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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第4章 選んだ道
12/16

◆1:契約から始まる夫婦




sideユリカ




その日の夕食は、いつになく華やかだった。


食卓に並ぶ料理は、どれもミーナの得意料理ばかり。




ユリカは最初こそ驚いたものの、途中からは何も言わずに微笑んだ。




きっと、気づいているのだ――


ミーナが、このささやかな“祝いの席”を用意してくれていることを。




「お口に合えばよいのですが、奥様」


料理をよそいながら、ミーナがふわりと優しく言った。




その一言に、ユリカは少しだけ目を見開き――そして、頬を染めて笑った。




「……はい。ありがとうございます、ミーナさん」




初めて呼ばれたその言葉。


その響きが、少しくすぐったくて、でもどこか嬉しくて。


ユリカは、目の前で笑うシェイの横顔を見ながら、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じていた。




夕食を終えた頃には、すっかり夜も更けていた。


ユリカが台所を手伝おうと席を立とうとすると、ミーナがやんわりと止めた。




「今日は特別な日ですから。


 奥様はゆっくりおくつろぎくださいませ」


「……あの、ミーナさん。


 その呼び方、やっぱりまだ……慣れないです」




「ふふ。でも私、ずっとこの日を待っていたんですよ」


その言葉に、ユリカは目を伏せた。




心のどこかで、こうやって誰かに「家族」として迎えられる日が来るなんて、思っていなかったから。




廊下に出ると、シェイが待っていた。


手には湯気の立つお揃いのマグカップが二つ。




「お疲れさま。はい、ミーナさんが淹れてくれたハーブティー。


 今日は特別に、僕の分もって。……ね、いいでしょう?」


「……特別な日ですから、ですね」




ふたりは並んでソファに腰かけた。


窓の外では、遠く虫の声がしていた。


夜の風がカーテンを揺らし、部屋の灯りがやわらかく揺れる。




「奥様って呼ばれて、どうでした?」


シェイがくすっと笑う。




ユリカは少しムッとしたように、でもすぐに頬を緩めて言った。




「……思ったより、嫌じゃなかったです」




「それはそれは、今後も奥様には末永くお仕えいたします」




「じゃあ……せめて家では“ユリカさん”でお願いします」


「はは、了解です」




そのやりとりのあと、少しだけ沈黙があった。


でもそれは、気まずさではなく――居心地のいい静けさだった。




カップを傾けながら、ユリカはふと窓の外を見つめる。




(こうして、日常が始まっていくんだ)




そう思ったとき、隣に座るシェイがそっと、ユリカの手に触れた。


指を絡めるでもなく、ただ、そっと触れるだけの手。




でもそこには、確かに「夫婦」としての想いがこめられていて、ユリカは静かにまぶたを閉じた。




――これは、始まり。




契約から生まれた、小さな家族の形。


けれど、それでもいいと思える夜だった。









その夜、ユリカはひとり寝室に戻った。


灯りを落とした室内は静かで、窓からは夜風がそっと入り込み、薄いカーテンを揺らしていた。




昼間に交わした言葉の数々が、心の奥にやさしく残っている。


婚姻届、指輪、そして「あなたを守ります」というシェイのまっすぐな言葉。




(……本当に、変わったんだな)




そう思って、自分の左手を見る。


そこには、まだ慣れない細いリングが光っていた。


外して眺めてみると内側に刻印。




しっかりとStoYと刻まれた文字に、彼の用意の良さが見えて思わず笑みが零れた。




扉に軽くノックの音がした。




開けると、シェイが控えめに立っている。




「……眠れていますか?」




ユリカの部屋の隣――廊下を挟まずすぐ隣に位置する客間から来た彼は、すぐそばにいたのだと気づいて、ユリカは少しだけ胸を撫で下ろした。




(……ちゃんと近くにいてくれるんだ)




