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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第9章 裁きの時
31/34

◆2:結び直す光

※この話には性的な示唆を含む描写があります。苦手な方はご注意ください。





sideユリカ




――数日後。




新たな船出を祝うため、王城には光と音が満ちていた。






深い青のタペストリーに、燭の金がゆらぐ。




ユリカはリシェリアの手を握り、もう片方はシェイが取る。


半歩うしろにはルアルク。


髪に結んだ赤いリボンが、鼓動みたいに小さく跳ねる。


藍の瞳は、どう見てもルアルクと同じ色だった。




道が割れ、王が現れる。


片腕に幼い第三王子――セレスタン殿下。


乳母は影のように付き従い、一定の距離を保って見守っている。


王の掌だけが、国家の所作の中でやさしく自然だった。




シェイが一歩進み、静かに頭を垂れる。


ガーディアンの礼装に黒のマントが落ち着いた雰囲気を醸し出していた。




「陛下。ユリカ・ナーバ、ルアルク・ノア・アストレイド――そして、僕たち三人の娘、リシェリア・セラ・ナーバ・アストレイドにございます」




リシェリアはユリカのまねをして、ぺこり。


王は殿下を抱え直し、目もとにわずかな笑みを浮かべる。


「そうか。――よいではないか、少し遊ばせてやれ」




階の上から白い光沢がすべり、空気の温度がわずかに下がる。


王妃だ。


肩の宝飾が静かに揺れ、そのまなざしが真っ直ぐ落ちてくる。




「――駄目でございます。


 たとえ公に認める段取りがあろうと、庶民腹の子を殿下に近づけるなど――」




リシェリアの指が、ユリカの手をぎゅっと握る。


その瞬間、ルアルクは半歩前に出て、娘を軽く抱き上げた。


声は柔らかいが、決して必要以上にへりくだらず。




「無理に遊ばせる必要はありません。私がこのまま抱いております」




王は短く息をのみ、低く告げた。


遠くには響かないが、否定を許さない重さで。




「この場は私が預かる。


 ――それに庶民ではない。ナーバ公爵家の令嬢だ。


 宮中の礼を違えるな」




側に控えていた第一王子と第二王子が、わずかに視線を交わし、王妃から静かに目を外す。その冷ややかさは、言葉より雄弁だった。




言葉が場の向きを変える。


王妃の睫毛がかすかに震え、口もとが固く結ばれた。


乳母が一歩進み、殿下のそばで静かに目を配る。


余計な近さにも、無用な遠さにもならない距離――それだけで十分だと告げるように。




シェイが姿勢を低くして、娘の視線に合わせて囁く。


「ご挨拶だけにしよう、リシェ」


「……うん」




ユリカは胸の前で手を重ね、見本を示す。


赤いリボンが小さく跳ね、リシェがちいさな声で――


「ごきげんよう、セレスタン殿下」




王の口もとに、かすかな笑み。


殿下はぱち、と瞬いて、小さな掌を空にのばした。


王の衣にぽとりと落ちるその手を、王がやわらかく包む。


乳母は、ただ見ている。


それ以上は近づけず、それ以下にも引かせない、きれいな監督の線。




十数呼吸の短い邂逅が終わると、王は「騒がすな。――楽しめ」とだけ置いた。


王の列が再び動き出す。


階上の王妃は黙したまま。


さっきの冷たさは、ほんの少しだけ薄れていた。




ユリカはルアルクの腕の中のリシェの背を撫で、シェイと目を合わせて小さく頷く。


ほどけないように、自分の結び目をそっと押さえながら。




王の列が遠ざかると、広間のざわめきが少しずつ戻ってきた。


音楽が一段、やわらかくなる。銀盆がすれ違い、人々の笑い声が表面を覆い直す。






「ユリカ様……」


控えめな声が横から落ちた。


白い縁取りのマントを羽織った若い助祭と、薄青のヴェールの修道女が二人。


後ろに、助産院で見かけた袖口の刺繍をもつ女性が続く。




「今までは、何も申し上げられず……。


 ずっとお力になりたかったのに、言葉にできなくて。


 本当に、申し訳ありません」




ユリカは首を振る。


「顔を見せてくださっただけで、十分です」




「――それにしても」


修道女のひとりが、ふっと目を細めた。




「お父様そっくりですね。


 その藍の瞳、まるで若い頃の……」




視線が自然にルアルクへ向かい、彼は「私に似ていますか」と、どこかくすぐったそうに微笑む。


腕の中のリシェが、胸元に頬を寄せた。




「ささやかなものですが」


助祭が差し出した小さな包みを受け取る。


白糸で小花を縫い取ったハンカチ。


角に、控えめな水の印。




「祝福のしるしです。


