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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第3章 守られる日々と誓い
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◆2:小さな日常と揺れる胸




sideユリカ




ユリカが寝室に戻ると、広い家の中にはもう静けさが満ちていた。


けれど、遠くの廊下からかすかに聞こえる足音や、階下で交わされる低い声が、どこか安心感をくれる。




この屋敷は広すぎるのに、不思議と“誰かの気配”が絶えない。


その空気が、今の彼女にはとてもありがたかった。




カーテンを少し開けて、月灯りに照らされた庭を眺める。


そっとお腹に手を添え、心の中でそっと呼びかけた。




(……今日も一日、ありがとうね。ルルちゃん)




名前をつけたつもりはなかった。




ただ、いつからかそう呼ぶようになっていた。




意味なんて、深く考えていなかった――ほんの冗談のような、独り言みたいなもの。




でも、こうしてそっと呼ぶたびに、お腹の中にいる命が、少しずつ確かな存在として感じられてくる。




(……本当に、いるんだね。私の中に)




小さく呟いて、ベッドに身を横たえた。






誰かの名をつぶやきながら眠れる夜が、こんなに安らかだなんて、知らなかった。








sideユリカ






新しい生活に必要なものを揃えるため、シェイがユリカを街へと誘った。




「生活必需品は遠慮なく。僕のほうで用意しますから」


そう言われても、さすがに気が引ける。


会計のたびに「私が払います」と差し出すけれど、「僕が」と笑顔で返される。




とうとう店員さんに「男に格好つけさせてあげなって」と肩を竦められてしまい、ユリカは真っ赤になって引っ込めるしかなかった。






会計を待つあいだ、ふと棚に並んだマグカップが目に留まった。


淡いピンクに小さなうさぎの透かし、薄いブルーにくまの透かし。まるで対になっているみたいな二つ。




(かわいい……)




思わず手に取ったが、ペアなんて――重たいかもしれない。


それでも片方だけ置いていくのは、もっとできなくて。


気づけば二つまとめて包んでもらっていた。






その後は洋服屋へ。




店員に勧められて試着したのは、詰襟の藍色のワンピースと、黒レースがあしらわれた少し大人びたもの。


鏡の前で迷っていると、背後から落ち着いた声がした。






「藍色は修道女のような清楚さを感じますね。


 ですが――今のあなたなら、こちらも似合うと思います。


 自立した大人の女性の印象です」




「え……」


胸が高鳴って、思わず視線を逸らした。




「お似合いですよ。彼氏さんの服装ともぴったりですし」


店員の言葉に、私は慌てて手を振る。




「ち、違います! そういうんじゃ――」




一方でシェイは、動じることなく穏やかに受け止めていた。




「そう見えたなら、光栄ですね」


そんな余裕のある笑顔を浮かべられると、余計にユリカは赤面してしまった。






結局、どちらの服も買ってもらった。


予定よりもずっと多くの荷物を抱えて、ユリカは困惑を隠せずにいた。




「こんなに……買っていただくつもりじゃなかったのに」


つぶやくと、シェイはさらりと言った。




「家賃代わりと思ってください。


 あなたが着飾った姿を見られるなら、それだけで十分です」




そんなふうに笑われると――心臓が跳ねる。




「……ずるいです」


小声でそう返したあと、ユリカは思い出したように袋を抱え直した。






「あの……これ、シェイさんの分です」




「僕の?」




差し出した包みには、あのマグカップが入っている。




「レジで見つけて……片方だけじゃ可哀想で……その……」




言葉尻が消えていく。けれどシェイさんは、ほんの少し驚いたあと、静かに微笑んだ。




「……大事にします」


その声色が優しすぎて、胸の奥が温かくなる。






以降、二人のお茶の時間には、決まってそのマグカップが並ぶことになる。






sideユリカ




ユリカは、うさぎのマグカップを手に、ふわりと香るハーブティーの湯気を見つめながら、静かに息を吐いた。




シェイの手にも、薄青のくまの透かしの入ったマグカップ。


彼には可愛すぎるアイテムだが、平然とそれを使う姿は昔からそうしていたかのように映る。






午後の風が、カーテンを軽く揺らす。


部屋に差し込む光はやわらかく、真夏の暑さを忘れるほどだった。




「少し、食べられるようになったみたいですね」


そう言ったシェイが、対面の椅子に座って微笑む。




湯気の立つ器には、ミーナお手製の滋味あるスープ。


隣には焼きたてのパンと、季節の果物。




「……はい。なんだか、すこしずつ、ですけど……」


スプーンをそっと口に運びながら、ユリカは自分の身体が回復に向かっていることを実感する。




それは、同時にこの身に宿る命が確かに生きているということでもあった。




(……ルルちゃんは、私が守らないと)




そう思った瞬間――




コツン。


お腹の奥で、ささやかな動きがあった。




「……!」


思わず、ユリカは手をお腹に当てた。




「……動きました」




声は小さく、それでもどこか驚きと喜びが滲む。




シェイは一瞬、息を飲んだようだったが、すぐに柔らかく目を細めた。




「……そうですか。初めて、ですね」




ユリカは頷きながら、ただ、そっとその余韻に浸った。


命が、確かにある。生きている。自分の中で。






その温かい感覚に包まれながら、ふと、先日シェイに言われた言葉が頭をよぎる。




――“選択肢として、考えてくれればいい”


“すぐに返事はいりません”




(……契約結婚のこと)






静かに思い返すだけで、胸の奥が少しざわついた。


守られることは、きっと安心だ。


それでも、ルアルクへの想いを封印してまで自分が選ぶべき道なのか――まだ、答えは出ない。




「ユリカさん」




「……はい?」




「無理は、しないでください。今はそれだけで十分ですから」




彼の優しい声に、ユリカは目を伏せて、微かに笑った。




(でも、いつかちゃんと……自分で決めたい)







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