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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第2章 命を告げるとき
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◆3:守りの結界





sideユリカ




医師から病状の説明を受けたあと、ユリカはしばらく呆然とベッドに座っていた。


子どもを授かったことへの戸惑いと、不安と、喜び。胸の奥が絡まり、言葉にできない。




ふと視線を落とすと、枕元に置かれた小箱が目に入った。


蓋を開ければ、淡い白のレースのリボン。




――泣いてばかりだったあの頃に、ルアルクがそっと手渡してくれたもの。




(私の、唯一の女の子らしい宝物……)




指先で撫でると、胸の奥にあたたかな感触が広がる。


ユリカはそっと髪をほどき、リボンを結び直した。




そのとき、病室の扉が小さく開き、シェイが静かに立っていた。


「……それは?」




ユリカは少し迷ってから、小さく笑う。


「……大事な人からの贈り物なんです。ずっと、手放せなくて」




髪に結び終えると、手鏡に映る自分がほんの少しだけ、強く見えた。




「あなたによく似合います」




シェイの声は短く、けれど不思議と胸に残る温かさを帯びていた。




点滴スタンドからぶら下がる透明なパックが、かすかに揺れながら薬液を送り込んでいる。


殺菌の匂いが残る静かな病室で、シェイは枕元に腰を下ろした。




「……気分はどう?」


「……少し、ましになりました」




その声はかすれていたが、先ほどより落ち着いていた。


それでも顔色はまだ青白く、頬には汗の跡が残っていた。




「そっか。とりあえず安心かな。


さっき先生が言ってたけど、少し長めに入院して、ゆっくり身体を整えようって」




「……あの、迷惑……かけて、しまって……」




掠れた声で言うユリカに、シェイは小さく首を振った。




「またそれ言う?僕、君が無理して倒れた方がよっぽど迷惑だから。


 それに、呼び出しの件もどうせ大した内容じゃなかったし、形式だけで済むって最初からわかってた」




そう言って、肩をすくめて笑ってみせる。




「君の代わりに、僕がちょこっと顔出して、適当に調書書いてくるよ。


 ああいうの、こっちも“話を聞いた”っていう記録さえあればいいんだよね」




「……そんなものでいいんですか?」


「いいのいいの。もともと嫌がらせみたいなもんでしょ?


 真面目に受け止める方がバカらしいよ」




ユリカが少し呆れたように目を瞬かせると、シェイは苦笑して立ち上がった。




「じゃ、ちょっと行ってくるね。何かあったらすぐ連絡して。


 ……それから、戻ってきたらまた様子見にくるよ。ひとりじゃ退屈だろうし」




軽やかな足取りで病室を出ていく背中を、ユリカはただ見送った。


気の利いた言葉も、感謝の気持ちも、まだ胸の奥に引っかかってうまく出てこない。




だけど——




(……助かった。ほんとうに)




わずかに震える指先が、布団の端をそっと握った。






sideシェイ




病室のドアを静かに閉めたあと、シェイは深く息をついた。


廊下に漏れる夜の灯りが、どこか冷たく感じられる。




(……大丈夫かな、あの子。こんな怪しい男のこと、簡単に信じてしまうほど弱ってる)


(だからこそ、しっかり守ってあげないと)




