感情への呪い
ケイゴの顔から、後悔が消える。
「そうか、あいつは前を向くことにしたのか」
呟くケイゴの声は、とても柔らかかった。
救えなかった親友が前を向き、人を、国を許すことにした。
その事実が、ケイゴの心を確かに救っていた。
「なら、俺も前を向かないとな」
後悔だらけだった自分と決別するかのように、ケイゴは自分の頬を叩く。
乾いた音が部屋に響いた。
「あいつはな、優しい男なんだよ」
だからこそ――
忘れられなかった。
ニイルが魔王ネベル=アビスとして、世界の崩壊を決めた日のことを。
軍部から知らされたブラニカの死は、まるで事務連絡のような紙切れ一枚だった。
恋人の死を受け入れられず、
ニイルは泣きながら笑っていた。
「冗談だろ」
「ブラニカが死ぬわけない」
そう言って、何度も笑っていた。
そこに軍部の人間が現れた。
遺品だと言って差し出された箱。
その中に、手紙が一枚入っていた。
ブラニカの字だった。
心配性な恋人を安心させるような、優しい言葉で書かれた手紙。
『私は大丈夫です』
『ニイルは心配性だから、きっとまた怒るんでしょうね』
『でも安心してください』
『私は強いですから』
最後の最後まで。
自分の身より、恋人を心配する言葉だった。
ニイルは笑いながら、それを読んでいた。
一行。
また一行。
読み進めていく。
そして――
そこで、黙った。
笑っていた顔から、表情が消えた。
もう一度、手紙を読む。
何度も。
何度も。
何度も。
そして小さく呟いた。
「……俺、守るって言ったのにな」
その時だった。
ニイルの魔力が溢れ出した。
心が壊れたことで溢れ出す魔力。
魔力は、感情に強く反応する。
怒り。
悲しみ。
絶望。
どす黒い感情が混ざり合い、魔力はどんどん漆黒へと染まっていく。
その中心に、ニイルはただ立っていた。
絶望に染まった瞳で、俺を見つめて。
そして聞いたんだ。
「ケイゴ」
静かな声だった。
「俺は……間違ってるか?」
俺は――何も言えなかった。
答えられなかった。
それが、あいつの答えになった。
その瞬間。
世界を揺らすほどの魔力が溢れ出した。
――魔王が誕生した。
「優しいから許せなかった。でも、許すと決めたんだったら、俺も前に進むしかないんだよな」
力強く叩いたせいで赤くなった頬をさすりながら、ケイゴは小さく笑う。
「お前はすげぇな」
「え?」
「死んだはずの俺の心まで救うなんて、大した奴だよ」
その顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「やっぱ、僕のチョイスは間違ってなかったね」
たんぽくんが自信満々に間に割り込む。
「ケイゴにとっても君の存在が必要だと思ったんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。だって僕は神様だからね!」
あっ。
ついに自分で言った。
「お前、ついに自分で言ったな。これから俺たちがそう呼んでも文句言うなよ」
「あぁぁぁあ!今のはなし!なし!」
いやぁ、ナシにはできないよねぇ。
本人が言っちゃったんだもん。
「無理な相談だよな?後輩」
「ケイゴと同意見なのは不本意だけど、そうだね」
「おい?不本意とはなんだ!不本意とは!」
「だって、ねぇ、たんぽくん?」
少し空気が和らぐ。
「そんなことより!ケイゴ、肉じゃが作ってよ!」
「えぇーめんどくさい」
「神様のお願い事が聞けないんだぁぁ」
「うわっ、こいつ神様って言葉を盾に取りやがった」
「だって事実だもーん」
二人の茶化し合いを横目に、私は勝手にキッチンに立つ。
冷蔵庫を開き、肉じゃがの材料を取り出す。
ついでに焼き魚用の七輪も出す。
「ねぇ、ケイゴ?魚焼いてー!」
「お、おう!」
七輪とアユを受け取り、ケイゴは外に出る。
「ねぇ、たんぽくん!井戸水汲んできて!」
「え……僕、神様……」
「だから?早く行く!」
「は、はい!」
ケイゴとたんぽくんは顔を見合わせる。
(この女を怒らせるのだけはやめよう……異次元だ)
やがて。
お米の炊ける音。
肉じゃがを煮込む音。
外から漂ってくる焼き魚の香ばしい匂い。
さっきまで――
誰かが死んだ話をしていた。
誰かが絶望した話をしていた。
それなのに。
この家の中には。
肉じゃがの甘い匂いと、焼き魚の香ばしい匂いが広がっている。
まるで何事もなかったかのように。
穏やかな空気が流れていた。
「できたよー!」
駆け寄ってくる二人の分の食器を並べ、三人で食卓を囲む。
「いただきます!」
声が揃う。
「んー!アキナ、この肉じゃが絶品だね!」
「でしょう?自慢の一品なんだ〜」
「負けました……」
ケイゴが謎の敗北を認める。
腕が落ちてなくてよかった。
まるで、和食の料理人になりたかった昔の自分を褒めてもらえたみたいだった。
「おかわりあるから、食べて!」
「うん!ケイゴも見習いなよ!」
「うるせぇな!でもマジで、教えてくれ」
「いいよ!肉じゃがだけじゃなくて色々教えるよ!」
賑やかな食事の時間が過ぎていく。
やがてキッチンでは、日本人が二人並んで料理をしていた。
「へぇ、それ入れるんだ」
「そう!煮崩れ防げるんだよ」
「なるほどなぁ」
さっきまでの重い空気が嘘みたいだった。
「これを日常にしたいな、帰ってから」
そう呟いたあと、ふとケイゴの横顔を見る。
「なんだよ」
「ん?みんながもてはやしてる英雄が隣にいるんだよなぁって思って」
「なんだよそれ。そんなことより、これどうするんだよ」
目の前には、二人で量産してしまった小鉢が山のように並んでいた。
「冷蔵庫に入れて、ちょこっとずつ食べていくしかないね」
「そうだな」
ケイゴは小鉢を手に取りながら小さく笑った。
さっきまで世界の絶望みたいな話をしていたのに。
今はただ、料理の保存方法について相談している。
不思議な時間だった。
鍋の中で、肉じゃががまだ小さく煮えている。
七輪の炭も、ゆっくりと赤く燃えている。
どこにでもあるような、ただの夕食の時間。
でも――きっと、こういう時間を守りたかったんだ。
ニイルも。
ケイゴも。
そして。 私も。
静かな台所の中で、私は小さく息を吐いた。
この世界は、残酷だ。
だけど、こんな時間があるなら。
きっとまだ、終わってない。
終わらせない。




