ミサンガ
真っ赤になった車輪に、地獄のような烈火が奔り、その中央に、ひどく不気味でおどろおどろしい巨大な男の顔面が据えられていた。確か、輪入道、そんな風に言ったはずだ。ついさっき見た図鑑のページに載っていた。
実際にこんな非科学的な生き物に遭遇するなんて、火事に巻き込まれることより稀有な気がした。
そいつは僕の方を見て、化け物サイズの両眼をぐりぐりと踊らせた。
多分、殺される。直感するのに、一秒とかからなかった。
振り向いて扉の方を見ると、いつの間にか扉の前を陣取るように化け物は佇んでいた、不気味すぎる笑みを浮かべながら。
「――!」
服の袖で覆った口元から、声にならない声が漏れた。それでも、百鬼さんを助けるまでは止まれない。
例え今、もう、彼女がこの世にいないとしても、そんなことはお構いなしだった。その位、僕も引き返せない所まで来ていた。
振り向いてエスカレーターのあるフロアの方へ走り出す。最低な笑みを湛え、最高に僕を見下したような両目は、僕の横の列を着かず離れず並走してきた。
―― 遊ばれている ――
恐怖と悔しさが一緒になって襲って来て、本棚から傾いた本一冊を掴み取り、思い切り投げつけた。だが、本は獲物を捕らえることは無く、それが放つ灼熱で灰と化してしまった。
―― 畜生! ――
目が熱いのは、きっと涙の性ではなくて、煙か炎の所作だ。それでも、自分が涙を流していると信じることが出来る位悔しかった。
車輪が僅かに傾いた
僕の目の前に
そして、大きな口を開けて
「――― ……っけて!!!」
腕が恐怖で固まって、押し込めていた悲鳴が漏れ出した。
死にたくない!
まだ死ねない!
まだ、百鬼さんに会えてないのに!
破裂音が轟いた。
膝を折って動けなくなっていた僕の頭上を、輪入道がとんでもない速度で吹き飛ばされていった。幾つもの本棚をなぎ倒しつつ。
そして、目の前には、僕と同じくらいの背丈の影が立ち尽くしていた。
影。そう、影。
燃え盛る炎と、立ち込める煙で、しっかりと姿を確認することは出来なかった。
「――――――!!!」
背後から野太い悲鳴が聞こえた。
振り返ると、ぼんやりと白く光る何かが、輪入道の顔面を踏み抜き、車輪が真っ二つに割れていた。
「―――――――」
その白い生き物は、静かで伸びやかな長い咆哮を上げた。狐に似た優しい響き。僕には何故か、その生き物こそが、僕を救おうとしてくれた、偽物の彼女であることが直感出来た。
僕がその光に目を奪われていると、背後から凄まじい力で引っ張り上げられ、僕の体は床から五十センチほど浮き上がった。お腹が肩の上に載せられる。煙の毒が回りかけていた僕には、その力に抵抗することなど不可能だった。
―― どっちにしても死ぬしかないのか ――
頭が回らない。気力も切れてしまったみたいだ。呆気なかった。好きな子のために死ぬならいいや、そんな風に思っていたけど、思い切り無様に死のうとしている自分には、怒りを通り越して諦観にも似た呆れしか浮かばなかった。
「百鬼さん。ごめんね」
そう呟いた瞬間、僕を抱えていた影の動きが止まった。
そして、強い振動、破砕音と共に、目の前のガラスが吹き飛んだ。
「―――――」
何かを呟いて、影は両腕で僕を抱え上げた。そして、助走を付けて、僕を青い空の下へと放り投げた。
僕の脇の下あたり、何か違和感があって、僕はぼんやりと目を開けていた。
重力に囚われた上も下もない空間に放られて、それでも尚、僕の目には、僕を投げ飛ばした赤黒い腕が、ライトブルーのミサンガを巻いていたことを鮮明に捉えていた。
それから先は覚えていない。意識はその光景を捉えた瞬間に途切れたのだ。噴水だったか、枝葉重なる木々の上だったか、何処かの上に落ちたお陰で、僕は一命を取り留めたのだ。
謝謝。
次で最終話です。