 公の儀ではありませんが……清い水のような日々を」




「ありがとうございます」


言葉にすると、胸の奥の結び目が少しゆるむ。




包みをほどくと、白いサテンの細いリボンがするりと落ちた。


リシェがぱっと目を輝かせて拾い上げ、自分の赤い髪リボンの結び目をちょんと指す。




「きれい……これ、ここにもうひとつ“ちょうちょ”していい?」


「あとでね。ケーキを落とさないうちに」とシェイが可笑しそうに囁き、ルアルクが頭にそっと手を置く。




「僕があとできれいに留めてあげるね」




「甘いのは、お母様から先にどうぞ」とシェイ。


「じゃあ――ひと口だけ」


フォークの先のクリームを味見すると、リシェが目を丸くして身を乗り出す。


ルアルクが慌てて腕を添え、「落ちますよ」と笑う。


助祭たちの輪に、くすくすと温かい笑いが走った。




「公の場ではありますが」


修道女が声を落とす。




「母体保護の件、こちらでも動けることを整理しています。


 現場の声を集めて、近くお届けします。


 ……遅くなってしまったけれど、ここからはわたしたちの番です」




シェイが軽く会釈し、「心強い」と短く返す。


視線の端で、黒いマントがわずかに揺れた。




「ルアルク様も、よくお顔を上げてくださいませ」


年配の助産院の女性が、冗談めかして肩を叩く。


「似ていると褒めると、みなさん本当に顔が柔らかくなるのですよ」


「そうでしょうか」


「ええ。ご本人が一番、わかっていらっしゃる」


彼は照れたように視線を落とし、「私の自慢です」とだけ言って、リシェの髪を撫でた。




音楽が少し速くなる。


遠くの床で、若い兵と侍女が一組だけ、控えめにステップを踏むのが見えた。


リシェが靴先でリズムを取る。


赤いリボンが、またひとつ弾む。




「踊る?」とシェイがいたずらっぽく囁き、娘が大きく首を振った。


「いまは、ケーキ!」


「賢明だ」


皆で笑って、皿を少し寄せ合う。




「――ユリカ様」


別れ際、若い助祭がもう一度だけ頭を下げた。




「あのとき声を上げられなかった者が、ここにたくさんいます。


 だからこそ、これからは一緒に」


「はい」


ユリカはハンカチを胸元に当てて頷く。


白糸の小花が、灯りにふわりときらめいた。




王の「楽しめ」という一言が、遅れて胸に降りてくる。


刺さった棘の先が少し丸まり、代わりに温かなものが指先に残った。


ほどけないように、ユリカは結び目をそっと確かめる。






sideユリカ




祝宴の余韻がまだ窓硝子に残っている。


テーブルに並んだ二つのグラスは、外気でほんのり曇っていた。




シェイが静かに腰を下ろし、琥珀を少し揺らす。


「……疲れました」


ぽろりと落ちた本音に、ユリカは小さく笑ってグラスを合わせた。


「おつかれさまです」




かちん、と音が弾み、沈む。


「僕は、公では強がれますけど……」


シェイは視線を落とし、照れたように唇を結ぶ。


「本当に頑張れるのは、あなたが隣にいるからですよ」


言ってから自分で頬を押さえた。


「……酔ってますね、僕」


「知ってます」


ユリカの笑みはやわらかい。


否定も突き放しもしない笑み。




グラスの中で琥珀が揺れ、沈黙が一拍落ちた。


「……欲しいと願ったからといって、すぐに授かるものではないんですね」


不意に漏れた言葉に、ユリカが瞬きをする。


「……シェイさん」


「こういうのは“タイミング”といいますが――医学を学べば学ぶほど、命の誕生は奇跡だと実感します」


彼は少し照れたように笑い、グラスを指先で回した。


「僕は一度、実子を持たないと決めた。


 それでも、その覚悟を覆してでも欲しいと思ってしまったけど……都合よくはいかないものです」


その声音には、焦りではなく、深い諦観と、わずかな祈りが混じっていた。




ユリカは答えを急がず、ただグラスを軽く合わせる音で応じる。


その沈黙に安心したように、シェイの口もとに小さな笑みが戻った。




「俺は……本当はもっと欲張りなんです」


琥珀がグラスの壁を擦る。


「ユリカさんの全部を、俺に向けてほしい」


普段なら言葉にしない欲が、舌に乗る。


ユリカは堪えきれず、肩を揺らした。


「……シェイさんって、やっぱり可愛い」


耳まで赤くなって、シェイは小さく拗ねた声を出す。


「可愛いは俺には似合わない」


けれど次の瞬間、彼はユリカをそっと抱き寄せた。


「……でも、そう思ってくれるなら悪くない」




呼吸が近づく。脈が同じ拍になる。


「……ユリカ、目を閉じてください」


「えっ……?」


「大丈夫です。俺を、信じて」




驚きながらも、ユリカはゆっくりと瞼を伏せた。


