全力で逃げる
憧れのお店で散々お買い物をして、とてもいい気分で店の外に出ようとしたその時だった。
モルンがぴたりと動きを止めて、首の毛を逆立てている。そしてすぐに上下の前歯をカチカチカチカチと鳴らし始める。これは、確か警戒と威嚇だ。
モルンにどうしたの、と問いかけようとしたところでウォルクが唸り声を上げ始める。
さらにアブルが「キエエェェェ!」と絶叫をしたところで、店内に誰かが入って来た。
店内に入って来たのは男性。全身真っ黒の服に身を包み、さらさらの黒髪……赤い瞳。それから肩にはカラスを乗せている。
「あ。あれっていつだったかアブルが喧嘩売ってたカラスじゃないですか?」
ティーモのその小さな声が聞こえたと同時に、目の前の男性が誰だったのかを思い出した。
あまりに突然だったから、対処が遅れてしまった。
いや、そもそもどう対処すべきかも分からなかったのだ。
「初めまして、美しい人」
あぁやっぱり。これ、第二王子だ。
「痛っ!」
あ、モルンに足踏まれてる。
「重っ、痛」
モルンってかわいいけどずっしりしてて重いのよね。だから前足で力いっぱい踏まれたら痛いんだろうな……。
「あの、美しい人」
「カチカチカチカチ」
足を踏みながらもなお威嚇してる……。
「わっ」
あぁ、カチカチ音が止まったと思ったらモルンが立派な前歯を見せ付けている。
これ以上近付くと噛みつくぞという強い意志を感じる。
「ええと、私の聖獣がご機嫌ななめですので、失礼いたしますね」
おほほほほ、なんて適当な笑みを浮かべつつ、私たちはそっと彼から距離をとった。
「あっ、いや、あの! 待っ」
「カチカチカチカチ」
「お、お名前を」
「カチカチカチカチ」
「俺はあなたをデザーウッドの王城で見かけて」
「ハンッ」
あら、モルンが吠えたわね。
「モルン、行きましょう。申し訳ございません。怪我をさせてしまってはいけませんし、もう行きますね」
私は急いで店を出てとにかく足早にその場を離れる。
モルンもダッシュでついて来てくれた。その走る速度は思ったよりも早かった。
第二王子はまだ何か言っていた気がしたけれど、アブルのキエエェェェで何も聞こえなかった。
何を言っていたのであれ、関わるべきではないと分かっているから、私たちはあちこちをぐるぐると回り、第二王子から逃げ続けた。
「なんだか妙に疲れたわ……」
「リゼットお姉様ごめんなさい、わたくし、あれが誰なのか分かっていたのに、何も出来なかった……」
「いいのよ」
だって国際問題に発展しかねないものね。
そんなわけで結局、また見つかっても面倒だからという理由で家に帰って来た。もう一軒行きたいお店があったというのに。聖獣のおやつのお店!
「あいつ、デザーウッドの王城で見かけたって言ってたなぁ」
サロモンが呟く。
ちなみにイヴォンは今クッキーを焼いている。
「美しい人って、私に言ってたのかしら? キャサリンやティーモじゃなくて?」
「わたくしではないでしょう。美しさはまぁともかくとして、わたくしはここ最近デザーウッドの王城どころかデザーウッドの地に足を踏み入れたこともありませんもの。デザーウッドの王城で見かけられるなんて無理ですわ」
「いや、私なわけなくないですか? 私、美しいというより可愛い系ですし?」
そう言ってキャサリンとティーモが笑っている。
「それはともかくとして、あの男、リゼットお嬢様の名前も知らなかったみたいですね」
ティーモの言葉に、私はこくこくと数度頷く。
「それはそうよ。私だって本物の第二王子を正面から見たのは初めてだもの」
正直なところ、王家主催の夜会かなんかにいたような? いやいなかったような? くらいの記憶しかない。
容姿を知っていたのは学園に肖像画が貼ってあったから。
ティーモとイヴォンが気付かなかったのは彼らと私たちは違う学園に通っていたからだろう。
第一王子の顔なら新聞でよく見かけるけれど、第二王子はほとんど表に出てこないし。
私がそんな感じなのだから、第二王子が一端の伯爵家の娘なんて知っているわけがない。
「はぁー……第二王子側が伯爵家の娘と簡単に婚姻関係を結ぼうと思ったのは、第二王子がリゼット姉さんに一目惚れしたから説もあったかぁ」
サロモンが頭を抱えた。
サロモンが言っていたありえるかもしれない未来の話のことだろう。
公爵家だの侯爵家だの高位貴族は多々いるのに、なぜ伯爵家の娘である私、いやリゼットと婚約したのかが分からないと半信半疑だったが、第二王子の一目惚れというくだらない理由もありえないはなしではないのかもしれない。
そもそもサロモンの話では、私と婚約したくせに父だった男が連れて来た娘に乗り換えたり第一王子の恋人に一目惚れするみたいな流れだった。
さてはあの男、惚れっぽいタイプの奴だな?
「まぁでも、今更第二王子に周囲をうろつかれたとしても婚約なんか出来るわけないんだし……大丈夫よね……?」
サロモンにそう問いかけてみるものの、サロモンはしかめっ面をしている。
「婚約することはないだろうけど……でもあいつがデザーウッドを離れていることも変だしまさかの聖獣まで連れているのもおかしい。何があるか分からない」
「用心するに越したことはないですわねぇ」
サロモンはしかめっ面のままそう言っているし、キャサリンも難しそうな顔でぽつりと零す。
「そもそも、この家を知っていますものね、あの男」
キャサリンのその言葉に、私たちは一度沈黙する。
そうして長い間を置いたあと、全員で「あ」と零した。
そうだったそうだった、あの男は一度私たちの家まで来ているのだ。
キャサリンが初めて私たちの家に来たあの日、家の周辺をうろつく不審者として。
私はもちろんサロモンもティーモも、焼き上がったクッキーを持ってきたイヴォンも「あちゃー」と頭を抱える。
どうしたもんかと考え込む私たちの中で、一番に口を開いたのはティーモだ。
「多分あの男とリゼットお嬢様が婚約することは不可能でしょうけど……クソほどキモ……いえ、気持ち悪いですね」
その言葉に、ここにいる全員がこくこくと数度頷いて、深く大きくため息を零すのだった。
遅くなりましたお待たせしました。
読んでくださってありがとうございます。