――魔力は、確かに“白”だった。




あれほど強く、純粋な色――教会の中でも直系と呼ばれる家系の証。




「生きようとしてるんだな……あんなに小さいのに。


 ……彼女が望むなら、僕も支える。


 でも父親を無視した選択肢は取らせない。


 子どもにとって一番大事なのは“両親”だから」


自分の中に浮かんだ言葉に、シェイはそっと目を伏せた。




魔力の波長、色、強度――すべての“魔術的”データは、彼の中で答えが出ていた。




だが、それだけでは足りない。




彼が足を運んだのは、王立医療機関の奥――特殊診療科に籍を置く古い知人の元だった。




「……来ると思ってたわよ」




静かな声に振り向くと、白衣をまとった女性医師がいた。


栗色の髪を後ろでまとめた彼女は、専門医としてだけでなく、旧友としての目でシェイを見ていた。




「魔力的には“白”。妊娠週数は……おそらく六週程度だろうね」


「うん。そこまでは、もう分かってる」


「でしょうね。……あなたが知りたいのは、魔力じゃなく“身体”のほうでしょ」




その言葉に、シェイは小さく笑った。




「僕も医師免許はあるけど職業は医者ではないし、産科は専門外なんだ。


 魔力の干渉で母体がどうなるか、そこだけは――君の見解を聞きたかった」




「正直、楽観はできないわ。


 体が強い方じゃない上に、魔力の質が違いすぎる。


 本人にはまだ言ってないけど……拒絶反応が起きてるようにも見える」




「……だろうね」




彼の目が、ふっと陰を落とす。


自分の知識では、そこに踏み込む確信が持てなかった。


だから来たのだ。




知識が足りないのではない。


ただ――“生きている人間”に向き合う時、自分だけの判断では足りないことがある。




「……彼女の体を守りながら、あの子を産ませる方法。


 魔術側からの支援は、僕がどうにかする」




「私は医療で支える。全力でやるわ」




短く言葉を交わすと、ふたりの間にひとつの合意が生まれた。




「それと……この病室。彼女には、ここが最後の“逃げ場”だから」


「分かってるわ。教会には報告もしない。安心して。


 教会にはちょっと思うところがあるの」


「ありがとう、頼りにしてる」




背を向けて歩き出すその背中には、どこか凛とした覚悟があった。




万能ではない。


だからこそ、繋がれる信頼がある――それを知っている者の歩き方だった。






sideユリカ




病室の扉がノックされ、静かに開いた。


手荷物を抱えたシェイが顔を覗かせる。




「……お邪魔するよ。荷物、届けに来た」


「……ありがとうございます」




ユリカが身を起こすと、シェイはベッドの横の小さなテーブルに荷物をそっと置いた。


その中から、ていねいに包まれた小さな包みを取り出す。




「これは――これだけは、僕が選んだ。勝手にごめん」




差し出された包みを開くと、中から小さな木枠の写真立て。


そこに収まっていたのは、もう会えない大切な人の――祖父アルセイドの笑顔だった。




「……アルセイドだよね。立派な顔してる」




ユリカは驚きに目を見張り、言葉を探してうつむく。


シェイは、いつもと変わらない笑みをたたえていた。




「昔、少しだけね。話したことがあるんだ。名前、教えてもらってた。


 ――君がまだ小さかった頃の話だよ」




ユリカは写真立てをそっと胸に抱いた。


懐かしさと、寂しさと、それでも少しだけ救われたような気持ちが、静かに胸の奥を温めていく。






sideシェイ




静まり返った病室で、ユリカは微かに寝息を立てていた。




シェイはその傍らで膝をつき、ゆっくりと掌を彼女の腹部の上に重ねる。


目を閉じると、すぐに感じた。


そこに宿る、白く輝く魔力の鼓動。




(……白、だな。まるで教会の中核にある術式みたいな……)




けれど、それは生まれたばかりの光。


揺らぎ、不安定で、けれど確かな強さを秘めている。




「……君が、彼女を守ってるんだね」




夜、彼女が眠るあいだに、古い資料を開く。


白の魔術は“触れるほど壊れる”。




シェイの力は粗い。


正面からは噛み合わない。




だから包む。


上書きせず、薄く膜を重ねる。




(赤ちゃん、一緒に……お母さんを守ろう)




試しに指先で術式の骨を組むと、ベッドの皺が一度だけふっと和らいだ。




未完成。




けれど、彼女の表情が少しだけ楽になる。




――今はそれでいい。




だけど、確かに母体の魔力を通さず、胎児の魔力で母を守る術だ。




(……この術、今の俺じゃ完成は難しいかもしれない。だが……)




手を止めず、思考を巡らせる。


魔力の流れを補う方法、術式の安定化、白の魔力との調和――




(完成に辿り着くには、きっと……何かが足りない)




