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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第1章 崩れ行く日々
3/34

◆3:一夜のぬくもり、そして別れ

※この話には性的な示唆を含む描写があります。苦手な方はご注意ください。



sideルアルク



教会の鐘が、静かに時を告げる。


夜の帳が落ちる頃には、雨はすっかり本降りになっていた。



ルアルクは、懐灯を手に、教会裏手の道を急ぐ。

水を含んだ石畳に足を取られそうになりながらも、視線はまっすぐに小さな家の灯りを目指していた。



(大丈夫、彼女の家は……被害のなかった場所に建て直された。

土台も補強されている。危険は――)



自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。


それでも、胸の奥でざわつく感覚が止まらなかった。




彼女の祖父が亡くなった、あの土砂災害の記憶がよみがえる。



同じような雨、同じような空の色。



どれだけ安全策を講じていようと、自然は時に、容赦がない。



家の前に辿り着くと、戸は閉まっていた。


戸口の脇に細い亀裂が走り、梁から白い粉がぱらぱらと落ちている。


灯りはついているが、人の気配が薄い。




ルアルクは一度深く息を吸い、躊躇いがちに声をかけた。



「……ユリカ。いるんだろう?」



返事はない。



それでも彼は、そっと扉に手をかける。




鍵は――かかっていなかった。




「ユリカ!」



床に小さくうずくまる姿があった。肩が震え、頬を濡らしている。



(泣いている……ユリカが)



駆け寄り、膝をつく。手を取ると冷たい。




「ここは危ない。――来て」



抵抗する気配はなく、小さなうなずきが返った。



(今夜だけでいい。彼女を独りにしない)



雨音の中、二人は走り出した。


見咎められない裏道を選び、教会の目を避けて、まっすぐ自室へ。





sideユリカ



扉が閉まると、雨の音が遠くなった。


二人とも息が上がっている。


床に水滴が点々と残り、外套から冷たい雫が落ちる。



「タオル……すぐに」


慌てる手つきで取り出した布を、彼が迷わずユリカの頭に被せる。



「風邪ひく。――ごめん、強引だった?」


「……ううん。連れてきてくれて、ありがとう」



濡れた髪を押さえながら顔を上げると、藍の瞳が近い。


夜空みたいに深く、星灯りのように優しい。



ユリカにとって、こんな近さは初めてだった。


視線が合うたび鼓動が跳ねる。



「怖かったでしょう」



頷こうとして、声が勝手に漏れた。



「もう……無理なんだよ」



震える息。



次の瞬間、彼の腕が私を包む。



「大丈夫。もう大丈夫」



その腕に包まれた瞬間、ふわりと彼の匂いがした。


雨に濡れた衣服の奥から漂う、やわらかなぬくもりのような香り。



(安心するのに……どうしてこんなに鼓動が早いの)



落ち着くはずなのに、胸がざわめいて仕方がなかった。



彼の手が、濡れた前髪をそっと払う。


頬に触れる指先が、驚くほど丁寧で、こわいくらい優しい。



「ユリカ」



名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。



「……ルアルク」



自分の声が、やけに素直だった。




唇が触れる。



静かに、確かめるように。



迷いは、あった。




それでも――私の方から目を閉じた。



(この夜を、忘れない。たとえどんな未来が待っていようとも)



言葉は交わさない。



代わりに、抱きしめる力と、触れる手の温度で、全部を伝え合う。



欲望ではなく、「愛おしい」という感情だけが、行き先を選んでくれた。



「……大丈夫?」と囁く声に頷くたび、壊れ物みたいに扱われる。


息がこみ上げ、涙が出そうになる。



(こんなふうに“だいじに”されたの、初めて)



気づけばユリカも、彼を抱き寄せていた。



(反省なんて、たぶんできない。――戻れるとしても、私は同じ選択をする)



