ヒトをヒトたらしめているもの
※この文章はある種の思考実験であり、特定の誰かや団体等と関係はありません。またそれらを侮辱、傷つける目的は一切ありません。ひとつの意見として解釈していただければ幸いです。
前回は人に優しくしよう!という事をそれらしく小難しい言葉を多用し持論を展開してきました。今回は視点を変えて人≒ヒトという考えを元に考えた事をつらつらと綴りますので付き合ってくれる方はこのままお進みください。これから先のエピソード等でもこの人とヒトの使い分けをする予定なので覚えておくと便利です。
まず前提として人とヒトの自分なりの解釈を説明します。人は誰もが想像する理性的かつ社会性のある生き物の総称だ。その反対にヒトとは動物的観点から見た生き物で、野生的かつ利己的で暴力性を内包した存在でヒトは人とは対局にある存在である。本来我々は人では無くヒトであり、ヒトである我々は人に近づくために長い時間をかけて自然の摂理や理を捻じ曲げて進化してきた。しかしヒトの最終目標である人になることは不可能である。なぜならば人≒神でもあるからだ。急に話が飛躍する様に思えるが、段階を踏んで考えてみるとあながち間違いではないのかもしれないとわかる。神とはなんだろう。様々な国や地域、形は違えど漠然とした概念や能力等差異は無い。ヒトは自分では無い色々な物に憧れを持つ。それは例えるのであれば幼少期の場合、ヒーローやアイドル。歳を重ねていくと職業的な夢やお嫁さんと言ったより具体的な物に置き換わっていく。抽象から具体へと形が変わっていくのだが、憧れの象徴となる物は全て状態でありその状態になった自分をイメージしている。このように例に漏れること無く、作家になるという夢には作家になった自分を内包するし、お嫁さんやその他も然りだ。それらの憧れにはより人らしくなりたいという欲望が反映されているように感じる。この人らしくなりたい欲望という物がヒトをヒトたらしめているものの正体だ。人はヒトが想像する神の最小単位であり、原初の存在でもある。神という概念を想像した時に神に欲望があると考えるヒトはどれだけいるだろうか。神が飯を食べ、惰眠を貪りS○Xに明け暮れる。そんな神がいたら誰がその教えをありがたく聞き入れるだろうか。ヒトは長い歴史の中で人に近づこうと世代交代を繰り返してきた。しかし多くの時間をかけて適応し、進化をしても人にはなれないという事にある時気が付いた。その瞬間ヒトには二つの道が目の前に現れた。一つはこのまま長い年月をかけて進化をして人となる道。もう片方は我々ヒトが変わるのでは無く環境を変えて人を模倣した生物になる道。おそらく最初は前者の道を進もうとしていた。しかしある時後者の道の先にある木に果物が実っている事を発見した。その果物は素敵な香りがしたが、ヒトは気にせず前者の道を進もうとした。すると近くの茂みからとてもフレンドリーな蛇が現れ、その果物は果汁がいっぱいで美味しいよと伝えられた。その結果ヒトはその果物を喰らうともう二度とその味を忘れる事が出来なくなってしまった。その木の裏には果実の名前が書いてある看板が立っており、欲望の実と書かれていた。それによりヒトは人になることが永遠に出来なくなってしまった。そこでせめて人らしくありたいと思ったヒトはその気持ちを忘れない様に人と言う物を崇め、信仰する様になった。それはやがてヒトが人を模して進化するのと比例して人も人から神という存在になった。
そんな我々ヒトが行き着く先、つまり終着点とはどんなだろうか。結論から言うと限りなく神に似た別の単一の何かである。収斂進化という言葉をご存知だろうか。収斂進化とは異なるグループの生物が、同じような生態的地位に置かれたときに、系統に関係なく似た形質を獲得する現象であり、簡単に言うとそっくりになるよという事である。ヒトは様々な人種や性別等あるがそれは恐らく現代が一番多く、やがては一つの性質として収束していくと思われる。それらの事象を予感させる出来事として昨今顕著に現れている少子化やルッキズムの問題である。より良い遺伝子を求めた結果、遺伝子の質は右肩上りで上がって行きいつかは誰もが同じになり個性が無くなる。わかりやすい例えだと整形をすればする程皆同じ顔になる現象が近い。あれも一種の収斂進化に近い物でいつかは皆が同じ顔、体、性格になる。そして質の悪い遺伝子は駆逐され、個体数は減り続け最後の一人となった時皮肉にもそれはほぼ神に等しい何かになるわけである。
現代の我々ヒトは今分岐点に立たされている。あれだけ遠くにあったはずの果物をもう既に手の中に握っている状態かもしれない。一度冷静になり本当に食べるべき物なのか考える事こそがもう一度ヒトが人になれる神が与えたチャンスだとしたら。