Autumn Leaves
旧友がピアノバーを甥に譲ったと絵葉書を寄越してきたのはいつの日だったか。
しばらくして正式に演奏依頼が封書で届く。もう、いいだろう、とレディは諾のサインを記した。
様々な思い出と共に去った故郷へ十年ぶりに戻る。
通い慣れた道は黄や黄緑の葉に覆われていた。茜色のヒールで遊びながら歩道を歩くと、やがて変わらない古びた看板が見える。
懐かしさを覚えながら緑色の手すりに手をかけた。
脳内に流れ出すメロディ。
初めてジャズを知った日の映像が鮮明に蘇り、レディはほろ苦く微笑んだ。
抑えられた照明
手元に落とされた暖かい光
黄ばんだ象牙の鍵盤に
柔らかく指を置かれた。
派手に聴かせるでもなく
無造作なように見える動きで紡がれる音に
少女は目を丸くして
釘づけになっていた。
ピアノの上を滑る手の陰
音と共に動く指に見惚れていると
いつの間にか
ベースとドラムが入っていた。
****
街路樹の銀杏の葉を楽しみながら、デビィという店を訪ねたのは実に十年ぶりだった。
くすんだ濃い緑の螺旋階段に入り込んだ黄葉がくるくると舞いながら降りてくるのを眺めながら半地下に降りると、クローズドと札が掛かっている重い防音のドアを静かに押す。
「お帰りなさい、レディ」
「十年ぶりなのに?」
「あなたが帰ってきたら、そう言うようにと叔母からの伝言です」
「そう。デビィらしいわね」
柔らかく楽しげに笑うレディは肩で揃えられた黄金色の髪を揺らしながらマフラーを取った。年季の入った椅子の背にふわりとかけ、指慣らししても? と店の奥中央にあるピアノへ歩み寄る。
「もちろん、お待ちしていました」
「変わらなく在るのね」
照らされた光の中に入り、黒光りする蓋をそっと撫でると、キィ、と微かに軋むそれをいたわりながら開けた。
無作為にコードを弾くと、包むような音色が響きわたる。
「ありがとう」
この音色を守ってくれて。
「どういたしまして、レディ」
レディが言外に込めた感謝を正確に読み取って、嬉しさを眼鏡の奥に閉じ込めて微かに上がる口元で表現した顔が、デビィと少しだけあの人に重なった。
「少し、似ているわ」
「よく言われます。少しだけ大叔父に似ていると。もっとも、私はピアノもなにも弾けないのですけれどね」
「あら、残念ね。でも、囚われないで済んだなら、それはそれで良い人生よ」
「そうですね、感謝しています。聴くことで満足出来る。今夜はあなたの演奏で」
「満足させられるかしらね」
「大叔父を魅了した音ならば間違いなく」
言ったわね? とレディは片眉をあげピアノ椅子に座ると、気負いなく奏で出した。
誰に聴かせるでもなく弾かれた曲は、内包的で熱くもあり、時に消え去るように切なく、コントロールされていない素の感情を露わにする演奏だった。
「それが、大叔父に聴かせた音?」
訝しげに問う若き声に、ピアニストは楽しそうに笑った。
「そうよ、悔しくてこんな演奏をしたのよ。あの人は喜んでくれたわ。自分にはもう出せない音だ、って」
「へぇ」
「だから私は言ってやったわ。
〝気にしなくていいのに〟
ってね」
「大叔父は、なんて?」
「破茶滅茶な演奏をしてくれたわ」
「聴きたかった」
「楽しかったわよ」
普段ピシリと栗色の髪を撫で付けて俯き微かに首を振るぐらいの人が髪を振り乱して演奏する様に、込み上げくる愉悦感に酔った。
自分の音があの人を弾けさせる。
自分だけが。
「でも、やがてあの人はいつものスタイルに戻った」
「楽しかったのに?」
「楽しいだけじゃ食べていかれないもの」
「そうですね」
「私との繋がりもそこで切れたわ」
レディはそう微笑んで言うと、木目が見えるほど触られ続けてきた黒鍵を柔らかく指で撫でた。
そして奏で出したのは、洗練されたジャズスタンダード。
「あなたもあなたのスタンダードを見つけた」
「私は私だもの」
「自分は自分にしかなれないし、巨匠のようには弾けない。それでいい。大叔父の言葉です」
「自分も巨匠の癖に。生意気な時期もあったのね」
「誰しも若かりし頃があった、という事ですよ」
「あなたも相当、生意気よ」
「よく言われます」
弾き終わる頃にはすぐ側にまで来ていた若人に、さ、指慣らしはもうおしまい、とレディは笑った。
「そんな急いで逃げなくてもとって食いませんよ、レディ」
「食あたりを起こすからやめておいた方がいいわ、デビィの甥っ子さん」
「こんなに美味しそうなのに?」
「私は枯葉よ」
枯葉、ね。
若人は可笑しそう口ずさむと、座ったままのレディの顎を捕え、美しく引かれた薄い紅に自分を刻むようについばんだ。
「枯葉はこんなに赤くはないですよ、レディ」
唇よりも鮮やかに色んだ頬をからかわれてレディはふいと横を向いた。
「こういう時には誰しも染まるわよ」
「妬けますね」
「もう居なくなった人に妬いてもね」
「だからこそ、ですよ」
未だ、あなたを捕らえて離さない。
そう耳元で囁く掠れた声が、あの人に似ていた。
見上げれば、苦しそうに求めているヘーゼルアイズ。あの人とは違う暖かみのある色に、ほっとしつつも、自分と同じく囚われた瞳にその先の行く末を見る。
「悪いことは言わないから、やめておいた方がいいわ」
「なぜ?」
「私と同じように傷つくから」
「臆病ですね」
「なんとでも言って」
そう答えてまた横を向くレディの白く筋が浮かび上がるほど固く握られた右手を若人はそっと持ち上げた。
何もつけられていない薬指の付け根に唇を落とすと、頑なな指が少しだけ緩む。
愛おしむように節にそって指先まで到達すると、表情の見えないレディの首元がまた染まっていた。
「お返事は今晩の〝Autumn Leaves〟で」
「弾かないかもしれないわよ」
「リクエストします」
「嫌な人ね……冬のように弾くわ」
「楽しみにしています。レディ」
その夜、再びバンドメンバーと共に現れたレディ・アジル・トリオの演奏は、過去に無い程のスタイリッシュな音色だったと語り継がれる。
ただ、いつもは冒頭にもってくるスタンダードの曲はアンコールの最後に締められ、ピアノソロでしっとりと甘やかに奏でられた音色に人々は酔いしれた。
弾き終えたピアニストは何故か一瞬右手で顔を隠すと、すぐに吹っ切れたように立ち上がり拍手を受け、艶やかに彩られたルージュの口元を柔らかく緩ませながら深々とお辞儀をした。
fin
お読み頂きありがとうございます。
本作は遥彼方さま主催
「紅の秋」企画、参加作品です。
企画にはこの他にも素敵な作家さまの作品が数多く寄せられています。
よかったら「紅の秋」企画と検索して頂けると新たな作家さまとの出会いが見つかるかもしれません。
あなたの毎日に、素敵な音楽と文学が共にありますように。
*イメージ曲
ビージー・アデール・トリオ - Autumn Leaves
ビル・エヴァンス・トリオ - Autumn Leaves
ビル・エヴァンス・トリオ - Waltz For Debby