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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第3章 守られる日々と誓い
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◆1:迎え入れと夜の祈り




sideシェイ



家の扉を開けると、ふわりと香ばしい焼き菓子の香りが鼻先をくすぐった。


香りの先に目を向ければ、台所でスープをかき混ぜていたミーナが、気づいたように顔を上げる。




「おかえりなさいませ、シェイ様」


「ただいま。ごめんね、急に頼んでしまって」


「いいえ、いつものことですよ。


 あなたが“誰かを連れてくる”と言ったときは、いつだって本当に大切な人を連れてくる時ですもの」


「……そんなにわかりやすいかな」


ミーナは、にこりと目を細めた。


その微笑みは、母のようでもあり、長年の使用人としての温かさでもあった。




「あなたがここに人を招くなんて、何年ぶりでしょう。


 それも、“家族になるかもしれない方”を――違いますか?」


「……まあ、そんなところだよ」


シェイは苦笑しながら頬を掻いたが、ミーナはその曖昧な仕草にこそ、確信を得たように頷く。




「心配はいりませんよ。


 ユリカさん、でしたね。


 きっと大丈夫です。あの方は、あなたに似ています」


「僕に?」


「ええ。“痛みを知っている人”という意味で。


だけど、それでも前を向こうとしている。――あなたがかつてそうだったように」




シェイの瞳が、ふと揺れる。




「……ありがとう、ミーナ」


「いえ、こちらこそ。


 あなたがこの家を“帰る場所”だと思ってくれていることが、私にとって何よりの誇りですから」




ミーナはゆっくりと木のスプーンを置くと、鍋の蓋を静かに閉じた。




「では、私の役目は、彼女を“ここにいてもいい”と感じさせてあげることですね。


 ――大丈夫です、任せてくださいな」


「……頼りにしてるよ。ミーナがいてくれて、本当に良かった」


その言葉に、ミーナの表情が一瞬だけ柔らかく揺れた。




けれど次の瞬間には、いつものように背筋を伸ばし、台所の準備に戻っていった。






sideルアルク




あの朝のことは、決して忘れられない。




いや――忘れるつもりも、初めからなかった。




朝焼けに染まる教会の窓辺。




その光に透けるように、唇に触れたときの温もりも、深い湖のような彼女の瞳の揺らぎも、耳に残るあの声も。




「忘れてください」と、震える声で告げられたその言葉でさえも、彼は大切に胸の奥へとしまい込んだ。




まるで壊れやすいガラス細工のように、誰にも気づかれぬように、そっと。




それからというもの、教会の空気に微かな違和感が混じり始めた。


懺悔室に差す陽光はいつもより冷たく、聖歌の調べはどこかぎこちない。


彼女の名を口にする者はもういない。




けれど、その不自然なほどの静けさが、かえって彼を苛んだ。




交わされる文書、教会上層部の視線。


まるで獲物を探すかのように、彼らに見張られているような気がした。




彼女を追っているのだろうか?


だとしたら、何のために。




彼は、何も知らされていない。


知る権利も、語る資格も――とうに失った。




――いつか、教会にユリカとの仲を認めさせる。




彼はそれだけを己に誓い、ただひたすらに祈りの言葉を紡ぎ、教会での地位を築くために神に向き合った。


人生の何もかもを縛られてきた彼だが、ただ一つ、心のままに祈ることだけは、今も彼の中に残されていた。




神が何とかしてくれるなんて、そんな都合の良いことは望んでいない。




(どうか……どうか、あなたがどこかで、安らかに過ごせていますように)




