
「じゃあ、こんな時間に一体何の用なんだ」
店主はあっさりと降参した。彼はこうやって生き延びてきたのだ。
「ずいぶん聞き分けのいいことだ。ところで、座って話さないか」
オーレリーは片手で持った光源を居間に移し、自ら居間への入り口をくぐった。
その後に続いて店主が居間に入ると、オーレリーは既に椅子に座っていた。
「早く話を終わらせよう。座って」
まるで自分が主人のような物言いに、店主の額に青筋が浮く。
それもなんとか我慢して、店主はオーレリーの向かいに座った。
「それで?」
つっけんどんに尋ねると、オーレリーは笑みを崩さずに口を開く。
「幽霊のことだ……。何か知ってるんだろう?」
「知らないね。聞きたいのはそれだけか?」
不貞腐れた顔で答える店主に、オーレリーはまぁ待てと制した。
「そもそも、あんたは幽霊に会ったことがないだろう」
店主は益々嫌な顔をして、一度会ったことがあると返す。
「本当か? それならなぜ、あんたはザクロの石を身につけているんだい?」
はっと店主は、自分の寝巻きの襟元に付いている、紅い粒を見た。
そして、何事もないかのように(目が泳いでいるからバレバレなのだが)、だから? と先を促した。
「これ以上言ってほしいのか? その石は魔除けだ。最近はレッシの町に貴重品として出回っているがね。そんなものを宿屋の主が付けているなんて、おかしいじゃないか」
店主はそんなことなど知らなかった。彼はただ、言われるがままにこの石を身につけていたのだから。
「町長とあんたが繋がっていることは、分かるよ。ただ、その石が与えられているとなると、別だ。
聞けば、あんたは両親をなくした姉妹を援助していたというじゃないか。おかしな話だよな。あんたは敵なのか? 味方なのか?」
店主は鼻を鳴らして、吐き捨てる。
「それがお前に関係あるか?」
「なければこんなところに来るわけないだろう」
いかにも呆れた口調で返し、店主は顔面が引き攣るのを感じた。
それではこの男は、何もかも知った上で、ここにいるのだろうか? でなければ、町長と姉妹との話が出てくるはずがない。
店主は、先ほどとは違う寒さを感じていた。冷や汗がこめかみから流れ出すのを感じる。
それは誰にも、絶対に知られてはならないことだった。知られたら、即刻始末するのが暗黙の了解で、いまや真実を知るものなどいないはずである。
だから――そう、これは彼のはったりかもしれないじゃないか。
店主はそう高をくくり、心を落ち着けた。
そしてまた、白を切る。
「これは町の問題であって、お前が首を突っ込む筋合いはないはずだ。分かったら、帰ってもらおう」
オーレリーは少しうんざりしたように顎に手をやったが、店主に繰り返し言い聞かせた。
「なぁ、人の話を聞いているのか? あんたは幽霊に会えるわけないじゃないか、その石を後生大事に抱えていたら」
「なんだと」
店主は目を剥いて驚いた。オーレリーはその反応を予測していたのか、小さく嘆息した。
「知らないのか? そんな高価なものを人目に晒すなら、それくらい知っておいてほしかったよ。魔除けの石だと言っただろう? そのザクロの石は、悪霊になりつつある、あの幽霊に効果がある。なんと聞かされてそれを持ってたんだ?」
店主はその言葉を、ただ呆然と聞くしかなかった。彼はそんなことは知らなかったのだ。
「……呪い除けだ」
「呪い?」
店主は青くなるばかりで、それ以上返事をしない。
「リュカとベルを、殺したな」
「……」
沈黙は雄弁な答えを語る。彼が一家殺害に手を貸したのは、明らかだった。
「仕方なかった……。息子が町長の秘書をやっているんだが」
「名前は?」
「カータだ。……いや、待ってくれ! 息子には手を出さないでほしい!」
店主は答えてから我に返り、悲痛に懇願を始めたが、オーレリーはそれを半分上の空で聞いていた。
なんとも都合のいい話である。泣いて喚けば、全て解決するとでも思っているのだろうか。
「それじゃあ、砂嵐の理由は?」
「知らない! 息子のやっていることに、口を出したことはないんだ。それよりも、頼む。息子には手を出さないでくれ!」
どうやら大出世した息子を、溺愛しているようだ。なりふり構わない父親を、息子がどう思っているかは別の話だが。