互いにしっかり抱き合いながら、胸がいっぱいになった。




全身で自分を愛してくれている――ユリカはそう感じ、涙が滲む。



幸せすぎて、涙がこぼれる。



腕の中に包まれて、ぬくもりに触れて、何度も確かめた。



唇が触れるたびに、心が震えた。



頬を伝う熱を彼が拭う指の感触を、ゆっくり覚えていく。




雨の夜は、静かにほどけていった。





sideユリカ



うっすら明るむ気配で目が覚めた。



肩に彼の寝息。腕の重み。体の奥が少し、痛む。



(幸せ、だった)



それでも、選ぶのは別れだ。



彼の未来を私が奪うことはできない。


そっと身を起こすと、彼も薄く目を開けた。




言葉を探す私より先に、彼の方が口を開く。



「僕と、ここから――一緒に行こう。何もかも置いて、誰も知らない場所へ」



祈りみたいな声。


嬉しくて、怖いほど幸せで、そして怖いほど残酷だ。




「……だめだよ、ルアルク。私が行ったら、あなたは――」


「構わない」




言葉が詰まる。



(“好き”だって言ってしまったら、本当に戻れなくなる)



でも、今日だけは。




「……好き。愛してる。ずっと。――だから、行けないの」




短い沈黙が落ちた。


雨の名残だけが耳の奥で細く鳴る。



伸ばせば触れられる距離なのに、彼は拳を握りしめたまま動かない。



喉仏がわずかに上下し、一度目を閉じて呼吸を整える。


視線が重なり、ほどけて、また結び直される。




――そしてようやく、声が出た。




「君は後悔してるのかもしれないけど……それでも、僕は幸せだった」



彼の瞳が揺れ、微笑むように滲む。



喉が熱くなって、顔を上げた。



「ありがとう、ルアルク。――私も、幸せだった」



短く、優しい口づけを最後に置く。



踵を返す前、彼の指先が宙で止まり、それから静かに降りた。


呼び止めないという決意と、呼び止めたい本心とが、同じ手の中で揺れていた。




(ありがとう。愛してくれて。私もあなたを、ちゃんと愛していました)



扉を出る。



振り返らない。


雨は小やみ、空の端がわずかに明るかった。




sideユリカ



祈りの鐘が低く鳴る。




朝靄の廊下で、育てのシスターに出会う。



「まあ、早いのね。……顔が赤いけれど、具合は?」



ユリカは思わず背筋を伸ばす。


歩みが自分でもぎこちないのがわかった。



「大丈夫です。昨夜の雨がひどくて……家が、少し心配で」


「そう。それは不安ね。危なければ、しばらく身を寄せる先を――」


「いえ、だいじょうぶ。……自分で何とかします」



言葉の端に熱が残る。



背後から冷えた声が落ちた。



「やっと身の程を弁えたか」


古参の神官が侮蔑を隠しもせずこちらを見る。



「神に仕える者の傍に、魔力もない娘が居座るなど――」




「失礼ですが、朝の祈りにはまだ時間がありますよ」


シスターの穏やかな一言で空気が切れ、神官は顔をしかめて去っていく。



ユリカは胸元で拳を重ねて、震えを押さえた。




「どこか行くあては?」


シスターの問いは静かだった。



「……まだ決めていません。でも、大丈夫です」



うなずく代わりに、シスターは胸の十字架に触れて小さく祈った。



「せめて、薬草茶を持っていきなさい」


「ありがとうございます」



門を出る前に一度だけ振り返る。




(ありがとう)



――声にはしない。


シスターは遠くからもう一度、そっと祈ってくれた。





sideルアルク



扉が静かに閉まった。



彼女のいない部屋は広く、やけに音が響く。



(僕は、ちゃんと手を伸ばした。言葉も想いも、できる限りを)



それでも彼女は、未来を選んだ。



僕ではなく、僕の未来ごと。



頬に残る涙の温度。


震えながらも抱き返してくれた腕の記憶。



(忘れろと言われても、無理だ)




一生、この夜を抱えて生きていく。




それでいい。




なぜなら――





指先に、まだ彼女の体温。




(僕は、幸せだったから)





窓の向こうで、雨がやんだ。




このあと夜に、第2章と第3章も投稿する予定です。

よろしければ、またのぞいていただけると嬉しいです。

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