傷だらけの少年と、猫被り公爵令嬢の出会い
「何の騒ぎですか?」
澄んだ声が、港のざわめきの中静かに響いた。
その声は、怯えていたはずの少年の胸に優しく届き、不思議と視線がそちらに吸い寄せられる。
彼女との出会いは、王都の港。
遠巻きに見守る群衆の中、大柄な男に凄まれ、何も言えず只震え上がっていた時だった。
夕暮れの王都。
その南の方角に位置する港。
そこに帰港した、物資を運ぶ船の貨物室からそっと抜け出そうとしたところ、貨物に足を取られ転倒し、あえなく失敗した。
「このガキ、どこから忍び込んでやがった!」
走り出す前に首根っこを掴まれ、船長だと思われる男に捕まった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
捕まったのは年端もいかない少年で、既に泣きそうな声で身体をぎゅっと丸めている。
「ったく……。船賃なんて当然持ってねえだろうし、しかもお前そのナリ……」
船長の男がそれ以上頭ごなしに怒れなかったのには訳がある。その少年の身なりだ。
服装はシャツもパンツも汚れていて、ところどころ擦り切れている。しかし、それよりも一番に目を引いたのは、頬や目元が大きく腫れ上がっていたことだった。
顔だけでは無い。半袖のシャツから覗く骨張った細い腕にも無数の擦り傷や痣、果ては火傷の痕だろうものまで見受けられた。
こりゃあ、訳アリのガキだな。
そう思い、どうしたものかと考えあぐねている内に、最初の怒鳴り声を聞いた人々が周りに集まって来た。視線の先にいるのは大柄の男と、傷らだけの貧相な子供だ。
「なんだい、ありゃあ」
「貨物に子供が忍び込んでいたみたいだぜ」
「もしかしてあの旦那、それであの子供を殴ったのか?」
人々があらぬ推測を並べ始めたのを聞いて、男は「違う違う!」と声を張り上げた。
「元から傷だらけだったんだ、俺は何もしちゃいねえ!」
そして身を竦ませて震える少年に向き直り、頭をガシガシと掻いた。
「どうしたもんか……。とりあえず、役人に引き取ってもらうしか……」
可哀想だが自分にも仕事がある。
早いところ、お役所に任せるのが一番だ。男がそう判断して少年の腕を掴もうとしたその時、凛とした声が響いた。
「何の騒ぎですか?」
その声に群衆が少しざわめいた後、すっと道が開かれた。
人々が道を開けた先に立っていたのは、一人の少女だった。
見た目、十五、六歳くらいに見えるその小柄な少女は町娘というには豪奢な、令嬢というには地味な薄青色の清楚なワンピースを着て、片手に買い物をしたのであろう紙袋を抱えている。
更に少女の隣には、銀髪の幼い少年が同じく紙袋を両手に抱えて立っていた。
「これは……、カメーリエ公爵家の……!」
「……その子供、かなり酷い怪我をしているようだけど、まさか船長さんがしたわけではないのでしょう?」
「はい! 決してそのような事は……」
少女が男と少年のいる波止場へカツン、カツンとヒールを鳴らし石の階段を降りてくる。
群衆はそれを只見守っていた。
男は、自分の船にいつの間にかこの少年が乗り込んでいたこと。子供が傷だらけであることから、役人へ通報しようと考えていたこと、少年の傷は自分がやったものではないことを説明した。
特に、暴行をしていないという点においては尚更声を張り上げて周りの人々まで聞こえるように言った。
「なるほど。まあ、貴方が子供に暴力を振るうような人間でないことは分かっています」
男の話を聞いた少女は、白い指を口に当て、どこか思案するように瞳を伏せた。
港の潮風が彼女の夕陽色の髪をふわりと揺らす。伏せられた睫毛から覗く青く澄んだ瞳が綺麗だな、と少年は自分の今の状況を一瞬忘れてそんなことを考えた。
「役人に引き渡すのならば、私がこの子の身柄を預かりましょう。私も役人のようなものですし」
ほんの少しだけ考える素振りを見せた少女は、そう言って顔を上げた。
