其の一
街の中心部にある駅の近くの、二年前に新築されたオフィスビル。 ここの4階が私の職場で、広い1フロアを3社が事務室として使っている。 9時前になると、出勤する人や営業に出向く人で廊下はごった返し、二基あるエレベーターは待ちが当たり前。
この出勤時間帯にはうんざりだ。 このラッシュを避ける為に本当はもう少し早めに出勤したいのだが、あまり早く出勤すると例によって正社員達が良い顔をしない。 なので私は仕方なく、毎日スーツの波に揉まれながら、始業ギリギリに事務室に到着するようにしていた。
「…… あれ? 」
自分の席から真正面に見える事務室のガラスのドア。 その向こうに見えるのは、昨日私がエレベーターでぶつかりそうになった高校生の男の子だ。 誰かを探しているように見えるけど、問題はそこじゃない。
その高校生を、通りかかる社員達は全く気にせずに行き交っていた。 普通なら部外者がいれば声くらい掛けるのだろうが、誰もお構い無く通り過ぎる。
(あぁ、なるほど…… )
あの子は幽霊で、他の人には見えてないのだ。 よく見れば彼には影がなく、周りから少し浮いて見えた。 そんな彼は周りをキョロキョロし、必死に通りがかる人達を避けている。
(幽霊なんだからぶつからないでしょ…… )
「美月ちゃんどうしたの? 」
隣の席に座る秋元 かなえちゃんが声を掛けてきた。 この会社の社員だけど、派遣社員の私を同僚として接してくれる唯一の人だ。
「うん? いや、なんでもないよ 」
あの高校生が何を探しているか知らないけど、私には関係のないこと。 それよりも、私が見えざるものが見えてしまう事がバレる方が一大事だ。 見て見ぬふりをして、デスクに積み上げられた書類を手に取った。
(お仕事お仕事! )
キーボードを叩いて打ち込みを始めるが、一度気になってしまうとどうしても目が行ってしまう。 見ないようにしても、視界の隅に入ってくるあの高校生の行動が気になって仕方がなかった。
(なんで避けなきゃならないの? 幽霊って実体ないんだから避ける必要ないじゃん )
幽霊のくせに、一生懸命他人とぶつからないよう避けている様につい笑ってしまう。
「どうしたの? 今日ちょっと気持ち悪いよ? 」
「え? いやなんでもないよ! ゴメン 」
苦笑いを向けるかなえちゃんに苦笑いを返し、一つの書類の束を打ち込んだところでとりあえず休憩。 トイレに行くついでに幽霊の様子でも見てみようと、席を立って事務室を出たが、その高校生の姿はもう見当たらなかった。
(いや、下手に関わらない方が身の為よ )
それは幼い頃の経験で分かっている。 ホッと胸を撫で下ろし、エレベーター横の自動販売機でコーヒーを買って、脇の窓から見える景色を見ながら私はプルタブを起こした。
仕事が終わり、夕焼けの街を歩く。 少し風が冷たくなってきたし、そろそろ秋物の服でも買おうかとショッピングモールを覗いて見ることにした。
「あ…… 」
向かいから周りをキョロキョロしながら、あの高校生が歩いてくる。 何を探してるんだろ…… 私はショーケースを覗くフリをして彼をやり過ごす。 彼はスッと私を避けて、そのまま通り過ぎていった。
やっぱり避けるんだ…… 死んだことに気付いていない浮遊霊かな? 通り過ぎた彼をチラッと振り返ってみると、そこで彼と目が合ってしまった。
「あ…… 」
彼はエレベーターでぶつかりそうになった時と同じように、目を見開いて驚いた顔をしていた。 しまった……
「あ…… ああ…… あの! 」
彼が何かを言おうとしたが、私は無視して歩き出す。 見えてない…… 私は何も見えてないし何も聞こえてない…… そう言い聞かせてこの場を早々に立ち去る。
「あの! 僕の事見えてますか!? 」
彼は私の前に回り込んで大声を出すが、構わずそのまま無視し続けた。 ああいうのに構うと後々ロクなことにならないのを、私は過去に経験済みだ。 年下でちょっと可愛い顔をしてるけど、構うつもりはないのよ…… ゴメンね。
彼はその後何度も私に絡んできたが、気付かないフリを続けると諦めて私から離れていった。 可哀想だけど、私にはどうしてあげることもできない。
(今日は買い物をやめて帰ろう )
私はショッピングモールを素通りして帰路についた。
翌朝、オフィスビルのエレベーターの前で私を出迎えたのは、真剣な眼差しで私を見つめるあの高校生の彼だった。
(無視! )
ちょっとしつこく付きまとう彼に呆れて、私は彼の横を通り過ぎる。 と突然彼は私の前に立ち塞がったのだ。
ドン!
