side五味あさり
「私は壁を這うナメクジになりたい」
「何いってんの?」
学校に向かう通学路で、私は友人に言った。しかし、怪訝な顔をされてしまう。
もう付き合いも長くなってきた。何も言わずとも察してほしいというのはわがままだろうか。
私はやや憮然として言った。
「塩対応…。ナメクジだけに」
突き刺さる冷たい視線と沈黙。ややあって友人は口を開く
「で、つまりどういうこと?」
「私の推しが女子高生を見守る壁になりたいって言ってたの!だから私は壁になった推しの上を這い回り体液をこすりつける…」
「やめなさい!花も恥じらう女子高生が体液なんて言うんじゃないわよ。しかもこすりつけるとか」
「ふ、ふひひ」
「ちょっとー?叱ってるんですけどー?」
私の言葉に彼女が反応する。ただそれだけのことが嬉しい。
私の名前は五味あさり。両親の素敵なネーミングによって私の人生は日陰を歩むことを宿命付けられた。
幼稚園小学校中学校。当然のように名前についてからかわれる。私の元来の性質も合わさって、引っ込み思案で人見知りの暗い人格が形成された。
当然友達も少ない。嘘、居なかった。せいぜい会話をする程度。他人とクラスメイト以上の関係になれたことがない。しかし、ある日唐突に私のボッチ生活は終焉を迎えた。
それは中学3年生の頃、受験を間近に控えた時期だった。受験間際にも関わらずクラスではSNSが流行っており、キラキラと日常を加工してサイト上に投稿するのがイケてる男女のステータスだった。
イケていない私はそのSNSを侮蔑と羨望という矛盾を抱えて眺めていた。
学校の帰り道、人目につかない川辺の橋の下。そこが私の秘密の避難場所だった。ジメジメとして、その上薄暗い。でもそれ故に落ち着く。家に直帰すると母が私の交友関係を必要以上に心配する。母の不要な詮索を避けるため時間をつぶす場所が必要だった。
その日も橋の下で小石を投げたり、飽きてスマホをいじったりして過ごしていた。
「ふっ、ふひひ」
推しの動画を見てニチャアと陰気な笑みを浮かべていると、予期せぬ闖入者が現れた。
「うわっ、人いる…」
私はその声に驚き、スマホから視線を上げる。
同じ制服に身を包んだ人が覗き込んでいた。背中にまで伸びる長い黒髪、長いまつ毛、大きな吊り目。
清楚な顔立ち、でもブレザーの制服は少し着崩していて、プリッツのスカートは規則より短い。艶めかしい太ももに思わず目が奪われる。
「っていうか五味じゃん」
「塩見さん…」
クラスメイトだった。塩見硝子。それが彼女の名前だ。なんと涼し気で美しい名前だろう。彼女本人の風貌に実によくマッチしている。
「なにしてんの?」
「ど、動画見てる」
「わざわざこんなところで?」
説明しても不要な気遣いを受け、気まずくなるだけだ。私は話題を変えてごまかすことにした。
「いや、あの塩見さんは?」
「わたしはSNSのネタ探し」
「ネタ?」
「見る?」
不意に塩見さんは私のパーソナルスペースに入り込み、肩を寄せた。接する肩から伝わる熱に居心地悪く身じろぎする。だが、目に飛び込んだスマホの液晶に即座に意識を奪われた。
「綺麗…」
空が紅く焼けた夕暮れの海辺にポツンと女性のシルエットが黒く浮かび上がっている。そのシルエットはストールを掲げ、髪とともに風にたなびいている。
言葉にすれば単純な描写。しかも、ある種使い古された構図でもあるかもしれない。しかし、確かにその写真は私の心を打った。
「あ、ありがと…」
頬を染めて頭をかく塩見さん。キャラと違う照れた様子になんだか少し嬉しくなる。
「でも意外。こういうSNSってお友達とワイワイやってるものだと思ってた」
私は聞いた。
