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【10.あとがき ~下山してなお想いは黒部に~ 】

【あとがき】


 私は今回の山行中、いやというほど黒部の厳しさを感じた。そして本紀中で何度もふれたが、この道を切り開いた行為と、いまこの時も実際に稼働しているということに、たいへんな感銘を受けた。

 山から戻ってからも、受けた感銘はなかなか薄れなかった。それどころか、もっともっと黒部を知りたいという探求心が大きくなる一方だった。

 私は手始めに、関西電力にコンタクトをとろうと試みた。下の廊下は関西電力が維持している。黒部の冬という猛威により毎年桟道が吹き飛ばされながらも、わずか数ヵ月の間の雪が少ない時期にだけ、たいへんな苦労をしてあの道を維持しているのだ。それがいかに偉大なことかは、すべてを歩き通したことで、全身の感覚をもって体感していた。最大の疑問は、行為の偉大さとは裏腹に、一企業としては当然生じているはずの、多大なコストという問題に対して、いかなる費用対効果を期待して、また、いかなるモチベーションをもって、維持管理をおこなっているのかということだった。

 私は関西電力のホームページから、その疑問について質問をしてみた。

 “黒部ダム旧日電歩道の整備について教えてください。先週そこを歩いてたいへん満足するとともに、御社の非常な努力を感じました。そこでふと思ったのですが、わずか1ヵ月程度の開通期間のために、御社はなぜ経費を投じて整備されているのでしょうか?”概ねこのような内容の質問を送った。

 すると数日して、関西電力の広報室から折り返し以下のような回答が返ってきた。

 “黒四建設(黒部川第四発電所、黒部ダム)に伴う許可条件として、当時の厚生省から、旧日電歩道を維持し、公衆の利用に供することが示されており、これに基づいて毎年、当社が補修工事を実施しています。今後とも、弊社事業にご理解とご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。”

 私はこの簡潔な回答に、さらに感銘を受けた。なんと淡々とした回答であることか。彼らにとっては経費云々の問題ではなく、義務と考えて、毎年粛々と補修工事をおこなっているのだ!ひとくちに義務と言っても、私はその作業の密度をじかに体験している。義務的に最低限の作業をしているだけだといった印象はまったく感じなかった。いかに早く、言い換えればいかに長い期間利用できるかを考慮して、悪条件と天候をにらみながら工事を段取り、各地に資材を置いたりして効率化をはかっていた。そして、いかに安全に通行できるかという配慮のもと、工事箇所には優先度をつけて作業を進めていた。実際の作業現場には行き合わせなかったが、いくつものタグや急場しのぎのロープの仮設状況など、その努力の痕跡はあちこちにあったから、そうした取り組みの姿勢はまざまざと感じることができたのだった。いかに義務でやっていることとはいえ、通行する者の目線に立たなければ決してできないことだった。私はそこに、彼らの愛情すら感じていた。現場の作業員と広報室の社員とでは温度差があろうが、義務だと一言で言ってしまう彼らは偉大に過ぎた。

 関西電力から回答を得たが、水平歩道の一切は依然として謎のヴェールに包まれたままだった。

 黒部ダムの建設に関しては、石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」が詳しい。私はそれを見たことがあるし、また、香取慎吾が再演したテレビ番組も見たことがあるから、都合、二度見ていることになる。だから、黒部の第四発電所――いわゆる「黒部ダム」――の建設については、すでに予備知識を持っていた。しかしそこで描かれていた舞台の大半は、長野県の大町市側から掘削されたトンネル工事であった。今はトロリーバスが通っているトンネルである。ダムもトンネルも、下の廊下へ進入するときに実際に通行している。しかしそれはほんのわずかな区間だけであった。非常な難工事だった区間のある後立山連峰は未踏の地だし、肝心のトロリーバスには乗車していないため、トンネルの核心部に接触してはいなかった。だから、今回の山行において「黒部の太陽」は直接的にはあまり関係がなかった。もちろん、作品の中で、水平歩道を使った資材運搬において多くの人命が失われたことは触れられていたが、それはごくわずかであった。水平歩道――旧、日電歩道――のすさまじさに対する私の探究心は、満たされていなかったのだった。