それが知識か、相性か、あるいは――。




今はまだ言葉にするには早い。




だが、いつかこの術は形になるはずだ。






sideユリカ




カーテンの隙間から、ほんのり朝の光が差し込んできていた。


空はまだ青くもなく、灰色の中に仄かに橙が混ざりはじめている。




ユリカは窓辺に目をやったまま、静かに息を吸う。


アルセイドの写真立ては、ベッドの脇に置かれている。




夜中、何度か目が覚めたけれど、隣の椅子に腰かけて眠るシェイの姿がそこにあるのを見て、不思議と少しだけ落ち着いた。




「……僕、もうちょっとここにいてもいいかな?」




言葉の端に、ほんの少しだけ遠慮が滲んでいた。




けれど、どこか優しくて。




ユリカは何も言わずに頷いた。


それだけで、シェイは微笑む。




ゆっくり、意識が解けていく。




…………


……






「……おはようございます、ユリカさん。お目覚めはいかがですか?」




ふと目を覚ましたユリカが、ぼんやりとした目でシェイを見上げる。


彼はカップを手にしながら、微笑んで近づいてきた。




「ぐっすり眠ってらしたから、起こすのもったいなくてね。


 ――ちょっと寝言が可愛かったけど」




「……えっ、寝言?」




ユリカがわずかに赤くなりながら身を起こすと、シェイはくすりと笑って肩をすくめた。


「安心してください、内容は秘密です。僕、そういうとこ律儀ですから」




そう言って、彼は手元のカップを差し出した。




「どうぞ。温かいうちに飲んでおいてください。


 昨夜、ちょっとだけ“余計なこと”をしたんで、寝起きは良くなってると思いますよ」




「余計なこと……?」


「ふふ、言い方が悪かったですね。夜のうちに、薄い守りをかけました」


 お腹の子と、あなた自身を包む結界です。


 ……無断でごめんなさい。でも、どうしても必要だと思ったので」




「……そんな、大げさな……」




「大げさじゃないんですよ。


 あなたの中の子――この子の魔力は、すでに純白に近い光を放っている。


 はっきりと、“教会の直系”の色です。


 ……誰が見ても、見間違えないくらいにね」




ユリカが驚きに目を見開いた。




「そんなに……?」


「はい。僕のように魔力を“視る”ことができる人間には、見逃せない光です」




そして、ほんの少しだけ声のトーンを落とす。




「だから、僕の魔力で包みました。


 僕の魔力はちょっと特殊な色で、他の色を“ぼかす”ことができるんです。


 この子の光を覆って、誰にも気づかれないように」




「……それって……そんなに危ないこと……?」


「ええ。教会は黒い噂も多いです。


 もし教会に知られたら、この子は“特別な存在”として――いや、やめましょう。


 今はまだ、不安にさせたくない」




そう言いつつも、彼の目は笑っていなかった。




「……だから、俺は守る。あなたと、この子を。


 それが僕のわがままだとしても、勝手にさせてもらいますよ」




ユリカが何か言おうとした瞬間、彼はふっと表情を緩めて、冗談めかした声で続けた。




「ほんとは“ありがとう”とか“頼りにしてます”とか言ってほしいんですけどね。


 まぁ、それはまた今度でいいです。


 焦らずいきましょう、ね?」




ユリカは、しばらく黙ったままシェイの顔を見つめていた。


あたたかい香りが立ちのぼるカップのぬくもりを、両手で受け止めるようにして持ち直す。




「……ありがとう、ございます」




ぽつりとこぼれた声は、ほんの少し震えていた。




でもそれは、不安からではなく――心がほどけていく音だった。




「私、ちゃんと……守ろうって思ってたんです、自分で。


 絶対に、この子を産みたいから。


 この子を授かったのは、奇跡なんです。


 ……でも、守られるって、こんなに……安心するものなんですね」




「そう思ってもらえたなら、僕の“余計なこと”も意味がありましたね」




優しい声音で返すシェイ。


けれど、その目の奥には、彼なりの覚悟がにじんでいた。




「ただ、さっきも言いましたが、これは前例のない魔術です。


 結界も、魔力の上書きも。


 だから、細かく体調の変化を教えてください。


 痛みでも、気分でも、夢の内容でも構いません。


 どんな些細なことでも“異変”の兆しかもしれない」




「……はい、わかりました」




ユリカは、胸に手をあててうなずいた。


その内側で確かに脈打つ、小さな命の気配を感じながら。




「それと、この魔術には一時的に僕の魔力を“媒介”として流し込んでます。