触れた唇の温度に、心臓が跳ねる。


「……ずるい人ですね」


「俺はずっと、こうしたかったんです」




杯を置いた手と手が自然に絡む。頬に沿う指が熱を記憶して、浅い口づけは深くなる。


唇が離れるわずかな間だけ、ふたりは小さく息を継ぐ。




「……愛してる」


ユリカの声は、小さいのに、はっきりしていた。




一瞬、シェイの瞳が見開かれる。


次の瞬間には、表情が堰を切ったように崩れた。


返事の代わりに彼の喉が震え、言葉より先に笑顔がこぼれる。


防ぎようのない、嬉しさだけの笑顔。


「ユリカさん……もう一回言ってください」


ユリカが恥ずかしさに言葉を失うと、シェイは笑って身を寄せる。


「じゃあ僕が、奪いに行きます」


言葉をキスでそっと塞ぐ。


指先が頬から髪へ、髪から首筋へ――と、それ以上は触れないように、でも離れないように。




「……ユリカ……もう、抑えられません」


熱の合間に落ちたひとことに、ユリカははっと我に返る。


「ここは、リビング、です」


少し困ったように、シェイが笑った。


「……じゃあ、移動しましょうか」




次の瞬間、視界がふっと高くなる。


「――っ!シェイ!?おろして!」


「暴れないでください。危ないですよ」


言葉とは裏腹に、抱き上げる腕は軽々しくない。落とさないように、揺らさないように、大切なものを包む抱き方。


ユリカは赤面して、彼の首にしがみつくしかなかった。




(……こんなふうに抱き上げられるなんて、思ってもみなかった)









寝室の灯りはひとつ落として、琥珀の輪だけが床に広がる。


窓の外の風がカーテンを揺らした。


シェイがそっとユリカを降ろし、ナイトテーブルに小さな包みを置く。


祝福の包みに結ばれていた細い白いリボンが、灯りにほそく光った。




ユリカはその白を指先で拾い、シェイの手首にゆるく一巻きして、蝶結びにする。


「――離れないでの印」


言葉より先に、彼の喉が小さく鳴った。


照れた笑みが浮かび、すぐ甘さにほどけた。


「命令なら、喜んで。……ほどけたら、何度でも結んでください」




視線が絡み、息が触れる。


肩に落ちた布の気配、指で確かめる温度、耳もとでほどける名前。


触れるところは増えるのに、乱暴さはひとつもない。


ただ、確かめる。ここにいる、ということだけを。




「俺は……本当は、ずっと怖かった」


額を合わせ、シェイが低く言う。


「あなたに触れて、あなたを欲しがる自分が、あなたを傷つけるかもしれないことが」


「傷ついてない」


ユリカは首を振る。


「大丈夫。だって今は、わたしたちが選んでいるから」




その言葉に、彼の肩から小さく力が抜けた。


唇が笑みにほどけ、次の瞬間にはもう、熱に引かれるみたいに抱き寄せている。




キスは甘く、長い。


間に落ちる息を拾い合いながら、ふたりは同じ速さで深くなっていく。


光が低い位置で揺れ、影が壁に重なる。


時間はゆっくりになる。針の音より、鼓動のほうがはっきり聞こえた。




名前を呼ぶたび、胸の奥の結び目がきゅっと強くなる。


言葉はもう、たくさん要らない。触れた指先がすべてを伝えてしまう。


夜は静かに、けれど確かに甘く過ぎていった。






乱れを直した髪に、白い蝶結びを彼の手首から外してひと結び置く。


今度はほどけやすい片結びで。


「これで、また結べます」


「何度でも」


シェイはユリカの額に口づけ、彼女は瞼を閉じた。


重なる掌と掌のあいだで、鼓動がゆっくりとそろっていく。




「……時間の長さより、濃さでいえば」


シェイが囁く。


「あなたに叶う人はいません」


「じゃあ、今夜は勝ちですね」


「完敗です」




灯りを落とすと、暗闇はやわらかく、温度だけが残る。


手首と髪に分け合った白が、闇の中で小さく触れていた。









薄い光がカーテン越しに落ちていた。


ユリカは身を起こし、髪に結んだ白い蝶結びを指先で確かめる。隣で眠るシェイの手首の内側に、細い輪の跡が淡く残っていた。




そっと指でなぞる。


その温度に、彼の睫毛がかすかに揺れて、ゆっくりと目を開ける。




「……跡、ついちゃってます」


「痛くはありません。むしろ――嬉しい印です」




「結び癖、ついちゃいますよ?」


「なら、結んでもらえますか。今夜も」




ユリカは笑って、小さく頷く。


手首の跡に唇で短い“おまじない”を置くと、シェイはくすぐったそうに目を細めた。




「ほどけたら、何度でも結べばいい」


「ふふ、そうですね」




白い蝶結びが、朝の光でひとしずくきらめいた。





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