「ええ、まだ少し落ち着かないだけです」


「ですよね。


 ――もし、迷惑じゃなければ、少しだけ話しませんか?」


「はい。


 よかったら、部屋で」




ユリカが促すと、シェイは遠慮がちに部屋の中へ入ってきた。


けれど、いつものように一定の距離を保ったまま、椅子を引いて腰かける。




「今日、なんだか夢みたいでした。


 ずっとひとりだった自分が、こうして誰かの“夫”になるなんて」




「……シェイさんらしいですね」




「え、どのあたりが?」




「そういうふうに、なんでも“自分ごと”にしてしまうところ」


ユリカの言葉に、シェイはほんの少し照れくさそうに目を細めた。




「……でも、あなたの“日常”に僕がいることが、特別じゃなくなる日が来たらいいなと思っています」




その言葉に、ユリカはそっと目を伏せる。




(特別じゃない日々――それは、何よりも欲しかったものかもしれない)




しばらくふたりの間に、静かな時間が流れる。


けれど、その沈黙が心地よく、まるで長く連れ添った夫婦のように思えた。




「じゃあ、そろそろ……僕は自室に戻りますね。


 おやすみなさい、ユリカさん」


「……おやすみなさい、シェイさん」




そう言い合ってから、シェイは静かに立ち上がった。




ドアに手をかけたそのとき――




「……あの」


ユリカが小さな声で呼び止めた。




「今日は……ありがとうございました。


 私、ちゃんと“あなたの妻”になれてますか?」




シェイは振り返り、少し驚いたように目を見開いた。




そして、ゆっくりと笑った。




「なれてます。……もう、十分すぎるほど」




やわらかい声が、胸に染みるようだった。




「あ、そういえば。


 今日は僕、1階に泊まってますけど……普段は2階のほうが拠点なんです」




「あの……前に話していた研究室って、やっぱりすごいんですか?」




「ふふっ、今度案内しますよ。


 あそこは僕の“職場”みたいな場所で……でも、夜は静かすぎるんです。


 だから、今はここにいます」




ユリカはベッドの中で小さくうなずき、シェイを見送った。




扉が静かに閉まると、ようやくひとりの空気が戻ってきた。


けれど、どこかあたたかい。




胸の奥にほんのりと宿る灯を抱きながら、ユリカはまぶたを閉じた。




(私は今、この家で――確かに生きている)




夜は静かに更けていった。









翌朝。


キッチンには、あたたかい香りが漂っていた。




焼きたてのパンの匂いに混じって、ほんのりハーブの風味が鼻をくすぐる。




ユリカが目を覚ました時には、もう家の中には静かな生活音が満ちていた。




寝間着のままそっと扉を開けると、廊下から朝陽が差し込み、カーテン越しに金色の光が揺れている。




キッチンの方から、小さな鼻歌が聞こえた。




(……ミーナさんじゃ、ない)




おそるおそるのぞいてみると、エプロン姿のシェイが、フライパンと格闘していた。




「……なにしてるんですか」




「あっ、起こしちゃいました?


 いや、せっかく“初めての朝”なので、張り切ってみたんですけど……正直、僕の料理スキルには限界が……」




シェイは苦笑しながら、卵をくるくると転がしている。


その様子が思いのほか不器用で、ユリカは思わず笑ってしまった。




「やっぱり、台所に立つ姿は意外ですね」


「でしょ。でも、結婚したからには、最低限のことくらいはね。


 ――ほら、“家族”としてのスタートですから」




“家族”という言葉に、ユリカの胸が、ふっとあたたかくなる。




「じゃあ……私も、手伝います」




「えっ、無理しなくていいんですよ?」


「いいえ。今の私は、あなたの……“奥さん”ですから」




そう言って微笑んだユリカに、シェイはほんの一瞬、言葉を失う。




けれどすぐに、いつものやわらかい笑みを返した。




「――はい。奥さん。じゃあ、まずはコーヒーの淹れ方から、お願いします」


「妊婦にコーヒーはだめです」


「……ですよね。ルイボスティーで手を打ちましょう」




そうしてふたりで並ぶキッチンは、少し狭くて、だけどとても満たされていた。




始まったばかりの、小さな“日常”。


不器用な朝食でもいい。




笑いながら始まる今日があることが、何よりも愛おしかった。





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