「そうしてる人もいるし、そうすることもあるけど、基本的に私はいいロケーションは独り占めしたいの」
「こだわってるんだね」
「ううん。多分、わたしは友達すら潜在的な敵だと思ってるんだ」
「…」
潜在的な敵…。思ってもみない言葉に私は彼女の触れてはならないところに触れてしまった気がして口をつぐんだ。
「フォロワー数を競ってるからね」
バツが悪そうに塩見さんは苦笑した。
「そうだ五味!アニメとか見る?」
「まあ、人並みには…」
話題転換にあわせるも、何故アニメ?と疑問が湧く。私はオタクっぽいのだろうか。悪いことじゃないが、なんだか暗にイケてないやつと言われたみたいで気分が沈む。ちなみにアニメは大好きだ。
「じゃあさコスプレしたい」
塩見さんは言った。唐突だった。脈絡がないように思うが、もしかしたら彼女のなかではアニメを見る者は皆一様にコスプレしたがり、その術を身に着けているものだと思っているのかもしれない。
「わ、私メイクとかできないよ?」
塩見さんは綺麗だ。見た目がいい。だからコスプレすればきっと映えるだろう。コスプレさせてあげたいし、自分自身見てみたい。しかし、残念ながら私は不器用だった。
化粧は下手だし、当然衣装も作れない。塩見さんの要望に答えてあげられそうにない。
「大丈夫。コスプレするのはアンタだから」
「なんでぇ?」
悲鳴のような声が出た。それを無視して塩見さんは言った。
「わたしの被写体になってよ」
それからはあっという間だった。
塩見さんの家に連行されて、塩見さんの部屋に入る。一般よりも大きく上品で、裕福な雰囲気漂う家屋だったが、それ以上に塩見さんの部屋が強烈だった。
アニメキャラクターのポスターが壁一面に張られ、フィギュアが展示されている。強火のオタクだった。そしてなんとこの部屋マネキンがある。
ゴスロリというのだろうか。私も知っているキャラクターの衣装を来たマネキンが部屋の中央に鎮座していた。
もしやと思いきや、そのとおりだった。
「脱いで」
「ちょちょちょちょっと!待って!」
「これ着て」
私は有無を言わさぬ迫力に逆らうことができず、その衣装を着た。
塩見さんは端的に指示をすると、テキパキと私の顔面をキャンパスに無言で化粧をしていく。
私はドキドキしながら目をつむり、終わるのを待つ。
「できた」
塩見さんの言葉とともに目を開く。
「どう?」
塩見さんが鏡をかざす。
そこには私じゃない誰かがいた。
「綺麗…」
私は初めて自分を綺麗だと思った。
私はしばらく初めての感情に呆けていた。だが塩見さんが側で微笑んでいるのを見て慌てて言い訳を口にする。
「あっ、いや違くて、塩見さんのおかげなのはわかってて…」
「うんうん」
「だから誰でも塩見さんの手にかかれば…」
言葉が尻すぼみになりやがて消えた。言葉が続かなくなる。すると塩見さんが言った。
「じゃあさ」
「うん?」
「写真とってもいい?」
「えっと…」
「お願い!すごい似合ってるから記録に残したいの!」
塩見さんが両手を眼前で合わせ、懇願している。悪い気はしない。
だが唯々諾々と彼女の要求を承諾することに妙な反骨心があった。それと単純に不安もある。だから言った。
「SNSに投稿とかしないでね」
「しないよ。」
塩見さんは即答した。そして塩見さんはスマホを掲げ、なんのためらいもなく私を写した。カシャリと撮影音がなる。
「…」
ビクリと肩を震わせ一瞬硬直する私。
塩見さんを見やれば満足そうに微笑んでいる。
「これはわたしの」
彼女はそう言うとコスプレした私が映し出されたスマホを大切そうにその手に包んだ。
それから定期的に塩見さんに呼び出され、コスプレさせられる事になった。そして写真を撮られる。
ある時、私は聞いた。
「友達にコスプレさせたりしないの?」