 だから、あなた自身にも少し影響が出る可能性がある」




「たとえば……?」




「夢に僕が出てくるとか?」




「……それは、もとからです」




「え、まさかもう出てました?それはちょっと嬉しいですね」




思わず笑ってしまう。ユリカもつられて、肩を震わせた。




「……寝言の正体、まさかそれじゃないでしょうね?」




「ふふ、それは秘密です」




わずかな笑いのあとに訪れる沈黙は、どこか心地よく、柔らかい。


ようやく、自分の中に“誰かに寄りかかっていい”という感覚が根づいてきたのかもしれない――ユリカは、そんな予感を抱いていた。




そして、シェイは少しだけ真面目な顔に戻る。


「……無理に気張らないでくださいね。守るのは僕の役目ですから」




彼の手が、そっとユリカのカップを支えるように添えられる。


それはまるで、彼自身が触れてくるのではなく、彼の魔力が優しく包み込んでくれるような、そんな感触だった。




ユリカは湯気の立つカップを見つめながら、ふと視線を落とした。




「……この魔法、どれくらい持つんですか?」




「状況次第ですけど、基本は数日が限界ですね。


 でも、僕がそばにいれば、こまめに維持できます。


 定期的に再調整する必要はありますけど」




「じゃあ……ずっと一緒にいてもらわないと、ですね」




冗談めかして、それでもほんの少しだけ本音が滲んだ。




シェイは一瞬驚いたようにまばたきし、それから少し頬を緩めた。




「――おや。それはつまり、“一緒にいてもいい”って許可ですか?」


「……言ってません」


「えぇー……言ってほしかったなぁ」




肩をすくめておどけて見せるシェイに、ユリカは息を小さく笑いながらも、ふと真面目な表情を浮かべた。




「でも……他の人に、魔法の影響がバレたりしませんか?たとえば、教会の人に……」


「そうですね。魔力を視る力を持つ上層部が接触してきたら、隠しきれないかもしれません。


 その時は、俺が出ます」




「出る、って……」


「交渉でも、戦いでも、必要ならなんでも。


 あなたたちを渡す気はありませんから」




その言葉には、冗談はひとつも混ざっていなかった。




「この結界は“偽装”ではあるけど、僕の魔力を“媒介”にしています。


 つまり、魔力の表層は僕のものと認識される。


 ……“僕の子ども”と誤解される可能性もある。


 ――それでも、やる」




ユリカは言葉に詰まりかけた。


だが、彼の目に宿る真剣な光を見て、静かにうなずいた。




「……構いません。今は、この子のことが一番大事ですから」




その声には、確かな母としての決意があった。




それを聞いたシェイの顔に、ゆっくりと微笑みが浮かぶ。




「なら、安心しました。


 ――あなたの大切な人にも、必要なら僕が説明します。


 ……あなたが望むなら、ですが」




ユリカは驚いたように彼を見たが、やがて静かに視線をそらした。




「……ありがとう」




シェイは少し間を置き、目を伏せる。






「――でも、父親に知らせないままは、本来なら許されないことです。


 子どもにとって、一番の責任を負うのは“両親”ですから」




言葉は静かだったが、ユリカの胸を深く抉った。




(分かっている。分かっているけれど……)




彼が教会という場所でどれほど苦しんできたかを、ユリカは知っている。


幼いころ、彼の父の冷たい視線が彼を追い詰める姿を何度も見てきていた。


あの時の空気――彼が人前で冷たく扱われる姿を、ユリカは二度と見たくないと強く思った。




(私の一言で、彼がまた後ろ指を指される存在になるのなら。


 彼が必死で積み上げているものを、私のせいで踏み潰してしまう――それが、何よりも怖い)




唇を噛みしめる。


選べないことの重さが、喉に引っかかった。




震えを封じるように、結び目を確かめたくなった。


俯いて後頭部に手を伸ばす。


白いリボンの結び目が指先に触れた。




――それだけで、決意は形になった。




(……私は、彼を守りたい)




その動作に込められた想いを、シェイは深く感じ取った。


「あなたの覚悟に、僕のわがままが追いつけるように頑張らなきゃ」




彼の言葉に、ユリカは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


“守る”と“守られる”は、きっと一方通行じゃない。




そう気づいたことが、彼女の小さな一歩だった。





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