その祈りは誰にも向けられず、教会の分厚い壁と天井に阻まれ、ただ静かに彼の胸の中に降り積もっていく。。






sideユリカ




診察を終えたその日、ユリカはシェイの案内でナーバ家へと移った。




玄関に現れたのは、灰色の髪を後ろでまとめた、品のある年配の女性だった。


丁寧な所作と柔らかな笑顔。


その人の周囲には、“あたたかさ”の輪郭がそっと滲んでいた。




「あ……あの、初めまして。ユリカ・エレディアです。お世話になります」




自然と背筋が伸びて、少しだけ堅い声になってしまう。


だがその緊張をほどくように、女性――ミーナは、穏やかに首を横に振った。




「どうぞ、お気遣いなく。


 今はまだ、お身体がいちばん大切な時期です。


 ゆっくりなさってくださいませね」




その言葉に、ユリカの頬がわずかに緩んだ。




「この方が、ミーナさんです」


とシェイが紹介すると、ミーナはにこりと微笑み、少しだけシェイの背に手を添えた。




「シェイ様がこうして“女性を家に迎える”のは……おそらく初めてですね。


 私、内心とても嬉しく思っております」




「……ミーナ、それは……」




「まぁ、失礼を。けれど本当のことですから」




からかうような調子ではない。


けれど、長年仕えてきた者にしか出せない“親しみ”がそこにはあった。


ユリカはそのやり取りに、思わずくすりと笑ってしまう。




「お部屋の準備は整っております。


 昼には胃にやさしいスープをご用意しておりますので、どうぞ無理なさらずに」




「ありがとうございます……」




ミーナの所作には、押しつけがましさも、遠慮深すぎる遠さもなかった。




その屋敷は、見た目こそ控えめだが内部は広く、まるで学校のように東西に伸びた長い片廊下に南向きの部屋が整然と並んでいた。




ユリカにとっては、あまりにも広く静かな場所だったが、どこか落ち着ける空気もあった。




「こんなに大きなお屋敷に、一人で住んでいたんですか?」




ユリカの問いに、シェイはふと少しだけ間を置いて、やわらかく答える。




「もともとは、それなりに人の出入りもあった家なんだ。


 今は、ミーナたちがいてくれるから寂しくないよ」




広すぎる屋敷に静けさが広がるのを嫌うシェイは、使用人というより“家族”としてミーナたちと共に食卓を囲み、気取らない日常を築いていた。


食卓には笑い声が絶えず、豪奢さよりも温かさのある空気が流れていた。




ユリカはその言葉に、小さく微笑んだ。


少しずつ、この場所に馴染みはじめていた。




案内された客室は、陽の差し込む南向きの一室だった。


すぐ隣には、シェイ自身が寝泊まりする客室があり、「何かあったときにすぐ対応できるように」と説明される。




奥にある執務室や研究室ではなく、彼があえてこの部屋を選んだ理由が、そこにあった。




カーテン越しに差す午後の陽光と、窓の向こうに広がる手入れの行き届いた庭。


古めかしいが丁寧に整えられた室内には、確かな“人の手”が感じられる。


その空間に、ユリカは思わずそっとお腹に手を添えた。




(この場所なら……きっと、大丈夫)




ユリカが台所の様子をちらりと覗くと、ミーナが何やら棚の上に手を伸ばしていた。


隣には、庭仕事の途中だったのか、袖をまくった年配の男性――トマスが脚立を支えている。




「……無理するなって、言っただろ。俺が取るから」


「でもあなた、さっきも腰が――」


「腰は元気だ。……ちょっと鳴っただけだ」


「その“鳴った”が問題なんですけど」


夫婦の何気ないやり取りに、思わずユリカは口元を押さえて笑った。




「あら、ユリカ様。失礼いたしました、お騒がせしてしまって」


「いえ……なんだか、素敵だなって思って……」


トマスがこちらを向き、少し照れくさそうに帽子をとった。


「ミーナの旦那のトマスです。


 庭の手入れくらいしかできませんが、よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」




軽く頭を下げ合うと、トマスは工具箱を抱えて庭の方へ戻っていった。


去り際に「お昼までには終わらせるぞー」と軽く手を振る声が、どこか少年のようで微笑ましい。




「……賑やかで、あたたかいですね」


ぽつりとユリカが漏らすと、ミーナがふと優しい目を向けてきた。




「ここは、あなたの“仮の家”ではありませんよ。


どうか“居場所”だと思って、甘えてくださいな」


ユリカは、胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。




食堂に通されると、そこには木の温もりを感じる大きな長テーブルが置かれていた。


本来なら十人以上が座れそうなその食卓を、今はミーナとトマス、シェイ、ユリカ――たった四人が囲んでいた。




「スープだけでもいいからね」と言ったミーナの言葉通り、卓上には胃にやさしそうなスープと柔らかなパン、香ばしい野菜のグリルが並んでいる。




「全部食べなくていいんだ。食べられるぶんだけで」




そう言いながらも、シェイはどこか期待しているような視線を隠せない。


ユリカがスプーンを手に取り、スープを一口すすると、その表情がふっと緩んだ。




「……おいしい」




その言葉に、ミーナが嬉しそうに頷き、トマスは「そりゃあ、ミーナ特製だからな」と胸を張る。




「……ちゃんと味がわかるの、久しぶりかも」


ぽつりと呟いたユリカの言葉に、シェイの目がふと細くなる。




「そっか。よかった」




それだけで、彼は少し安心したようだった。




「ユリカ様、もし足りなければ遠慮なく仰ってくださいな。


 甘いものも後ほど少しだけご用意しておりますよ」




「えっ……そんな、まだ全部食べていないのに……」




「“まだ”ということは、“もう少し食べられるかもしれない”ということですね」




ミーナの言葉に、ユリカはふっと笑って、首をすくめるように頷いた。




「……あたたかい食卓って、いいですね」




その呟きは、誰に向けたわけでもなかったが、隣にいたシェイが、そっとパンをちぎりながら口元で笑った。




「でしょ?僕も、そう思う」




その日の昼食は、にぎやかすぎることも、気を使いすぎることもなく、けれどユリカにとっては、久しぶりに「ちゃんと食べた」と言える食事になった。




そして――それは、「ここにいてもいいのかもしれない」と思える、小さな一歩だった。









夜の帳が静かに降り、屋敷の廊下に灯る灯りも、次第にやわらかな色へと変わっていく。


東西に長く伸びた廊下を歩き、ユリカは静かに外へと出た。




昼間はあたたかな陽光に満ちていた庭も、今は夜風にそっと揺れている。


広い石畳の通路を抜け、花壇のそばで立ち止まる。


ふと見上げた空には、深い藍にきらめく星々が、静かに瞬いていた。




(……こんなに空が広く見えるなんて)




ナーバ家の敷地は広く、建物の背後には高い塀や木々が並んでいるものの、南側の庭は開けており、空がよく見える。




小さく呟いた「綺麗」という言葉が、夜の静けさに溶けていく。


そのとき、胸の奥にふと痛みが走った。




――あの藍の瞳を、私は知っている。




(ルアルク……)




思い出すのは、あの夜。


触れた温もり、そっと交わした言葉、そのすべてが胸に残っている。




(……ごめんね。エゴだってわかってる。)


(それでも、あなたを守りたい)




誰に向けたともわからない言葉が、唇から漏れた。




そのとき、廊下のほうから微かな足音が近づく。


振り返らずともわかる。優しい気配が、すぐそばに立った。




「……夜風、冷たくないですか?」




「ううん。気持ちよくて、ちょっとだけ……」




隣に立ったシェイは、それ以上は何も問わず、ただ同じ空を見上げる。


沈黙の中に、あたたかな気配があった。




星がひとつ、流れていった。


願いごとは、まだ言葉にならないままで――。





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