解剖学の授業
救急処置室は、墓場のような静寂と、戦場のような極度の緊張感に包まれていた。ストレッチャーや医療機器で即席に作られたバリケードの向こう側からは、時折、金属がコンクリートを引っ掻く、神経を逆撫でするような不快な音が聞こえてくる。それは、飢えた獣の無分別な突進ではなかった。錠前を試す泥棒のように、計算された、冷たい意志を感じさせる音だった。
「奴ら、我々の防御を試している」レオポルドが、バリケードの隙間から外を睨みつけながら低く唸った。「ただの化け物ではない。狩人だ」
彼の言葉を否定する者は誰もいなかった。兵士たちは皆、銃を固く握りしめ、息を殺して闇に耳を澄ませている。彼らの額には、恐怖と疲労が滲んでいた。完璧だと信じていた戦術が、こうも容易く覆されたという事実が、彼らの士気を容赦なく削り取っていた。
レイモンドは壁に背を預け、ズキズキと脈打つ頭痛に耐えていた。それは、屋上で謎の指揮官を目撃して以来、断続的に彼を苛んでいた。耳鳴りではない。頭蓋の内側から、無数の針で突き刺されるような、鋭く、質の悪い痛みだった。
「カルビン、何か手は無いのか」レオポルドが科学者の方を向いた。「このまま籠城していては、いずれ弾が尽きるか、奴らが弱点を見つけ出すかだ」
カルビンは、床に広げた医療用のトレイの上で、手に入れたばかりの注射器やメスを消毒しながら、冷静に答えた。「情報が足りなすぎる。敵を知らずして、戦術は立てられない。我々に必要なのは、敵の『解剖図』だ」
その言葉の意味を理解した瞬間、バリケードの最も弱い部分、薬品棚で塞がれたドアが、凄まじい衝撃音と共に内側へ吹き飛んだ。
「来たぞ!」
レオポルドの号令一下、兵士たちが一斉に火を吹いた。狭い入口になだれ込んできたのは、あの即席の鎧を纏ったゾンビたちだった。数的不利をものともせず、彼らは銃撃の雨の中を突き進んでくる。
「一体でいい!可能な限り損傷の少ない、新鮮な検体を確保しろ!」カルビンが叫んだ。
その言葉が、混乱していた兵士たちに明確な目的を与えた。彼らの射撃が、敵の脚を狙うように変わる。レイモンドは頭痛を堪え、先頭に立っていた一体に突進した。ライフルで盾を弾き飛ばし、体勢を崩したその個体を床に組み伏せる。他の兵士たちが残りの敵を食い止めている間に、彼はそのゾンビの動きを封じた。やがて銃声が止み、処置室には再び不気味な静寂が戻ってきた。
レイモンドが押さえつけたゾンビは、もはや動かなかった。
「…よくやった」カルビンは手袋をはめながら近づくと、その骸をストレッチャーの一つに引きずり上げた。「さて、授業を始めよう」
誰もが固唾を飲んで見守る中、カルビンのメスが、ゾンビの異様な皮膚を切り裂いていく。彼はまず、その胸に括り付けられたライオットシールドの破片を調べた。
「見ろ。ただの偶然ではない。衝撃を最も受けやすい心臓部を的確に保護している。これは経験から学んだ防御行動だ」
次に、彼は首元にメスを入れた。そして、驚きに目を見開いた。
「これは…」彼はピンセットで、喉の奥から奇妙な形状の器官を慎重に取り出した。「声帯ではない。我々が知るどんな生物とも違う。特定の超高周波を生成するための、生物学的な発振器だ」
その言葉に、レイモンドは自分の頭痛の正体を直感した。
カルビンは作業を続けた。皮膚の下、特に脇の下や首筋に沿って、彼は小さな、しかし無数に存在する嚢胞のようなものを見つけ出した。その一つをメスで突くと、刺激臭のある、無色の液体が僅かに染み出した。
「フェロモン…化学信号だ」カルビンは呟いた。「間違いない。奴らは二つの系統で通信している。広範囲への指示は、我々には聞こえない超高周波の『声』で。そして、近距離での個体識別や単純な感情…敵意、警戒などは、このフェロモンで行っている」
彼は手を止め、血塗れの手袋をレイモンドに向けた。
「君の頭痛だ、レイモンド。それが最後のピースだった。HHDによる身体強化が、君の聴覚を知覚できない領域まで押し上げたんだ。君は、我々には聞こえない彼らの『声』を、ノイズとして聞いている。だから、指揮官が指示を出すたびに、君の脳は情報過多で悲鳴を上げる」
処置室にいた全員が、恐怖と驚愕の入り混じった表情でレイモンドを見た。彼はもはや、ただの強力な兵士ではなかった。敵の通信網を傍受できる、唯一無二の存在だった。
レオポルドが忌々しげに吐き捨てた。「…化け物め。その忌々しい頭痛が、我々の唯一の羅針盤だというのか」
「その通りだ」カルビンは断言した。「このままでは我々は狩られるだけだ。だが、もし…もし敵の指揮系統の中心、あの『指揮官』の正確な位置を特定できれば、我々が狩人に変われる」
彼はレイモンドの目を見据えた。「レイモンド、集中しろ。痛みの中から、その『声』が最も強く、最も明瞭に聞こえる方向を探るんだ。敵の通信が最も密集している場所…そこが奴の司令室だ。そして、そこが我々の唯一の活路になる」
レイモンドは目を閉じ、激しい痛みに意識を集中させた。無数の不協和音が脳内で渦巻く。だが、その混沌としたノイズの奔流の中に、一つだけ、他を圧倒するような強く、邪悪な響きを持つ流れがあった。それは、下へ、さらに下へと向かっていた。
彼は目を開け、よろめきながら立ち上がった。
「下だ」彼の声は掠れていた。「この階じゃない。もっと下…建物の、一番深い場所から聞こえる」
彼が指し示した先は、冷たく暗い、死者を弔うための場所だった。霊安室。カルビンが持っていた病院の設計図によれば、その奥には、地下の広大なメンテナンス用トンネルへと続く、忘れられた入り口があるはずだった。
「よし」カルビンは血塗れのメスを置いた。「進路は決まった。狩りの時間だ」
彼らは重い霊安室の扉に手をかけた。その向こうに広がるのは、死の匂いと、未知の闇。しかし、それはもはや絶望への道ではなかった。知識という武器を手にした彼らにとって、それは反撃の狼煙を上げるための、最初の戦場だった。