すると塩見さんは「やっぱりアニメが好きな人じゃないと引かれちゃうから。だから皆には内緒ね」そう言って笑った。
私だけが彼女と趣味を共有できる。ほのかな優越感があった。
そして私達は示し合わせたわけじゃないが、同じ高校に進学した。私達の関係も続いた。
偶然か運命か。同じクラス、隣の席になった。
その頃にはすでに互いを名前で呼び合うようになっていた。
タイミングが合えば一緒に登校することもある。でもなんとなくクラスでは硝子と話すことに遠慮してしまう。
クラスメイトからは私と硝子が特別仲が良いとは思われていないはずだ。
ある日の学校での休み時間のこと。私が自席で本を読んで時間を潰していると硝子達のグループの声が聞こえてきた。
彼女のグループはよく目立つ。それに特別大きな声を出しているわけでもないのにその声はよくとおる。硝子の席は私の隣だが、彼女はその友人たちと話しをする時は決まって場所を移動する。硝子の友人が言った。
「硝子、最近投稿頻度下がってない?」
「そうかな?」
「そうだよ。それにフォロワー数も下がってる」
「うち最近フォロワー数伸びてるからそのうち抜いちゃうかも!」
「うーん、そうかもね」
「どうしたの?前は絶対負けない!とか言ってたのに」
「最近飽きてきちゃったのかも」
「ふーん。そっか…」
その友人は数瞬の沈黙の後、話題を探すように視線をさまよわせてから口を開いた。
「そう言えば五味さん!」
「え?」
硝子が虚をつかれ驚きと疑問の声を漏らす。もしかしたら私も声が出ていたかもしれない。
視線が私に向けられるのを感じる。私は慌てて顔をそらす。そしてより一層聞き耳を立てる
「最近よく一緒にいるね。友達?」
うるさい。友達で悪いか。そう思った。
硝子の友人に悪気があったわけじゃないと思う。けれど自己肯定感の低い私はそこに悪意を見出してしまう。つまり、私と硝子は釣り合わないと言われたように感じたのだ。なんだか無性に恥ずかしくなって目を伏せる。
「え?違うよ」
硝子は平然と言った。
私は頭を鈍器で叩かれたような、猛烈なショックを受けた。だが続く言葉がそれを忘れさせた。
「相棒かな」
「えーなにそれぇ?キザ!」
「ウケる。相棒ってなんのだよ!」
硝子の予想外の言葉にその友人たちが盛り上がる。
「いーじゃん!特別なの!」
そう言って硝子は私を見た。硝子を見ていた私と一瞬目が合うがすぐにそらす。体は強張り、身がすくむ。気まずさを覚える。それでも口角が上がるのを堪えることができず、手を口に当て隠した。
その日の帰り、私は硝子とふたりきりになったタイミングで尋ねた。
「相棒ってなに?」
「聞いてたんだ」
硝子はわざと素知らぬフリをして、小憎たらしい笑みを浮かべた。
「耳に入ってきただけ!それで、相棒って何?」
「わたしが衣装を用意してメイクをする。あさりは表情を作ってポーズをとる。コスプレの相棒だよ。」
「別にコスプレするの私じゃなくてもいいじゃん」
「そんなことないよ。あさり、ちゃんと原作読んでキャラの解釈してから来てくれるじゃん。わたしのレパートリーにないポーズや表情くれるし」
「そうかなぁあ」
「そうだよ。だから頼りにしてるぜ相棒」
硝子はウインクをして茶目っ気たっぷりに言った。
自己嫌悪。不満げな表情を繕って機嫌取りの言葉を暗に強要してしまった。だが、言わせたのだとわかっていても、彼女の言葉は私を魅了する。私の価値を認めて許容してくれる。そう感じさせてくれる。
沼るという表現がある。対象に夢中になり抜け出せなくなる状態を指す心理表現だ。言い得て妙だと思う。