「痛っ! 」
彼と真正面からぶつかり、よろけて転んでしまった。
「へ? 」
(ぶつかった? なんで幽霊さんとぶつかるのよ!? )
こんな経験は初めてだ。 思わず彼の顔を見てしまい、彼と再び目線が合ってしまった。 彼は私に微笑んで手を差し伸べてくる。 ヤバ…… 見えてるのがバレた……
周りの他の社員の視線が私に集まる。 転んで座り込んでいる恥ずかしさよりも、幽霊さんとぶつかった事が衝撃的過ぎて私は動けなかった。
「どうしたんだい安倍くん? 」
出勤してきた田中課長がいいタイミングで話しかけてくれた。
「お、おはようございます。 ちょっと何かにぶつかっちゃったみたいで…… 」
すぐに田中課長に目線を移し、苦笑いをしてみた。 課長は『大丈夫かい?』と手を差し出してくれたが、その後ろから出勤してきたかなえちゃんが駆け寄って来た。
「どうしたの美月ちゃん! 課長に襲われちゃったの? 」
「違うよ、課長は転んだ私に声をかけてくれただけ 」
かなえちゃんは課長がキライらしい。 フーっと猫みたいに課長を威嚇しながら私を引き起こしてくれた。 田中課長はやれやれと苦笑いしながらエレベーターに乗り込んでいく。 雰囲気的にエレベーターを一本見送りたかったが、私は課長の後に続いてエレベーターに乗り込んだ。
「疲れてるなら休んだ方がいいよ? 」
自分の席についた私の肩をポンポンと叩いて、自分の椅子を引っ張ってくるかなえちゃん。 課長にも先程のお礼を言うと、かなえちゃんと同じことを言われた。 とりあえず仕事は溜まっているのでパソコンの電源を立ち上げる。
(ちょっと落ち着いて考えよう…… なんで実体のない幽霊とぶつかった? 他の物か? いや確かに私はあの高校生にぶつかって転んだ。 彼は幽霊でありながら物に触れるの? いや、そもそも彼は幽霊なの? )
「ねぇかなえちゃん、さっき高校生っていた? 」
「…… どこに? 」
「エレベーター前 」
「…… ここ学校じゃないよ? やっぱり休んだ方がいいんじゃない? 」
「だよねぇ。 なんでもない、ありがと 」
やっぱり皆には彼は見えていない。 物に触れられる幽霊なんて初めて見た。 死んだ時の心残りが多かったらああなるのかな……
「安倍君、顔色悪いけどホントに大丈夫? 早退してもいいよ?」
普段なら『休まれたら困るよー』とか言ってくる課長まで私を気遣ってくる。 動揺はしてるけど、別に体調が悪い訳じゃない。 ファンデーションのコンパクトに付いている鏡で自分の顔を見てみると、確かに血の気が引いて青ざめた顔をしていた。
(お言葉に甘えちゃおうかな )
「すいません。 具合良くないんで病院行って来ます 」
課長から早退届を受け取り、かなえちゃんにお大事にと見送られ、他の社員に白い目で見られながらも私は事務室を後にした。
(まだいる…… )
エレベーターでビルの一階に降りると、正面玄関の自動ドアの隅にあの高校生が立っていた。 多分私を待ち構えていたんだろう…… 気味が悪くなって、私は彼に見つからないようにそそくさと裏口玄関からビルを出た。