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雨はやさしく嘘をつく  作者: 黒崎 優依音
第3章 守られる日々と誓い
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第3章 守られる日々と誓い(3)

第3章 守られる日々と誓い



◆3:診察室の告げ口と選択




sideユリカ



診察室の扉をノックし、促されて入ったユリカの隣には、変わらずシェイの姿があった。


白衣を纏った女医は、カルテに目を通しながら微笑を浮かべる。




「今日もちゃんと付き添ってるのね、シェイ」


「一応、医学を修めた者の端くれなので。……大事な人なんです」




軽く肩をすくめて答えるシェイに、女医はふふっと笑う。


彼の言葉に、ユリカは思わず小さく苦笑していた。




「もう大丈夫なのに……」


「そういうところ、昔から変わらないのね。


 ――で、ユリカさん。ちょっとだけ、女性同士でお話してもいいかしら?」




そう言われた瞬間、シェイが一瞬だけユリカの顔を見た。


確認するように、迷うように。


だが、すぐに小さく頷く。




「……じゃあ、外で待ってます。終わったら声かけてください」


そう言ってシェイは静かに診察室を後にする。




ドアが閉まる音を背に、女医がほんの少し声を落とす。


「……なんだか、すっかり“旦那さん”みたいね。


 ――あ、失礼、まだそうじゃなかったかしら?」




ユリカが一瞬目を見開くと、女医は肩をすくめて悪戯っぽく笑う。




「でも、ずっと付き添ってくれてるし、頼もしすぎてついそう呼びたくなっちゃったのよ」




ユリカは一瞬、何かを言いかけたが、結局言葉にはせず、かすかに笑ってうなずいた。




そして、女医は声のトーンをほんの少し変え、少し深刻な色を帯びた眼差しで話し出した。




「……本題に入るけれど、最近、教会があなたの居所を探っているという話を耳にしたの。


 表立って動いているわけではないけれど、内部で情報を集めようとしている節がある。




 ――何か、心当たりはある?」




指先が小さく震えた。




「……ユリカさん。これはあくまで“医師”としての立場から申し上げますが」




柔らかな微笑みの奥に、言葉を選ぶような気配があった。




「教会の診療体制は……あまり母体を優先しません。


 “神の御心”を盾にして処置が遅れることもある。


 こちらに駆け込んで来られた方で、間に合わなかった例を私はいくつも見てきました」




ユリカは、胸の奥がひやりとするのを覚えた。


先生の口調は穏やかだったが、淡々と並べられる現実は重く、逃げ場のない真実のように響いた。




「――だからこそ。あなたには、“あなた自身を守る力”が必要です」




「……私を、守る力……」




小さく繰り返した声は、震えていた。


ルアルクの未来を壊したくなくて、距離を置いたはずなのに。


それでも、お腹の奥で確かに芽生えている命を前にして、


“形を取らなければ守れない”という思いが、じわじわと心に広がっていく。






診察室を出たあとも、その言葉は耳から離れなかった。




待合で静かに本を読んでいたシェイの隣に座る。


彼は「大丈夫でしたか?」といつも通り穏やかに笑いかけてくれた。




ユリカは微笑みを返しながらも、心の奥にはざわつきが残っていた。


教会の話を聞いてから、胸の奥で何かがずっと引っかかっている。




(……早く、話さなくちゃ。シェイさんに)




でも、今ここで言葉にするには怖すぎる。




この病院のどこかに、教会の人間がいたかもしれない。


誰が見ていて、誰が耳を澄ませているのかもわからない。




シェイはどこか落ち着かないユリカの様子にうっすら気づいたようだったが、あえて問いはしなかった。


「疲れましたか?」という問いに、ユリカは首を横に振り、「少し、考えごとしてただけです」とだけ答える。




ユリカはただひとつのことを胸に繰り返す。




(帰ったら、必ず伝えよう。私たちの“今”を守るために)









診察を終えた帰り道。


ユリカは無意識にお腹に手を添えながら歩いていた。




医師の言葉が、頭から離れない。




(……教会が、私の居場所を探してる?)




