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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第2章 命を告げるとき
4/34

◆1:鍵と決意




sideユリカ




朝の光に目を細める。


肩に残る体温が、まだ消えていなかった。




――幸せだった。


あんなにも大切に抱きしめられたのは、生まれて初めてで。




けれど現実は残酷だった。




祖父の家は雨に削られ、壁が崩れていた。




もし彼が駆けつけてくれなければ、あの下に埋もれていたのかもしれない。




命を救ってくれた人に、もう会わないと決めるなんて矛盾している。




それでも、彼の未来を壊すわけにはいかなかった。




(好き。愛してる。……だから、行けない)




祖父の写真立てと、わずかな衣服だけを抱え、彼女は街の方へと向かった。




鐘の音が遠くで響く。けれど振り返らない。


あの場所に戻れば、また甘えてしまう。




だから――二度と。






荷をまとめて門を出た時点で、行く先は決めていなかった。


市場通りの外れで、洗い桶を抱えた女が足を止めた。




「部屋、探してる顔だね。裏手の借家、一室空いてる。六畳の一間。紹介料は二か月分」


女が肩をすくめて大家を呼ぶ。




しばしの沈黙ののち、古い鍵が卓上で鳴った。




「家賃は前払い二か月分が条件。

 窓は中庭向きで日当たりはいい。

 壁に釘穴があるが我慢しな」


「揉めごとは一切ご法度だよ。

 音、近所トラブル、宗教沙汰――何かあれば即日退去。

 前払いは返さない」




胸の奥で小さく息が詰まる。




紹介料二か月、家賃二か月――合計四か月分。


けれど、背に腹は代えられない。




「……払います」




鍵は手に余るほど重い。


財布は羽のように軽い。




狭い階段を上がると、木の床に薄いラグ、小さな窓、壁際に低い棚。


ベッドと小机を置けば、ほとんどいっぱいだ。




小窓の向こうに、遠くの鐘楼が針の先ほどに見える。


荷を置き、息を吐いた。




(ここからでいい。ここから、やり直す)




sideユリカ



薄曇りの朝。古びた木造アパートの六畳ほどの一間。


壁は傷んで隙間風も入るけれど、今の私には十分すぎるほどだった。




窓辺の机には、祖父アルセイドと幼い自分が並んだ写真立て。




「おじいちゃん、見ててね。私、ちゃんと生きてるよ」




誰に聞かせるでもなく呟く。




部屋の片隅には最低限の荷物。


ここは「誰の庇護にも頼らない場所」だ。




(大丈夫。ここから、また始めればいい)




そう思った矢先、郵便受けの音に心臓が跳ねた。


差出人は国家治安局――「ガーディアン」。




『神官ルアルク・ノア・アストレイドの体調急変に関する調査のため、事情をお伺いしたく――』




丁寧な文面。


だが明らかに“圧力”だった。




(……毒を盛った、なんて)




ありもしない通報を理由に、記録だけでも残すつもりなのだ。




(あの人の未来を思ったはずなのに……)




そっと息を吐く。


誰の保護も受けないということは――誰にも守ってはもらえない、ということだった。




(……どうせ逃げられない。なら、自分の足で行くしかない)


そう思いながら、彼女はその日を迎えた。







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