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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第2章 命を告げるとき
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◆2:小さな鼓動




sideユリカ



指定された期日、国家治安局――通称ガーディアン本部。




無機質な取調室の椅子に座って、どれくらいが経っただろう。




四角いテーブルと白い壁だけの空間は、時間の感覚さえも鈍らせてくる。




ユリカは背筋を正していたが、体は確実に疲弊していた。


熱っぽさが抜けず、喉が渇く。


胃のむかつきは、さっきから何度か波のように押し寄せてきている。




(……流石に、体力が落ちてる。あんなことがあった後だから当然よね)




ただの疲れ。


そう言い聞かせて、両手を膝の上に置いたときだった。




扉がノックもなく開いた。




ユリカの視線の先に立っていたのは、見覚えのない男だった。




黒髪に、どこか軽さを帯びたスカイブルーの瞳。整った顔立ちに、上質な生地の装い──にもかかわらず、なぜか「軽い」という印象が先に来る。


きちんとした身なりなのに、髪の毛の先だけ妙に自由で。


人の手によって整えられたはずの髪は、ところどころ気まぐれに跳ね、本人の性格すら現しているかのようだ。




だが、その「軽さ」は不思議と場の緊張を和らげていた。


威圧とは正反対。


場を軽くするためだけに選ばれた、計算された明るさ――そんな印象だった。




「ユリカ・エレディアさんですね。はじめまして」


男は、部屋の前でぺこりと軽く頭を下げた。




「国家治安局直属・ガーディアン本部より参りました、シェイフィル・ラファリス・ナーバです。


 どうぞ、シェイで気軽に呼んでください」




その名乗りは、明らかに格式張っていた。


けれど本人はそれを気にしていない様子で、ユリカの様子を見て少し眉を下げる。




「……緊張させちゃったかな。びっくりしたよね。


 えっと……本当はお茶でも持ってきたかったんだけど……」




彼の手元には、袋入りの菓子が覗いていた。


けれどその匂いに、ユリカの胃がきゅうっと収縮する。


唐突に、吐き気がこみ上げてきた。




「……っ」




顔をしかめて前のめりになるユリカを、彼はすぐさま支える。




「わ、ごめんごめん!平気?


 無理しないで、ちょっと横になる?」




慌てるでもなく、けれど躊躇いもなく差し出された腕に、ユリカはすとんと体を預けてしまった。




(……知らない人なのに)




そう思いながらも、拒む気力もなかった。




そして、彼の腕の中に感じたのは不思議な安心感で──けれど、その理由を問う余裕はなかった。






sideユリカ




室内の空気は静かで、ほんのわずかに紅茶の香りが漂っていた。




だが、ユリカはその香りすらも受けつけられず、思わず口元を押さえる。




「……顔色、あんまりよくないね」




シェイが穏やかな声でそう言いながら、そっと彼女の額に手を添えた。




一瞬、ユリカは驚いて肩をすくめたが、彼の手のひらから伝わる熱が心地よくて、動けずにいた。




「少し熱があるみたい。ずっとこんな感じ?」


「……体がだるくて、ちょっと胃がむかついて。ここ最近、ずっと……」




言葉にしてしまえば、それは一時的な疲労ともとれるような症状だった。




けれど、ユリカ自身も感じていた。


“これはただの疲れじゃないかもしれない”と。




「ちゃんと食べてる?寝てる?」


「無理にでも食べてはいます。


 眠れなくて……でもそれは……いろいろ、ありましたから」




「うん。……それは、そうだよね」




一瞬、シェイの目が静かに細められた。




彼女の様子を観察するように、けれど威圧感は一切なく、まるで風がそっと頬を撫でるような眼差し。




「――ユリカさん、君って……魔力を抑えてる?」


「……?」




唐突な問いに、ユリカは戸惑いながら首を横に振る。




「いえ。私、魔力は……持ってないって、ずっと言われてきました。


 教会でも、そう診断されて」


「そっか」




シェイは一度だけ頷いた。


「じゃあ……僕の勘違いかもね。うん、そういうことにしておこう」




そう言って、彼はふっと笑った。


軽く肩をすくめたその仕草は、どこか“からかい”のようでもあって、ユリカは返す言葉を見つけられずに黙り込む。




「医師免許はあるから初期対応はできるけど、判断は先生の領分だよ。


 これくらいの症状、単なる疲れって片づけがちだけど――」




「無理はさせたくない。


 念のためでいい、一度先生に診てもらおう」




「……でも、どこに……?」




「ちゃんとした専門のところだよ。君の体の状態を丁寧に見てくれる。


 そこなら、“教会のような価値観”を押しつけられることはないから」




その言葉の端々に、ユリカ自身もかつて味わった居心地の悪さが滲んでいた。




「無理にとは言わない。


 でも、君の体は、君だけのものじゃないかもしれないよ」




その一言が、静かに胸を打った。




けれど、ユリカはまだ気づいていなかった。


自分の体に芽生えつつある、新しい命の存在に――











待合室から名を呼ばれ、ユリカは少し遅れて立ち上がった。




「ユリカ・エレディアさん、どうぞ」




一歩一歩が重く、眩暈がしそうな足取りだったが、シェイが自然に隣を歩く。




診察室の中は簡素で清潔だった。白衣の女医が優しい表情で迎える。


シェイは小さく一礼して、柔らかい声で言った。




「僕の紹介で来てもらった彼女です。すみません、ちょっと急だったんですが」


「ええ、大丈夫。彼女の体調について、詳しく診てみましょう」




血圧、脈拍、そして簡単な問診のあと、女医は静かに言う。




「症状から見て、つわりのようですね。


 胃の不快感、嘔吐、熱っぽさ……。


 おそらく妊娠初期に起きる悪阻の一種でしょう。


 状態としては少し重めです」




ユリカは返事をしなかった。




ただ、目を伏せたまま、声にならない思考の中でもがいていた。


診察台に上がるよう促され、そっと身を横たえる。




画面に、小さな影が映った。


医師が優しい声で告げる。




「小さくて、まだはっきりとは見えないけど……心臓は、ちゃんと動いていますよ」




モニターから機械の音が「トクトク、トクトク」と一定のリズムで響く。


ユリカは、その小さな点滅から目を逸らせなかった。




涙は出なかった。




けれど、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。


ほんの少しだけ、握りしめた指が震えた。




ああ、本当に……そこにいるんだ。




でも、どうして自分はこんなにも遠く感じてしまうのだろう。




診察を終え、女医は静かに椅子に戻り、カルテに何かを書き込んだ。




「このままだと、体への負担がかなり大きいです。


 できれば、入院をおすすめします。


 点滴で栄養と水分を補って、体力の回復を図るのが先決ですから」




シェイが口を開いた。




「お願いします。入院の手続き、すぐに進めてもらえますか?」




医師は軽く頷き、再びユリカに視線を戻す。




「あなたの体は、魔力の循環が見られません。


 通常であれば、母体がある程度、胎児の魔力を受け止められるのですが……今のままでは、かなり負担が大きい。


 根本的な対処をしていかないと、リスクが高まります」




その言葉の意味を、ユリカはまだきちんと理解できていなかった。


ただ、今は、ただ目の前の現実に追いつくだけで精一杯だった。







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