群衆と同じく成り行きを見守るしかない少年は、『このひともお役所のひとなのだろうか?』と少女を見上げた。
その少年に視線を合わせるように、少女が少し腰を屈める。
「私はサフィール・イリス・カメーリエ。こちらの子はテオドールよ。少年、あなたの名前は?」
「……あ、アルヴィー……」
「そう、アルヴィー。どこから船に乗ったの?」
「カディスブルク……、です」
「そんな遠くから来たの!」
まじかよ、全然気付かなかった、と男が片手で顔を覆い、サフィールと名乗った少女は感心したように笑った。吊り目がちの大きな瞳が悪戯っぽく細められる。
アルヴィーがその瞳に見惚れている内に、サフィールは肘に掛けていたレースと刺繍で装飾された小さな巾着から金貨を一枚取り出し、船長へと手渡した。
「船長さん、この場はこれで手打ちにして頂けませんか?」
にっこりと笑うサフィールと手の中の金貨を見て、男は背筋を伸ばし「お嬢様、これでは多過ぎます」と恐縮した。
しかしサフィールは、「仕事に遅れも出たでしょうし、この子を気に掛けてくださったお礼もこめて受け取って頂きたいの」と言う。船長はそれなら……、とまだ気まずそうにしながらも金貨を大事そうに懐へしまった。
「こちらも、貴女に預かって頂けるなら安心です。どうしようかと途方に暮れていましたので……」
そういう男の顔は本当に安堵したように見えて、アルヴィーはそこで初めてこの船長が自分を只糾弾していたのではなかったのだと理解した。
「それでは、この話はこれまでということで」
サフィールがそう言って、船長へ微笑み掛ける。船長も「ありがとうございました!」と深々と礼をし、その場はこれでお開きとなった。
見物していた者達も胸を撫で下ろして「良かった良かった」と散り散りに立ち去って行く。
「……さて」
仕事に戻って行く船長を見送って、サフィールがアルヴィーに向き直る。
サア、と潮風が港を吹き抜けた。
ふいにその瞬間、サフィールの纏う空気が変わったようにアルヴィーは感じた。
先程までのお嬢様然とした雰囲気は消え去り、勝ち気な瞳でアルヴィーを見据え、風で少し乱れた髪をパサリとぞんざいに後ろへ流す。
「アルヴィー」
そんなサフィールが、アルヴィーの名を呼ぶ。
途端、アルヴィーの中にまた不安と恐怖が込み上げてきた。
『僕はどうなるんですか?』
意を決してそう聞こうと口を開いたアルヴィーよりも先に、言葉を発したのはサフィールだった。
「本当に痩せてるな……。アルヴィー、お前歳は幾つだ?」
「え? えっと、七歳……です」
「七つ? テオと変わらないな」
サフィールが隣のテオドールを見遣ると、テオドールは「サフィール様、オレは九つです」と訂正した。
それに対しサフィールが「そんなに変わらないだろう」と返すと、テオドールは少し不服そうに唇を尖らせて黙り込んだ。
「その年齢でその体型だと痩せ過ぎだ。栄養が全く足りてない」
不貞腐れたテオドールには気付かずに、サフィールは「よし!」と言い、控えめな胸を張った。
「来い、まずはとにかく食べないとな!」
そう言って、紙袋を持っていない方の手でアルヴィーの小さな手を取ると、「いやあ〜、買い物済ませた後で良かったなあ」と、先程船長と話していた時とは違う、その見た目からはそぐわない砕けた口調で朗らかに笑いながら歩き出した。
サフィールと繋がれたアルヴィーの手を見て、テオドールが更に不満そうに眉根を寄せたが、アルヴィーにはそれを気にする体力も気力も無く、手を引かれるままついて行くしかないのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
アルヴィーがサフィールに出会うことで物語が動き始めます。
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