 黒部の電源開発の歴史を考える上で、「黒部の太陽」とともに必ず取り上げられるのは、吉村昭氏著「高熱隧道」である。下の廊下を研究している際に、すでにその著書の存在は知っていた。先に読んでから行くのが良いのか、あるいはその逆が良いのかは分からないが、私は後者を選んだ。既成の概念を持った状態で行くのではなく、まずは黒部の自然を感じてみたいと考えたからであった。

 そうして期待以上の感動を得て、旅から帰った私がまっさきに「高熱隧道」の書籍を求めたのは、しごく当然のことであった。私はむさぼるように読んだ。舞台は、昭和十一年着工の黒部第三発電所建設である。戦後の第四発電所建設よりはるか以前、しかも昭和十四年のノモンハン事件より数年も前の、およそ機械化されていない時期である。電力需要の急増による電源確保が工事の引き金であったことは第四発電所と同じだが、国土の狭い我が国においては、水力発電を求めるに従って、険しい上流域に踏み込んでいかなくてはならないのだった。

「高熱隧道」で主に描かれていたのは、阿曽原から仙人谷までの区間であった。ダイナマイトで爆破してはドリルで人力掘削して、そして出てきた岩屑を人力で排出する。そしてまたダイナマイトで発破する、その作業の繰り返しである。それが、掘り進めるに従って岩盤は高熱化し、最高で百六十五度もの高熱帯に至ったというのだ。ただでさえ、そのような区間には入れようもないものだが、そこで何時間も滞在して人力工事をしたというのである。ダイナマイトを岩に接触させただけで爆発した事故などが描かれるなど、環境のすさまじさはもちろん、工事を進める中での様々な苦悩と歴史が綴られていた。

 それにもうひとつ、冬期の工事中、志合谷にあった工事作業員の宿舎が受けた、ホウ(泡)雪崩の被害についても描かれていた。ホウ雪崩は音速の三倍もの威力があるという。直撃を受けた宿舎はひとたまりもなく吹っ飛ばされ、建物ごと形を保ったまま、北東方向に六百メートルも空中を飛行し、対岸の奥鐘山の岩壁に激突したとされる。死者は八十四名、奥鐘山の岩壁への激突死といわれるこの大惨事は、黒部の自然の猛威を如実に示すものであった。

 仙人谷も阿曽原も志合谷も、私が歩いてきた道のりである。仙人谷や阿曽原で見たあの謎のトンネルは、高熱の隧道工事で使用された横穴だったのだ。そして、現在は関西電力の専用軌道として利用されている高熱隧道の保守用に、今もなお使われていることだろう。私は「高熱隧道」を読んで、旅のあちこちで垣間見たものが次々とつながっていくような気がした。私たち一般人の立ち入れない空間には、想像を超える時空のドラマが存在しているのだった。

 それからも私は黒部に関する資料を探し続けた。直接それを題材にしたものは見つからなかったので、土木史やダムの構造学,ひいては廃墟に関する本など、関連しそうなものを次々とあたっていった。最後に、鉄道史に関する本の中で、黒部のトロッコ電車に関する記事を読んだ。本紀中、あとから分かったこととして記した内容が、その本に由来する。

 再述となるが、黒部鉄道では冬期中は軌道を外すという。それほどに黒部の冬が厳しいということは、志合谷のホウ雪崩の事例を見ても想像に難くない。そして運転が再開される春には、付近の斜面が雪によって緩んでいないか、あるいは落ちてきそうな石がないかどうかなどを、つぶさに調べて回るのだという。一鉄道会社としては意外にも車両の保有種類数が国内でも屈指という黒部鉄道では、営業運転していない冬期中、それらのすべての車両を点検しているという。それも、夏期は運転士や駅員として勤務する者も総出でというのだから驚きだ。車両も線路も、そうした地道な点検によって、安全が守られているのである。

 私は下山してからも、こうしていろいろな資料を読んだ。知れば知るほど、黒部の魅力をますます感じた。そうさせるものが黒部にはあった。私は、紀行文を記しながら、自分自身の中にある“黒部”が輝き続けているのを、強く感じた。


 終


 記:2016.9.28~2017.3.5


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