第一話 タチカキ
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称・事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
夜明け前の境内には、まだ底冷えする冷気が沈殿していた。
境内の石段の下では、数人の老人たちが軽快なラジオの音に合わせて、ゆっくりと腕を回している。
近隣の住民に親しまれている「タチカキ体操」の風景だ。
彼らが「四海九天」という動作で空を仰ぐとき、それは健康と長寿を願う柔らかな祈りに見えた。
しかし、境内の拝殿の奥では、一般の参拝客が足を踏み入れることのない神域の森では、全く別の「タチカキ」が空気を切り裂いていた。
道着に身を包んだ青年、蓮は、自身の師である神主の構えを見て息を呑んだ。
神主は、ただ、両腕を自然に垂らして立っている。だが、近寄りがたい気迫を感じる。
基礎技術「四海九天」。体操で行われるそれと同じ名を持ちながら、その実態は、大地から吸い上げた重力を全身に均一に配分した、絶対的な不動の姿勢だ。
「蓮よ。人は神の霊を分けた『分霊』だ、社と同じ、清浄なる器であることを忘れるな。」
神主が動いた。
予備動作は一切ない。上半身と下半身の動きが、歯車のように噛み合う「天地人」の歩法。神主の姿が、一瞬で視界から消失する。
「っ!」
蓮は反射的に、自身を守るべく突きを放った。しかし、その一撃は何の抵抗もなく、滑らかな水面に触れたかのように逸らされた。「清流」と呼ばれる技だった。
蓮の力は、まるで最初から存在しなかったかのように無効化され、前方へと虚しく流される。バランスを崩した蓮の視界が、急激に回転した。
次の瞬間、蓮の意識は、脳髄を直接揺さぶるような鋭い衝撃に灼かれた。
――雷鳴。
神主の拳が、蓮の喉元数ミリで止まっていた。実際に打たれたわけではない。だが、放たれた殺気の衝撃だけで、蓮の神経は一瞬、活動を停止させられたのだ。
「……ここまでだ。」
神主が静かに手を引くと、境内の鳥たちが一斉に羽ばたいた。
「タチカキは、闘争の術でありながら、同時に和の象徴でもある。この力は、社会の崩壊を防ぎ、命の尊厳を守るための手段だ、むやみに広めることも、むやみに振るうことも許されてはいない、」
神主は、汗一つかいていない顔で、遠く石段の下から聞こえるラジオ体操の音に耳を澄ませた。
「だが蓮よ。時代が、この『秘匿』を許さなくなってきているようだ」
その言葉を裏付けるように、神社の鳥居の向こう側、暗い影を落とす黒塗りの車から、哲学も理念も持たぬ「略奪者」たちの視線が、静かに神社を見つめていた。