私の中で発散されなかった感情のへ泥が堆積し、沼を形成している。私はその沼にどっぷり浸かって抜け出せない。それどころか私の彼女に対する感情は言語化できず、それゆえ発散できず、積もるばかり。やがて私はその泥嚀に飲み込まれ、深く深く沈んでいくのだ。
今日もまた授業を受けている。教鞭をとる先生の声は意味ある言葉に変換されず、ただ睡魔を連れてくる呪文と化している。
ウトウトしながら寝まいと歯を食いしばっていると、机の下で不意に手を握られた。思わず隣に座る硝子の顔を見たが、素知らぬ顔で黒板に白線を引く先生を見ている。
だが、ニギニギとその手は私の手を握り、指と指の隙間に彼女の指が侵入する。かと思いきや、ぱっとその手を放し、私の手の甲を指でなぞる。
気持ちが舞い上がる。ふわふわとして落ち着かない。ドキドキと鼓動が早まる。期待と不安がせめぎ合う。
彼女にはそういうところがある。不意に私の心を弄ぶ。
彼女に悪意はないだろう。仲の良い友人と戯れているだけ。
ただ私の中にあるやましさがそこに何かしらの意味付けをしてしまっている。
いつの間にか彼女の横顔を見ていた。いや見惚れていたというべきか。
「ねえ」
硝子の声にビクリと肩を震わせ、我に帰る。
硝子は頬杖を付き、からかいの表情で笑う。
「ふふ、見すぎ」
彼女の行動はいつだって心臓に悪い。今も私の心臓はバクバクと常より早い鼓動を刻んでいる。
わかっている。彼女のこれは友愛の証、特別な意味などないただの戯れだと何度も自分に言い聞かせる。
でもわかっていても諦め切れない 。心の奥に名状し難い熱情がくすぶっていた。
授業が終わり、高鳴る胸を落ち着け、次の授業の準備をしていると。
「ねえ、五味さん」
クラスメイトに話しかけられた。最近は色々な人から話かけられるようになった。なんとなくだけどクラスでも目立つ存在の硝子の隣の席に座っていて、たまに会話もしているから、その恩恵で私の株が上昇している気がする。複雑な気持ちもあるが、話しかけられるようになった喜びの方がはるかに大きい。
「な、なに?」
「塩見さんと仲良いの?」
硝子のことを直接聞かれたことは初めてだった。私は困惑し、悩んだがやがて答えた。
「相棒らしいよ」
この答えなら間違いないはずだ。硝子本人がそう言ってたんだし。
私の回答にクラスメイトは冗談と思ったのか笑って言った。
「相棒って?」
「わ、わかんない」
私がそう言うと、クラスメイトはまた笑う。
「わかんないって、なにそれー」
相棒ってなんだよと私も思う。
でも、硝子が示してくれた二人の関係性を表す言葉だ。大切にしたい。
硝子の話をしていると苦手なはずのクラスメイトとの会話も緊張しない。自然と笑いがこみ上げてくる。
「ふ、ふひひ」
私は笑い返した。
放課後。今日も硝子の家でコスプレをする。週二回の頻度で硝子に呼び出され、コスプレしている。
硝子がメイクをする際、私はいつも指示がない限り目を閉じている。硝子が正面から私を見ている状況に気恥ずかしさを感じるからだ。
まずは少し厚めのファンデーション。心なしか今日はいつもより入念だった。
硝子は集中すると顔が近づく。息遣いが肌を撫ぜ、彼女の接近を伝える。
上唇、下唇と左から右へとなぞるリップには毎回ドキリとさせられる。その濡れた感触は彼女のつややかな唇を連想させ心臓が跳ねる。
そして硝子の手が私の片頬を支えた。いつもと違う手順だ。不思議に思っていると柔らかいものが私の唇を塞いだ。
一瞬のことだった。その感触はすぐに唇から離れてしまう。
思わず私は目を開けた。
正面には硝子が顔を赤らめてはにかんでいる。
私は自らの唇に手をやった。
熱い。心臓が跳ねて鼓動が鼓膜を揺らす。
夢・嘘・誤解・妄想・願望 そんな言葉が脳内を占拠する。
この唇の真実は今なお微笑む彼女だけが知っている。