名指しされたわけではない。


けれど、あの視線には確かに“意図”があった。




この穏やかな時間が、誰かの手で壊されてしまうかもしれない――そんな不安が、胸の奥に静かに広がっていく。




(守りたい。……ルルちゃんも、自分自身も)




そう思ったとき、ふと浮かんだのは、シェイの言葉だった。






――「契約という形で守る方法もあります」






あのときは病室で、彼は「選択肢のひとつ」としてそう言ってくれた。


けれど今、ユリカは思う。






(もう、“考える時間”は終わった。私は……選ばなきゃいけない)








静かに帰宅し、いつものマグカップにノンカフェインのお茶を準備したユリカは、いつもより慎重にマグカップを置いた。




そして、小さく息を整えてから言った。




「……シェイさん。少し、お話できますか?」


「もちろん」




テーブルを挟んで座ると、いつものようにお茶の優しい香りが立ち上った。


けれどユリカの手は、ほんのわずかに震えている。




「……以前、シェイさんが話していた“契約結婚”の話、今でも有効ですか?」




ユリカはシェイの方を直視できず、視線を手元のマグカップに落とす。


薄い琥珀色に染まった水面は、静かに波紋を立てていた。


香ばしいお茶はまだほんのりと温かく、指先にわずかに震えがあるのを、自分でも自覚した。






「ええ、もちろん。


 あのときは病院でしたし、あくまで“選択肢”として伝えただけでした」




その言葉に、ユリカは小さく微笑んだ。




「……シェイさん。


 たとえ“契約”でも、婚姻を結ぶってことは、相手の人生に入り込むことですよね」




「そうですね」




「その人の時間を、未来を、一部でも縛ってしまうかもしれない。


 ……それって、重くないですか?」




彼はしばし黙り込んだ。




ユリカが目を伏せた瞬間、シェイはそっと息を吐き、マグカップを持ち上げる指先にほんのわずか力を込めた。






「――僕、本来は誰とも結婚するつもりはなかったんです」






「え……?」




「ほら、僕って仕事人間ですし?それに顔もいいでしょう?


 むしろ“結婚してる”って状態になったほうが、周囲の期待とか変な噂も抑えられる。


 ……言ってみれば、女避けですよ。


 ふふっ、ひどい話でしょ?」




「そんな……」




ユリカは思わず笑いそうになって、それでも胸の奥にふっと灯るような温もりを感じた。




「もちろん、本気でバカにしてるわけじゃないですよ。


 ただ――“縛られる”というより、“守るために結んでおく紐”だと思ってほしいんです」




「……」




「それが、僕にできる形なのかなと思ったんです。


 あなたと赤ちゃんを、“誰にも奪わせない”ための方法として」




ユリカは視線を伏せたまま、そっと息を吸った。




その横で、シェイが指先でマグカップをなぞる仕草をしていた。


緊張を紛らわせるような、少年のような動きだった。






「……やっぱり、優しい人ですね」


少し笑ったあと、ユリカはしっかりと顔を上げて言った。






「――シェイさん、彼と赤ちゃんを守るために、私と結婚してください」






シェイは一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。




「……はい、喜んで」




シェイは息を吐き、視線を落としたまま静かに口を開く。




「正直、断られると思っていたんです。


 君には……申し訳ない気持ちしかわかないだろうと」




小さな間のあと、彼の唇が緩む。




「それなのに、君が――僕みたいな男でいいと言ってくれる。


 契約でも、僕を夫にしてもいいと思ってくれた」




シェイは思わず俯き、長い前髪で顔を隠すようにしながら、片手で口元を覆った。


けれど耳まで真っ赤なのは隠しようもない。




「……ごめんなさい、つい顔が緩んでしまって」




ユリカは慌てて声を上げる。


「ちょ、ちょっとシェイさん!


 そんな反応されると……なんか、私まで照れちゃいます!」




短い沈黙のあと、シェイが小さく笑った。


「……ああ。あなたの照れ顔を見たいのに、今の僕がまともに顔を上げられないのが残念です」




ユリカは胸の奥がさらに熱くなるのを感じながら、目を伏せて小さくつぶやいた。


「……もう、本当にずるいですね」




シェイはその言葉に、ようやく顔を上げて柔らかく笑った。




「すみません。自分でもうまくコントロールできなくて。


 あなたにとっては“契約”に過ぎないと思っても、僕にとっては……嬉しくて」




その一言に、ユリカは胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。




――それと同時に。


ルアルクを思う心を抱えたまま、別の人に“夫”を願ってしまう罪悪感に潰されそうな彼女がいた。




「こんなずるいお願いをする私を、そんな風に思ってくれているんですね」




「僕もずるいですからね?


 ふふ、案外お似合いの夫婦かもしれませんね」




冗談めかした彼の言葉に、ユリカも思わず吹き出す。




「約束します。


 僕は、あなたとお子さんを必ず守ります」




彼の声には、静かな覚悟が宿っていた。




それはユリカの胸の奥に、確かな灯をともすようだった。






契約から始まる――けれど確かに“家族”へと繋がっていく一歩だった。






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