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間違った餌

作戦会議室として臨時に使われている部屋には、張り詰めた、しかし自信に満ちた空気が漂っていた。壁に掛けられた地図には、サクラシの新たな区域、医療施設が集中する地区が赤丸で囲まれている。カルビンが指し棒でその中心を軽く叩いた。


「この地区の確保は、我々のコミュニティの長期的な生存に不可欠だ。医薬品、高度な医療機器、そして何より、ここには隔離された食料備蓄があるという情報もある」彼の声はいつものように冷静で、事実だけを淡々と述べていた。


「戦術は前回同様だ」レオポルドが腕を組んで引き継いだ。「レイモンドを陽動役とし、地区中央の広場にアンデッドを誘引する。我々は三つの分隊に分かれ、包囲殲滅する。各分隊の射線と退路は確保済みだ。前回の成功体験は、この戦術が有効であることの完璧な証明だ」


彼の言葉には微塵の疑いもなかった。部隊の兵士たちも、その揺るぎない自信に伝染したかのように、決意に満ちた表情で頷いていた。成功は、時に最も危険な慢心を育む。レイモンドは黙って地図を見つめていた。またしても、彼は「餌」だった。その役割に異を唱えるつもりはなかった。それが最も効率的であることも、自分の特異な体が最も生存に適していることも理解していたからだ。だが、心のどこかで、この繰り返される役割が自分を人間という定義から少しずつ削り取っていくような感覚が消えなかった。


ヘリコプターのローター音が、廃墟と化した街の静寂を切り裂いた。眼下に広がる病院地区は、死んだように静まり返っていた。路上に乗り捨てられた車、風に舞う書類の切れ端、そして散見されるいくつかの動かない骸。これまでの経験からすれば、この静けさは嵐の前の静けさに他ならなかった。


部隊は迅速に降下し、レオポルドの指示通りに完璧な陣形を展開した。アルファチームとブラボーチームが広場を見下ろす建物の屋上と窓に、チャーリーチームが退路を確保するために後方に。全てが教科書通りだった。


「準備はいいか、レイモンド」カルビンの声が通信機から聞こえた。


レイモンドは広場の中央に一人立ち、静かに頷いた。「いつでもどうぞ」


彼はベストに取り付けられた匂い発生装置のスイッチを入れた。微かな音と共に、アンデッドにとって抗いがたい、生者の肉の匂いを模した化学物質が周囲に拡散し始める。レイモンドはライフルを固く握りしめ、神経を研ぎ澄ませた。来る。数百、あるいは数千の飢えた亡者たちが、この静寂を破りに来るはずだ。


一分が過ぎた。五分が過ぎた。広場は静かなままだった。


遠くの路地から、一体、また一体と、足を引きずるゾンビが現れた。しかし、それだけだった。現れたのは、せいぜい十数体。いずれも動きが鈍く、知性のかけらも感じさせない、ただの抜け殻だった。彼らは広場の中央で匂いに引き寄せられるように、目的もなくうろついている。


「どういうことだ…」通信機からレオポルドの苛立ちが滲む声が聞こえた。「この地区には少なくとも数千の個体がいるはずだ。なぜ出てこない?」


カルビンの声がそれに続いた。「何かがおかしい。レオポルド、周辺警戒を厳にしろ」


レイモンドは広場の中央で、得体の知れない不安に襲われていた。まるで、巨大な獣が息を潜めてこちらを観察しているような、肌を粟立たせる感覚。彼はライフルを構え直し、周囲の建物の窓という窓、屋上の影という影を睨んだ。


その時だった。


「こちらアルファチーム、応答せよ。聞こえるか?」レオポルドが通信機のチャンネルを変えた。返ってくるのは、耳障りなノイズだけだった。


「アルファ2よりアルファ1へ。北西のビル屋上に配置した分隊との連絡が途絶えた」


空気が凍りついた。


「ブラボーチーム、状況を報告しろ!」レオポルドの声が鋭くなった。


「…ブラボー3との連絡が取れません。先ほどまで、こちらのすぐ下の階にいたはずなのに…」


一つ、また一つと、彼らが築いた完璧な包囲網のピースが、音もなく消えていく。パニックが伝染するより早く、レオポルドが決断を下した。


「全隊、作戦中止!直ちに撤退する!レイモンド、ヘリの着陸地点まで後退しろ!」


レイモンドが踵を返した瞬間、彼はそれを見た。病院の正面玄関のガラスが、内側からゆっくりと押し開けられる。そこから現れたのは、これまでのゾンビとは明らかに異質だった。


彼らは群れではなかった。統率された部隊だった。先頭に立つ個体は、胸に救急隊員のベストの残骸を、腕には割れたライオットシールドを括り付けていた。その後ろから現れた者たちも、金属製の配膳トレイや車のドアなどを即席の盾や鎧のように身につけていた。彼らは雄叫びを上げることなく、ただ静かに、しかし迅速に広がり、レイモンドの退路を塞ぐように陣形を組んだ。


「罠だ…」カルビンの絶望的な声が通信機から響いた。「餌は、レイモンドではなかった。我々だったのだ」


突如、病院の全ての窓ガラスが一斉に内側から叩き割られ、そこから無数の武装したゾンビたちがロープやシーツを伝って地上に降りてきた。彼らの動きには、飢えや衝動による狂気はなかった。冷徹な目的意識と、訓練された兵士のような効率性があった。


「撃て!撃ち尽くせ!」レオポルドの絶叫が響き渡り、一斉に銃声が轟いた。


だが、敵はもはやただの的ではなかった。即席の盾で銃弾を防ぎ、仲間が倒れるとその後ろから新たな個体が穴を埋める。彼らはレイモンドを無視し、建物の屋上や窓にいる兵士たちに向かって、石や鉄パイプを驚くべき精度で投げつけ始めた。


混乱の極みの中、レイモンドの視線が一点に吸い寄せられた。


病院の屋上。アンテナが立ち並ぶその影の中に、一つの人影が微動だにせず立っていた。他のゾンビのように武装もしておらず、攻撃にも参加していない。ただ、両腕をだらりと下げ、戦場と化した眼下の広場を見下ろしていた。


それは、戦っていなかった。


ただ、見ていた。戦況を。駒の動きを。そして、絶望に陥る我々を。


まるで、全てを意のままに操る指揮官のように。


レイモンドは悟った。彼らがこれまで戦ってきたのは、獣の群れだった。だが、今、彼らの目の前にいるのは、思考する知性によって率いられた、一つの軍隊だった。そして、自分たちはその軍略の前に、完璧に籠の中へと誘い込まれたのだ。

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