第一話 Be with me
「総一郎」
自分の名前を呼ばれるのが怖かった。呼ばれた時は、母から怒られる時の合図のようなものだったからだ。「この成績は何?」とか「最近、勉強に身が入ってないんじゃないの」とか。毎回、気が重く、胃が痛み、今度は何を言われるのかと怯えていた。この世界から僕の名前だけ消せるなら消したかった。名字の「駿河」だって、身動きできないようにがんじがらめにする「呪い」だった。僕に名なんていらない。ずっとそう思っていた。でも、今は違う。
「総一郎……」
と僕の名前を呼ぶのは大切な人だ。
「咲さん、おはようございます。今日は自分で起きれたじゃないですか」
読んでいた文庫本から顔を上げ、ベッドの方に視線を向ける。そこには眠気眼でうつろな表情をした恋人の姿があった。咲さんは、上半身を起こしただけの状態。この体勢になっただけまだましな方だ。いつもは布団から顔を出すまでに何分も要する。長い黒髪は艶なくボサボサで、頬にはシーツの痕がくっきりとついている。
「もう……朝なのか……」
「そうですよ」
「ウソだ」
「なんで嘘つかなきゃならないんですか」
「こんなすぐに朝が来るわけないだろ」
「一時前に寝て、今七時です。約六時間睡眠に充ててますよ」
「だってさっき総一郎に『おやすみ~』って言ったじゃん」
「それは六時間前です」
「えぇー……」
「そろそろ現実に目を向けましょう。朝ごはん準備しますから」
咲さんはのそのそとベッドから這い出ると、すぐテレビをつけた。観ているというより、垂れ流しているという感じだが。
僕はラップをかけておいた大皿を手に取る。皿にはたまご焼き数切れ、軽く焼いたソーセージ。どれもお弁当に入りきらなかった余りだ。あと、俵型に握ったおにぎり。最悪、咲さんが遅刻ギリギリの時間に起きたとしても、持って行けるようにという考えからおにぎりにしている。そして、昨日の晩ご飯で中途半端に残って別皿に移しておいた、わかめのみそ汁をレンジで温めて出す。
「いただきまーす」
咲さんがゆっくり食べ始めた。僕はもう食べ終わってるので、隣に座って彼女を眺める。食べていくとようやくスイッチが入り、頬が淡く桃色に染まっていく。今日はまだすんなり起きてくれたからよかった。
交際を始めてから、僕と同じベッドで寝ているから、最悪叩き起こすことができる。友人関係だった頃は、電話で起こしたものだ。まあ、電話で起きるような人ではないから、僕は先に大学へ向かい、彼女はいつも遅刻ギリギリに教室に滑りこんでいたけれど。
「今日は六限までの日かぁ~」
「ですね。週に一日だけとはいえ、二限目から夕方六時ごろまで授業を詰め込んでしまったのは少し失敗でしたね」
どうしても受けたい授業が木曜日に集中し、僕も咲さんも毎週ぐったりしがちだ。だから、晩ご飯も帰宅後に作らず済むよう、作り置きを切らさないように注意したり、最悪は外食で対処している。
「来年度は絶対こんな授業の組み方やめだな」
「極力避けたい限りです」
「……あ、課題やんねぇと」
「あのプリントですか」
僕らが五限・六限に受講している日本史の授業は毎週穴埋めの問題用紙の提出を求められる。これを翌週提出することで、出席扱いになるのだ。
「うん。話題に出るまですっかり忘れてた」
「まったく……。ただの穴埋めだけなんですから、もらったその日に……」
「簡単なプリントだからこそ直前でいいやってなるこの気持ちがわからんのか」
「わかりませんね」
「さては総一郎って、好きなもの先に食べる方だな?」
「まぁ、満腹になる前に食べる方が良いでしょう?」
「ワタシは最後まで取っておくタイプだ」
「それとこれとは関係ないような気がしますが」
「まーまー。ちゃんとやるってば。ワタシを誰だと思ってんだよ。提出物をどんなことがあってもちゃんと期日内に提出することに定評のある桂咲チャンだぞ?」
「なぜ、一週間も時間があるのに終わらせないんです」
そう訊かれて咲さんはみそ汁をすすり、一息つく。
「いやぁ、授業おもしろいし、真綾と神楽小路と昼ご飯食べたり、バイトもなんだかんだ社会勉強になるし、なにより総一郎、オマエがそばにいてくれる。ホント毎日楽しくてさ。課題もすっかり忘れちまうんだよ」
ようやく昇った冬のゆるやかな朝の光がカーテンの隙間から漏れ、僕らを照らす。
「いやいや。良い話でまとめないでください。僕も毎日楽しいですけど、ちゃんと提出日の朝には終わらせてますよ」
「ぐっ……」
「僕が課題やってる横でテレビ観て、何も感じないのですか」
「その時はちょっとやる気が……」
「とにかく今回も提出ちゃんとしてくださいね」
「言われなくとも!」
咲さんはそれじゃなくても忘れっぽいから、本当に心配だ。今はほとんど僕と同じ授業を受けてるからいいけれど、一人で受ける授業が増え始めたら単位の管理は咲さん本人がやらなきゃならない。今も自分で把握した方が良いとは思うが……。卒業する直前になって「単位足りない」なんて言われたら取り返しがつかない。
そんなことを知ってか知らずか、彼女は僕と目が合うと、「ふふふ」と笑った。やっぱり僕の心配など気づいてないと見た。お気楽なものだ。でも、そういうかわいいところにどこか助けられてる僕がいる。そして、僕は今日も彼女を甘やかしてしまう。