それでもザクロの石を与えられたのは、この店主が父親だからだろうか。
「あともう一つ。……砂嵐がきてから、誰かこの町に来たか?」
店主は考える顔つきで思案し、躊躇いがちに口を開いた。
「ああ、ここに来たな。砂嵐が酷くなって、商隊すら来なくなった頃だ。あの男は、お前と違ってすぐに出て行った」
それが何だと戸惑いを隠せない表情の店主に、オーレリーは答えずにその男の特徴を尋ねた。
「そうだなぁ、年頃はお前と同じくらいじゃないかな。やっぱり頭から布を被っていて、顔とかは見えなかったんだが、声の調子でな。旅人が道に迷ってこの町に来たんだと思ったよ」
その男はここに宿を求めるわけではなく、【生命の木】の在り処を聞いて出て行き、それから戻ってこなかったという。
「それ以外……何も言っていなかったか?」
「ああ、よく覚えているよ」
店主もこのときばかりは神妙な面持ちで、言った。
「どうして【生命の木】のことを聞くのかと尋ねたら、こう言ったよ。
『この町を生かすも殺すも、あなたがた次第だ』とね」
その意味を問う前に、彼は店を出ていったとらしい。
オーレリーはそうかと言ったきり、黙ってしまった。店主はなんとも言えず、彼の様子を窺う。
本当なら、なぜオーレリーがそんなことを知っているのか聞きたかったが、彼の触れたら弾けそうな空気に触れる勇気はなかった。
だから、次に口を開いたのはオーレリーである。
「言っておくがな、俺はあんたの息子なんかに興味はない。命乞いはアルシオンにしろ」
アルシオンの名前を聞いて、店主はみるみる青ざめた。
それは少し違和感があった。確かに少女は侯爵家の娘らしいが、家財を売り払い、実権まで町長に奪われた少女に、何を恐れることがあるだろう。
「俺の聞きたいことはこれだけだ。朝早くから済まなかったな」
「……ア……は、……る」
立ち上がったオーレリーに、店主は沈んだ表情のまま、ぽつんと呟いた。
「何?」
店主は淡々と続けた。
「アルシオンは知ってると言ったんだ。俺が町長の手先で、姉の行方不明にも関わっていることも。全てじゃないが、あの子はそれを知っていて、俺を見逃してくれてる」
まだ青ざめた顔色のまま、店主はそう言った。
「偽善者か、あんたは」
容赦なく切り捨てられた言葉に、店主は一度びくりと震えたが、そうだと認めた。
「そう思ってくれて構わない……。だから、あの子に少ししか援助できなかった。あの子は昔からこの店に来ていてね。勉強で出て行った息子の代わりに、もう一人子どもができたように思ってた。だから俺は、あの子を捨てることもできなかったんだ」
「そうか」
オーレリーはそのまま項垂れてしまった店主に一瞥をくれたが、言葉もかけずに灯りを消してしまった。
部屋は闇に包まれ――まだ、朝は来ない。
爪痕が消えない。
厚い雲をも透かし、辺りから暗い闇が引いていく。
町の中心には高い鐘塔が立ち、その頂上には大きな鐘がついていた。その鐘は、砂が吹き荒ぶ頃から時を知らせるのをやめている。
未だに町には活気が戻らず、町長の手先があちらこちらに目を光らせていた。だが、老朽化の進んだこの塔は別である。
大きな鐘に寄りかかりながら、オーレリーは右腕を捲りあげ、その腕に深々と刻まれた傷跡を眺めていた。腕の半ばから二の腕にかけて、三本の傷が平行に走っている。
この傷で、腕をなくしかけたこともあった。そして、それが旅に出たきっかけだった……。
しかし今は、そんな感傷に浸る暇はない。
もうすぐ雨は上がるだろう。そうしたら、町長たちは次にどうするだろうか?
頭の中がぐるぐると目まぐるしく回転し、大きく息を吐いた。
店主の話で、おおよそのことは分かったと思う。あとは、当事者に話を聞きに行くだけだった。
そう、雨が止めば、会いに行ける。
その時は、絶対に町長遅れをとってはならないだろう。
オーレリーは袖を元に戻し、手首から布を巻きつけた。しっかりと布から頭を被り、躊躇わずに足を踏み出した。――虚空に向かって。
勿論、自殺するわけではない。驚異的な身体能力を駆使して、塔の壁を蹴り、民家の屋根に飛び移ることに成功した。
彼はそのまま走り去り、雨の音ばかりが満ちた、朝が来る。
折り返し地点です